5 ~伝承の大樹と蝙蝠の慟哭~(3)
「オーリィ、ケイミー、この樹は『伝承の大樹』と呼ばれているわ。この樹はね…… りんご園の、大切な宝物なの」
「……え?」
コナマのその言葉に、母と娘は同じ声をあげた。
「この話はね、代々のりんご園の園長だけに伝わる秘伝……のはずなのだけれど、私は婆ァ様に聞いたことがあるの。どうして婆ァ様が私に漏らしたのかはよくわからないのだけど。今は枯れ木のように見えるこの樹。もう何十年も、もしかしたら百年以上もこの樹はこの姿のまま。でもとても不思議なことだけれど、この樹は生きているのですって。そしてね、園長が代替わりする時にね、次の園長に選ばれた人は、先代にこの樹の前に連れて来られてこう言われるそうよ。
『この樹を決して絶やすな、いつの日か必ず、この樹に緑を取り戻させよ』。
それがこのりんご園の伝承。婆ァ様も、その時の園長だった先々代の長老様からこの言葉を受け継いで、そして一度はシモーヌに受け継いだはず……でもそれを、婆ァ様はオーリィ、あなたに託そうとしている……シモーヌにではなく」
「そんな……!私に?どうしてですの?」
「さっき言った通りさ。お前にしか出来ない、あたしがそう思ったからだよ」
三人の後ろから声がした。言うまでも無い、その声の主はよだか婆ァ。
「……シモーヌかい?どうやら少し落ち着いた。だからあの役場の小僧に預けてきたよ、見ていてくれると言うんでね。あの小僧はなかなか見どころがあるよ、若いのに情けが深い。モレノの下でこき使われてるなんざ勿体ないねぇ」
いつの間にか、よだか婆ァは一同に追いついていた。そしてコナマの物問いたげな視線にまず返事を返してから、あらためてオーリィに向き直って続けた。
「そうさ、あたしの『カン』だ。深い理由なんぞ無い。言ってみりゃそうだね……
お前が変わり者だから。天邪鬼で頑固で、当たり前のことが当たり前に出来ないくせに、とんでもないことは平気でしでかす大馬鹿者だから。だからお前を選んだんだ。いいかい!よく聞きな」
急き込んで何かを問おうとするオーリィを、よだか婆ァはするどい眼光で制してさらに続けた。
「ありゃぁ一体どの位昔の事だったのかねぇ、あん時のことは今でも昨日のことのように思い出せるのに、それだけは覚えていないんだ。いいや、昔の事だと自分で思いたくないんだろうね。あたしの一番大切な思い出だから。
あの日あたしは先々代様に連れられて、この樹の前に二人きりでやって来た……」
「よだかや、どうです今日の気分は?引継ぎ式はどうでした?」
「へい、昨日はあんなに盛大にしていただいて、晴れがましいやら恐れ多いやらで……よりによってこのあたしが園長だなんて、なんだか胸がザワザワしてよくねむれませんでした」
「そう、今日からあなたが園長。といって、特別に何か変わるわけではありませんよ。もうここ何年かは、園はあなたに任せていたようなものではありませんか。りんご作りもみんなの指導や取り仕切りについても、私にはあなたに教えることも指図することもほとんど無くなりました。安心して園を譲れます。肩の力を抜いて、今まで通りでよいのですよ」
と。往時の長老【野鹿のサーラ】はいつものように穏やかな口調でよだか、すなわち後のよだか婆ァをねぎらった。だがすぐに。
その表情が厳粛な面持ちに代わった。そして、かつてよだかがこの人物から聞いたことの無いような重々しい言葉でこう続けたのである。
「ただ、あと一つだけ、言っておかなければいけないことがあります。これを伝えておくことが、私の園長としての最後の仕事。これを胸にしっかり刻むことが、あなたの園長としての最初の仕事です。心を調えてよくお聞きなさい」
「ひえっ!!」
よだかは喉の奥から頓狂な叫びを一声あげると、長老サーラの前で直立不動にかしこまった。敬愛止まない偉大な師であり大恩人であるサーラが自分に最後に教示すること、それはいかなる重大事であるのか?調えるどころか、彼女の心臓は緊張のあまり早鐘のようだ。震える声を絞り出して、どうにかこう答えた。
「何でも……何でもおっしゃってください!あたしは、サーラ様のおっしゃることは決して忘れません!!」
「そうですね、よだかや、あなたはいつもそうでしたね。そんなあなただからこそ、私はこの言葉をあなたに託すのです。私には、あなたにしか託せないのです。
『この樹を決して絶やすな。いつの日か必ず、この樹に緑を取り戻させよ』。」
「……へ?」
「この樹」とは?何事を言われたのか、よだかには一瞬わからなかった。キョトンとしたその顔にサーラは頷きをかえすと、目の前の巨樹に歩みよって愛おし気にその幹を手で撫でた。
そう、よだかは初めからぼんやりとした疑問を持っていた。園長として初めてその任に着くこの日、大役に意気込んでいた彼女はいつもよりずっと早く園に来たのだが、そこにはすでにサーラが先にいて、どうやら自分を待っていたようなのだ。
「やはり今朝は早いですね、よだかや。だと思っていましたよ、張り切り屋のあなたのことですから。でもまだ皆は来ていない。仕事始めには大分時間があります。私と話をしましょう。着いてきてください」
そう言われて来たのが、園を大分外れたこの場所、一本の大きな枯れ木の前。
なぜこんなところに?と。
「この樹」とはどうやら長老の撫でているその枯れ木のことらしい、ようやく悟ってはみたものの、ならばなおさら長老の言葉の真意がわからない。こんな枯れ木を「絶やすな」とは?「緑を取り戻せ」とは?そしてどうしてそれが、そんなことが!わざわざ自分を早朝から待ち構えてまで伝えたい「最後の教え」なのか?
「そうですね。私もそうでしたよ、よだかや。私にもわからなかった……先代の園長様が私にこの言葉を伝えて下さった時、私も今のあなたと同じ思いでした。
私の先代は、その頃既にご高齢の方で……前の世界と合わせて160歳以上とお伺いしていました。
ですから実は、もっと以前に私が園長を継ぐ話が内々で進んでいたのです。ですが、それより前に長老様がお隠れになられて。急に私が長老に選ばれたのです。園長様は『村のためなら』とおっしゃり、私を手放して、ご高齢をおしてなおもその後りんご園の園長をお続け下さった。そしてとうとう、今度はその園長さまがお倒れになった……私が長老になって5年ほどもたった時でしょうか。
そして。ご老衰の最後の床に着かれた園長様に、私は呼ばれて会いにいったのですが、私の顔を見た園長様は、最後の力を振り絞るように立ち上がると、私の手を引いて……お弱りになっていたはずのあの方が、私の手を引いて!
この樹の前に私を連れて来て、私があなたに聞かせたのと同じ言葉を伝えると。
それを最後のお言葉として、その場でお命を天に還された。
そう、よだかや、今私とあなたが立っているこの場所で、ね……」
よだかはギクリとして辺りを見回し、そしてあらためてサーラと目の前の枯れ木の巨木を見つめ直した。次第にわかってきた事の重大さに肩を震わせながら。
「先の園長様はおっしゃいました。『サーラ、お前が今、長老の大役を務めてくれていること、よく承知している。私はお前を手放してからずっと、お前の代わりにこの言葉を受け継いでくれる者を求めていた、探していた、育てようとした。だがそれは叶わなかった。私の力不足を許して欲しい。今私は園長の務めをお前に託すしかない、お前しかいないのだ。ああ……そして過去代々の園長様、私では果たせませんでした、あなた方に託されたお言葉を全うすることが。お許しください……』
それは本当に、血を吐くようなご懴悔だったのです。
そうです。よだかや、先ほど伝えた言葉は私だけの言葉ではありません。幾代にもわたる園長様方が受け継いだ、このりんご園の悲願なのです。わかりますか?
この樹は枯れてはいません。こんな姿になっても、まるで朽ちて倒れない。何か私たちの理解を超えた尊い命なのです。それを守り蘇らせること、それが園長になった者の使命。私はあなたにもそれを伝えなければならない……
もう一度言います。決して忘れてはなりません。
『この樹を決して絶やすな。いつの日か必ず、この樹に緑を取り戻させよ』
先代様、申し訳ありません、私にも果たせませんでした。お詫びはいつの日か、あなたのおわすところでもう一度。ですが、このよだかならきっと……!」
「そのサーラ様の最後の一言、そのお顔!それこそ血を吐くようなお顔だった。さぞやお悔しかったのだろうと……あれをどうして忘れることが……そんなこと出来るもんか!!それにだ。あたしは嬉しかった……嬉しかったんだよ、誇らしかった!サーラ様があたしに、そんな大事なことをお任せ下さったことが!!
その日からね、この樹を生き返らせることが、あたしの生きがいになったのさ。一日だって忘れたわけじゃない。だけどね。
どれだけ世話をしてみても、この樹は元に戻る気配がない。とうとうね、あたしにもわかったのさ、あの時のサーラ様のお気持ちがね。悔しかった……
でもね、そこに現れたのさ、シモーヌが。
シモーヌにはね、あたしはあたしの全てを教え込んだつもりさ。
それにシモーヌはあたしとは違って最初から素質があった。あたしはね、生まれてすぐに見世物小屋に売られて、檻の中に入れられて、教えられるのは芸ばかり。長い事言葉だってろくに話せやしなかった。あたしはね、字はここの村の字しか知らない。前の世界じゃ一文字だって読むことも書くことも出来なかった、死ぬまでさ!
シモーヌには『学』がある。あたしは一を聞いたら一を覚えるしかなかった。そうやってただバラバラにガムシャラに、サーラ様のお言葉を頭に詰め込むしかなかった。でもシモーヌは違った。先が読めるのさ。それに別々のことを一つに、一本の筋にまとめることが出来た。一教えれば三までピンときた。四と八を教えれば間の五、六、七まで全部わかっちまう!だからあれは、あたしが5年で覚えたことを2年で、10年で覚えたことを3年で、20年かけてやっとあたしが身に着けたことを、5年ですっかり覚えちまった!それにシモーヌは多分……ありゃぁ昔から『人の上に立ってた』んだね。そういう貫禄が最初からあったのさ。園の若い娘なんぞはみんなシモーヌを慕ってる、あたしよりもね。あれは、シモーヌは、あたし以上の園長になる、いやもうとっくに越えられちまったかも知れない。あたしから教えてやれることは随分前に無くなったけれど、あれの性分じゃ、だからって精進を怠るようなことはないからね。
あたしの代でこの樹を生き返らせられなかったこと。悔しいよ、本当に悔しい。サーラ様になんて言ったらいいのか……でもあたしにはシモーヌがいる!!そう思ってね。あたしは一度はシモーヌに園長を譲ったつもりなのさ。この樹の前で、あの言葉を伝えてね。なのにさ……シモーヌは言うのさ。
『申し訳ありません。その大役は、わたしの器ではありません』ってね。
シモーヌの他に誰がいるって言うんだい?ええ?!あたしは何度も何度もあいつに頼んだ。だけど、他の事ならあたしの言うことは何でも聞いてくれるあいつが、これだけは何としても聞かない!!おかげで今でもあたしゃ『園長』さ、名前ばかりのね」
ここまでの深い事情は、無論コナマでもこれまで知る由の無いことだった。だが一つ、わかったことがある。
「まさかそれで……婆ァ様は、一子相伝のはずの伝承をわたしに漏らした……?」
「コナマ、お前にはな、シモーヌが来る前に一度は目をつけてたのさ。だがお前は頭の働きも人を引っ張る才にも申し分なかったが、肝心のりんご作りには向いてないと思ってね。ああいう地味な仕事を続けさせるにはお前はどうにも……落ち着きが無さすぎる!いつ見てもあっちでチョコマカ、こっちでゴソゴソとせわしなくてさ。
例えばだ。お前は『長老』になら向いてると思ってるんだ、四方八方に目が配れるからね。だがどういうわけだがモレノのやつとつるんではいるが、自分じゃその気もないようだし、困った奴だよ……
ともかく。お前をりんご作りにさせるのは諦めたが、シモーヌが受けてくれないとなったら、他の誰かにも伝えておかなきゃならない。お前ならうってつけだった」
うってつけというその言葉。コナマにはわかる、つまり「語り部」として。コナマの持つ、この村でも特別な成長の極めて遅い肉体、すなわち、いつ果てるとも知れない命。例え自分やシモーヌが居なくなったとしても、ともあれ大切な伝承だけは後の世に残すことが出来る。それがよだか婆ァの一縷の望みだったのだろう。
「ただね、あたしには別に思う所もあったのさ。
この樹をよみがえらせることは、そもそも、あの偉いサーラ様にもかなわなかったこと。あたし如きでどうにかなるもんじゃなかったのかも知れない、最初からね。シモーヌにも出来ないかも知れない。あいつは今じゃあたし以上の園長さ、ほんとはね。だけどあいつはどうゆうわけか……覚悟が足りない……自分で自分を腹の底から信じてないんだ。だから無理に任せるなんてあたしにだって出来やしない。
それで思った。見ての通りのこんな枯れ木をさ、生き返らせようなんてのはそれこそ、『神業』が必要なんじゃないかって。出来がいいだけじゃ足りない、もっと特別な人間が、それこそ神様か悪魔にでも選ばれちまった、変わった人間が必要なんじゃないかって」
「……それが?それが婆ァ様、私だとおっしゃるのですか?」
「そうさオーリィ!!お前だよ、あたしはとうとう見つけたんだ、神と悪魔に選ばれた大馬鹿者をね、他にいるもんか、お前のことさオーリィ!!」
二人の視線は正面からぶつかり合い、火花を散らした。敵意ではない。
一生の一大事を、最後の望みのオーリィに託さんとするよだか婆ァの執念の懇願。
それに対して。オーリィは決して怖気づいてはいなかった。だが知りたい。そんな言葉ではまだまだ納得などするものか。大海から浜に次々と押し寄せるような疑念の眼差しはむしろ、彼女の熱意の昂ぶりの証だ。
「いいかいオーリィ。お前はあの嵐の朝、担架の上でこう言ったね?
りんごの樹が『愛しい』、『逞しくて美しい』って。『気高い命』だって!
あたしはね、この村に来てサーラ様に命を拾っていただいて、それからあのお方のおっしゃること、教えてくださることをがむしゃらに覚えて、その通りがむしゃらに働いた。何年も何年も、わき目も振らずにね。そうやって10年も過ぎたころさ。ようやく仕事に余裕もでてさ、大体のことは迷わず何でも自然にこなせるようになって、やっと思ったんだ。心にストンと落ちたんだよ。『りんごの樹はかわいい』ってね。10年でやっと、心の底からそう思えるようになった。それをお前は!
あんな嵐の中、一晩中樹を抱き続けて……大馬鹿者だ!頭がどうにかなってなきゃあ、他の誰があんなことするもんか!でもそのおかげで……たった一晩で!!
あたしが10年かけて悟ったところに、一足飛びで辿り着いちまった……
あたしが探していたのはそういう人間だ!誰にも真似できない、やろうともしない、思いつきもしないやり方で、この世にかくれてる秘密を一発でえぐり抜ける、そういう眼を持った人間!お前がそれだ、オーリィお前は選ばれてるんだ、だからあたしもお前を選ぶ、ああ、賭けさ!分の悪い賭けだよ。お前は泥船さ、でもね、沈む前に向こう岸にたどり着く泥船だ、そう思ってあたしは乗ったんだ!
頼むよオーリィ!この樹を助けてやっておくれ!!」
小柄なよだか婆ァは最初、オーリィの着物の裾に嚙り付いていた。オーリィは婆ァの言葉に魅入られたように次第に体を深く曲げ、地に膝を落としていた。すると婆ァはなおも深くオーリィの懐に入り込み、胸倉をつかむ。
いつしか、抱きあう姿となった二人。そして婆ァの最後の言葉に答えるように、オーリィの両手が婆ァの背中を抱いた。
「婆ァ様……!!私が、必ず……!!」
シモーヌの頬を伝う涙。
(さっきのとはだいぶ違う感じだけどな……)
寂しくて悲しくて、だが、穏やかで優しい。メネフの目にはそう映る。
そこは大樹から少し離れた別の木陰。言うまでも無く、あの4人からは姿の見えにくい、しかしシモーヌになら声は充分聞き取れる場所。
遡って。婆ァにシモーヌの見守りを一時託されたメネフは、婆ァのさった後、しばし彼女の表情を伺ってからこう言ったのである。
「……なぁ、あんた?一緒に行かなくていいのか?余計なお世話かも知れねぇがよ、なんか分かっちまうのさ。一緒に居たいんだろ?あの婆さんと。それに、オーリィちゃんとさ」
「でも今は……」と、かぶりを振るシモーヌに、
「ってこたぁだ、やっぱり着いて行きたいってことさ!顔を合わせたくないなら、またいつもの手があるだろ?ちょいと離れたところから……なぁに、立ち聞きったって悪い事とは限らねぇ。あんたは聞きたいんだろ、知りたいんだ、婆さんやオーリィちゃんが……好きだから。だったら我慢なんぞつまらねぇぜ?」
「でももし……」
「そん時ゃオレがまた止めてやるさ。一緒に行こう。な?」
そうして二人は、大樹に向かうよだか婆ァをこっそり追いかけていたのであった。
そして今。
抱きあう婆ァとオーリィのむせび泣きを聞きながら、シモーヌは思う。
(お願い、クロエ、どうか……)(続)
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