4 ~運命の嵐と樹を抱く蛇~(3)

 遂に嵐が去った。夜明けの光が雲間から見え、雨も風もそれに応じて嘘のように静まっていく。大自然の猛威というにはその嵐はあまりにも作為的だった。

「山」。

 この村、この世界に生きる人々誰もに恩恵を与えながらも、誰からも敬われることの無いその気まぐれで勝手な守護者は、朝日を浴びながら黙然とたたずんでいた。


「オーリィちゃん、ケイミー!!嵐が止んだぜ、そら!!」

 メネフはテントを大きくめくりあげてみせた。

「さぁ、これでいいなオーリィちゃん。その手を離してオレ達と、ここにいるあんたの……優しいおっかさんと!!一緒に村に帰ろうぜ?な?」

 メネフは優しく、しかし熱のこもった言葉でそうオーリィを説得する。すると、目を伏せじっとうずくまっていたオーリィの顔がゆっくりと、樹の幹に視線を添わせるようにもたげられた。

「……ああ……よかった……これで、これで……」

 オーリィの左腕が、するりと幹から離れた。瞳に涙をたたえながらも、満面の笑顔に返ったケイミーが急ぎ彼女を抱き起そうとしたが、二人の看護婦は冷静にそれを制する。

「ケイミーさん、落ち着いて。気持ちはわかるけれど、慌てては駄目よ」

「彼女は一晩、こんな格好でじっと固まっていたの。急に姿勢を変えたら体が痛んでしまうわ。いったんこの姿勢のまま担架に乗せて……」

「どこか温かい部屋で、体を温めてマッサージで筋肉をほぐしてあげないと」

 そう言ったか言わないかという絶妙な瞬間に、アグネスが集会室から担架担ぎの男達を連れて来た。夜明けを見計らって仮眠中であろう彼らを起こしてくれるよう、彼女にメネフが頼んでおいたのだ。

「騎兵隊のおでましだぜ!メネフ、待たせたかい?」

「いいやアグネス、いいタイミングだ!……さぁみんな、そういう事だから、あとちょっとだけ力を貸してくれ。このままオーリィちゃんを担架に乗せて、集会室に戻るぜ。あそこでまずは応急手当といこう。暖炉もあったし湯も沸かせるからな。お二人さんお願いします、要る物ややる事は何でも言ってくれ。

 ……ケイミー?お前は大丈夫か?」

「うん……大丈夫……メネフさん、ありがと……あたし何て言ったらいいか……」

 ほろほろと涙を流しながらそう言うケイミーの安堵の表情に、つられて軽く涙目になったメネフは照れ隠しにわざとらしく笑うと、

「ハハ!なぁに気にすんな!こりゃオレの仕事だからな。お前もオーリィちゃんも、無事ならそれでいいのさ。それでいい……」

(やれやれメネフのヤツ、とんとあたしにゃ見せないツラだねぇ、ありゃぁ……)

 ほろ苦いため息を軽く漏らしながら、メネフに代わるように男達に指示を出していたアグネス。邪魔をするのは野暮とも思いつつ、また、若干のやっかみを自嘲しつつ、見つめ合う二人を急かす。

「担架OKだ、この子も乗せた。メネフ、ケイミー、行こうぜ!」

 だがその時。

 こちらに近づいてくる人物。シモーヌであった。

「二人には顔を見せない」、そう約束したはずの彼女がである。メネフとアグネスはギョっと顔を見合わせた。

「アグネス済まねぇ、この場はちょっと頼む」

 そう早口でいい捨てると、メネフはシモーヌに駆け寄った。

「おいあんた!……約束が違うぜ、まだここには来るんじゃねぇ!」

 小声ながらキッパリとそう言って、さらに問い詰めようとした。しかし。

「……どいて……!」

 突然、メネフの視界が歪んだ。天地が裏返り、地面に膝から崩れ落ちる。凄まじいめまいと、一瞬遅れて襲ってきた耐えがたい吐き気。

(何だ……こりゃ一体……オレは……何かをされた……のか?)

 方向感覚を失い、右も左もわからなくなった彼が、たまらず地面にうずくまったまま、それでも辛うじてシモーヌを目で追うと。

 彼女は右に左にふらつきながら、のろのろとした雲を踏むような足取りで一行に近づいていく。異変に気付き、皆の前に立ちはだかってシモーヌを待ち受けるアグネス。そしてやはりシモーヌに気づいたケイミーも、担架上のオーリィの体を抱きながらその接近を睨みつける。

(ヤベぇ……このままじゃ……チキショウ、足腰が立たねぇ!指一本触られたわけでもねぇのに、顎の先にいいパンチくらった時みてぇだ……あの女何をしやがった!

 アグネスは……あいつはケンカは滅法強ぇが……でもまずい、やられる!!)

 焦っても体の自由は依然利かない。みすみすシモーヌを見過ごすしかないメネフ。

 やがてとうとう、彼女はアグネスの面前にたどりついてしまった。

「あんた……メネフに何をした?何しにここに来たんだい、ええ?!」

 問い詰めるアグネスだったが、

(こりゃ答えは帰っちゃこないね……この目!!)

 そう、シモーヌの虚ろな眼差し。自分を見つめているのではない。自分の背後にいる誰かを、自分の体を透かして見ているのだと、アグネスは本能的に感じ取った。

(まともじゃない、まるで憑かれてる……いっそ問答無用でぶちのめすか?)

 一触即発、アグネスが拳を固めたその際どいタイミングで、思わぬ助け船はあらわれた。駆けつけて来た二人の小さな人物、コナマとよだか婆ァ。

「みんな大丈夫?ケイミー、オーリィは無事なの?」

「オーリィ!!役場で聞いたよ、お前こんなところで一晩も一体何を?!」

 担架に駆け寄った二人は口々に声をかける。すると、その姿をアグネスの肩越しに見たシモーヌの顔色が急に変わった。自分がいてはならないそこにいることに、すっかり当惑しているようだ。アグネスは胸元まで上げていた拳をゆっくりと降ろした。

(どうやら……正気に戻ったみたいだね。そうだメネフは?!)

 一瞬さっとよだか婆ァに頼もしそうに目をやると、何やらいたたまれない様子で立ち尽くしているシモーヌを押しのけて、アグネスはメネフの元に駆け寄っていった。

 一方。一同のその様子を、コナマがくまなく観察していた。

(なんとか間に合ったようね。それに言われたとおり、婆ァ様をお連れしてよかったわ。シモーヌの抑えは取り敢えず婆ァ様の存在があれば出来るはず……流石ね、モレノの読みは。でもこれで終わりではないわね……)

 どうやらコナマは長老に何事かを言い含められているらしい。今ここに現れたのも偶然ではなく、彼と打ち合わせ済みのことだったのだ。

(坊やの様子が心配だけれど、シモーヌの傍で迂闊なことは聞けない。今は……オーリィの方が先ね)

「ケイミー?オーリィはどうしてこんなところに居続けようとしたの?」

「それが、私にもわからなくて。まだこの子から訳を聞けてないんです。

 ……オーリィ?ねぇ、どうしてあんなことをしたの?聞かせてくれる?」

 すると。担架の上で目を閉じていたオーリィが薄目を開いて、辺りを見渡してこう言った。

「お母様、コナマさん、婆ァ様も……それと……シモーヌ様。お近くにおいでなのですね?あなたにもお話します……お詫びをしなくては……どうか傍にいらして……」

 オーリィがシモーヌの存在を感知していたこと。一同には意外なことであった。無論、当のシモーヌにも。だが彼女を除いた三人はすぐに思いなおす。オーリィは普段からひどくカンがいい。見るともなく聞くともなく、それでもその場の状況や空気を肌感覚で読み取ってしまうようなところがあるのだ。極めて強い感受性の持ち主なのである。時にそれが彼女の理性の制御を超え、感情に直結して爆発してしまうことが、彼女の危ういところでもあるのだが……ともあれ。衰弱した体でわずかに感じ取った周囲の雰囲気から、シモーヌの存在に気づいたのだろう、と。

 シモーヌは一瞬迷いの表情を見せたが、正気に返っても彼女をオーリィの元に惹きつけるあの奇妙な引力は変わらなかった。しかも本人の許しを得たとあっては。最前までののろのろとした足取りとはうって変わり、飛びつくようにオーリィの担架に駆け寄って来た。不信と警戒でケイミーは一瞬身構えたが、それをコナマが無言で首を横にふって制する。そしてよだか婆ァは、シモーヌに向かってうなづく。話を聞いてやれとうながしたのだ。

「オーリィさん……私ならここにいます。何を言いたいのですか?」

「ああ……」衰弱し、寒さに震える顔をどうにかもたげるようにして、シモーヌに向き直ったオーリィは、囁くように語り始めた。シモーヌのみならず、その場の他の三人もその顔を食い入るように見つめ、その声を待った。

「シモーヌ様、私はうれしい、今日はやっとあなたと心静かにお話が出来る、何故でしょうね……お母様、あなたにつけていただいたこれが、私の悪い心を鎮めてくれているのかも……」

 咎人の首枷、その忌むべき黒の木札を、むしろ何かの護符のように頼もしそうに指でまさぐりながら、オーリィは続けた。

「昔から私は、人から教えてもらったことが途中で駄目になってしまう、いいえ、自分で駄目にしてしまうのです。婆ァ様、せっかくあなたに、あんなに教えていただいたりんご作りの技も、無駄にしてしまった……もう私は園に居られないのですから。でもシモーヌ様、私はあなたをお恨みはいたしません。そう、悪いのは私の方なのです。昔の私の母、その面影に、幻に惑わされて、たまたま似ているだけの縁もゆかりもない別人のあなたに、母に対する憎しみを映し出してしまった……なんの責めもないあなたに。そして勝手に憎んで、怒った挙句、あなたにあんな乱暴な真似を……私はあなたの命を奪ってしまうところだった……お許しくださいシモーヌ様、お許しくださいませ。愚かで不出来な私を。もしこんな私でなければ……あなたからも……沢山の事を教えていただけたでしょうに……あなたのお姿を見習いながら……あなたの御心に添えなかった私をおゆるしくださいませ」

【シモーヌの表情に注意しろ、よく観察すべし】。コナマはモレノからの言いつけを思い出していた。なるほど、今こうして眺めていると、彼の言葉の意味がわかる。

 オーリィの一言一言に、いちいち刃物で刺されたかのような苦悶の反応。

(なんて……苦しそうな顔なのかしら?怒りではないわね、むしろ悲しみ……辛くて悲しくてたまらない顔ね。何がそんなに悲しいのかしら?普段は憎たらしいくらい、自分の気持ちを表に出さない人なのに……)

 コナマとシモーヌ。かたや、豊富な経験と機智で長老を補佐する盟友。かたや、最古老よだか婆ァの薫陶を受けた才女。どちらも村では知らない者とていない「知能派の女傑」だ。だがそのタイプはかなり違う。ずば抜けた行動力で大胆不敵に、型破りを恐れず難事を突破するコナマにたいして、シモーヌは万事あくまで慎重で堅実、石をも穿つ忍耐力こそが持ち味。

 そして何より、共に恩人であるところのよだか婆ァに対する態度が違う。シモーヌは婆ァを神の如く崇め、献身を誓いきっているのに対し、コナマは一見不遜の極みだ。婆ァを鼻先でからかい、時にいいように利用する……と他人からはそう見えるのだが、実は違う。コナマは婆ァに甘えている自分を自覚している。婆ァはそれを信頼と受け止めており、なおかつコナマが自分を使う使い方の上手さに舌を巻いている。だからこそ顔では悪態をつきながら、内心我が意をえたりと喜んで協力する。いわば共利共生関係なのだ。そんなコナマとシモーヌの間には、いわく言い難いライバル視、競争意識、そしてやっかみといった感情が常につきまとう。

 つまり一言で言えば、お互い実はあまり仲はよくないのだ。

(でも、だからこそわかることもある。あの『手ごわい』シモーヌがこんなに動揺するなんて、余程のことだわ。このままにしておいたらいつか大変なことが起きる。現に今、坊やが……確かに放っておくわけにはいかない……)

 コナマが思いを巡らすその間も、オーリィの切々たる言葉は続いていた。

「私は、愛おしかったのです。私が婆ァ様とお世話させていただいた、あのりんごの樹が。わがままに自分だけのために生きてきた私に、何かをこんなに愛おしいと、守ってあげたいと思う心があったなんて……

 でも私にはもうあの樹にしてあげられることは何もありません。だからせめて見届けたかった……見守ってあげたかったのです……嵐に耐えて立ち向かう姿を、あの樹と同じ嵐の中で。

 ああ!あの姿!葉を散らし枝を折られながら、それでも凛々しく立ち続ける……本当に逞しくて、本当に美しかった!!

 婆ァ様、シモーヌ様、あれが代々園を支えたあなた方の育てたりんごの樹。なんという……気高い命なのでしょうね……あれは、私のような心卑しい者が手を触れていいものではなかったのです。最初からそんな資格はなかった……それも……よくわかりました……

 お騒がせするのはこれで本当に最後、もう二度とりんご園に立ち寄りはいたしません。婆ァ様、不詳の弟子をお許しください。シモーヌ様、あなたにはもうふさわしい謝罪の言葉も思いつきません、ただお許しを願うしか。コナマさん、お母様、お心を痛めてしまいました、親不孝をどうかお許しください……皆さん……どうか……」

 ここでオーリィの言葉は止まった。まだ息はある。だが看護婦たちが遮った。

「皆さんもうここまでで。これ以上は彼女の体に負担が大きすぎます」

「急いで応急処置しなければ。お手伝いいただければ助かりますが……」

「そうね。わたしは一緒に行きます。婆ァ様、シモーヌ、後で報告に行きますから、お二人はここで」

 コナマはそう言って、ケイミーを励ましながら担架に着いていった。

(シモーヌのこと、気にはなるけれど、今は婆ァ様がいてくださる。ひとまず彼女はお任せで。婆ァ様と二人きりの方が何か聞き出していただけるかも知れない。私が【働く】のはそれからだわ。

 そう、モレノに【見張って居ろ】と言われたのは、シモーヌではないから……!)


 一同が集会室に向かって去って行ったその場に残された師弟、よだか婆ァとシモーヌ。その表情はある種際立った対照をなしていた。シモーヌは相変わらずの悲痛な顔色を浮かべていたが、一方。

 この村で怖い物など一つも無い、ある意味傲岸不遜なよだか婆ァ。それがどうしたことなのか、この時、ある強い感情で激しく動揺しているのだ。目を炯々と見開き、両の拳を胸元で固く握り、肩をガタガタと震わせ……すなわち驚愕と。

「いた……見つけた、とうとうこの村に現れた、あたしの探していた人間が……

 ありがたい、ありがたい……!!」

 婆ァの小さな体からあふれるのは歓喜。

 そしていきなりシモーヌの面前に向き直ると、あろうことか、全身を地に伏すように平伏したのだ。地面は嵐の後で水浸しとなっており、一面泥水の水たまりとなっていたが、婆ァはそれに一切構わず、両手のみならず額まで地に着けていた。

「シモーヌ、いや……園長様!!このよだか、あなたにお願いがございます!!」

 謎の悲しみに暮れていたシモーヌだったが、かねてより敬慕の限りを尽くしていた師が突然自分の前に額づくなどという、彼女にとってあってはならない事態にあわてて我に返った。

「婆ァ様!!いったい何を……ああいけません、お体もお着物も泥まみれになってしまいます!お手を、お顔を上げてくださいませ」

 その言葉に、よだか婆ァは伏した体と両手をそのままに、顔だけきっとシモーヌに向き直る。泥水にまみれた顔をぬぐおうともせず、固い決意をこめてさらに続けた。

「今このよだかは、あたしの弟子シモーヌに対してではなく、当代の園長様に……かつてあたしを一人前の人間に引き上げてくださった、先々代の長老様、その末を引き継がれたあなたにお願い申すのでございます。どうかこのよだかの願いをお聴き取りくださいまし」

 先々代の長老。りんご園の園長は本来、村の長老とは別に存在するのが習わしだ。だが、よだか婆ァがこの世界に現れる前に園では園長が急逝。他に適材がいなかったこともあり、その時の長老が園長を兼ねていたのだ。その治世を知る者はこの村でも数えるほどしかいなくなったが、慈愛比類なきその人物像は今も語り草であり、そしてまた、優れたりんご作りとしても知られていた。

 そう、先々代の長老は女性だったのである。

 そして後に現れたよだか婆ァにりんご作りの技の全てを託し、婆ァを園長に抜擢した、婆ァにとっては大恩人。その後継としてのシモーヌに頭を下げて頼むと言うのである。事の重大さに驚きつつも、シモーヌは襟を正さずにはいられなかった。

「……わかりました。お伺いいたしましょう。婆ァ様、私に何をしろとおっしゃるのですか?」

「あの娘を、オーリィをりんご園にお戻し下さいまし。筋違いは承知でございます、だからこうして伏してお願いしておるのでございます」

「……?」

 シモーヌはまた違う当惑にとらわれた。オーリィを園へ復職させる?いやそのことならば。先にむしろ彼女の方から「謹慎」扱いにして欲しいと婆ァに願ったことであったではないか。彼女にとっては、婆ァからこれほど破格の懇願を受けるべきことではないのだ。

「それは……私もそうしたいと思っていたことです」

「いいえ!あたしのお願いには続きがあるのでございます。それを聞けばきっと……あなたもお悩みになる……それにあなたを馬鹿にしたことになってしまう……だからこそこうしてお願いしているのです。あたしは、あのオーリィにやらせてみたいことがある……

 園長様が引き継がれた園の宝、『伝承の大樹』を!オーリィにまかせてみたいのです!どうか、この年寄りの願いをお聴き取りくださいまし!!」

 その一言を聞いて、シモーヌは愕然とした。しかしそれは如何なる驚きか?

【伝承の大樹】。(続)

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