2 ~蛇の傷心と蝙蝠の戦慄~

 よだか婆ァの一喝で、すんでのところで動きを止めたオーリィ。婆ァのその声を聞きその目で睨まれた彼女は、最前までの狂気的な振る舞いはどこへやら、糸の切れた操り人形のように悄然と座り込んでしまった。オーリィの腕から解放されたシモーヌもまた、真っ青に青ざめた顔で床に崩れ落ちる。

「立ちなオーリィ、あたしと一緒に【井戸端に】来るんだよ。お前達済まないね、シモーヌを看てやっておくれ。詫びは後でしっかり……さぁ来な!!」

 子供のように小柄な婆ァに腕を取られ、オーリィは前にのめりながら引き立てられていく。二人が去ると、引き潮の戻りのように周囲から数名の女たちが駆け寄って、シモーヌを抱き起し声をかけた。

「シモーヌ様!」「大丈夫ですか?!」「お怪我は?!」

「ああ……ええ……私なら……大丈夫です……」

 背を抱いて支えている女達の手に伝わる激しい全身の震え。死人のような顔色で息も絶え絶えに、しかしどうにか返事を返すシモーヌ。誰しも「無理もない、殺されかけたのだから」という顔つきだったが。

 その時。シモーヌの心中を駆け巡る恐怖、その真の姿は彼女以外の誰にも思い描くことが出来なかった。

(どうして、どうして彼女はあんなにも……なぜ彼女のような人がこの村に、私の前に……『忘れていた罰を与えるため』?……ああ!!)

 そしてシモーヌは覚束ない足つきで立ち上がり、

「少し外の空気を吸ってきます……みなさんは仕事に戻って……大丈夫、一人にさせて下さい」

 身の安全を慮って引き留めようとした者もいたが、その時のシモーヌは余人が近づきがたい奇妙な孤独感に包まれていた。心配げに顔を見かわしながらも結局、出ていくシモーヌを見送るだけ。そしてシモーヌの足取りはよろけながらも、ある場所をしかと目指していた。

(【井戸端】……婆ァ様はそうおっしゃっていたわね……私をお呼びになっているのだわ……)


「オーリィ、とんだことをしでかしたもんだ。お前、自分のしたことがわかってるんだろうね?お前のその左腕は、見た目どおりの小娘の細腕なんかじゃない。簡単に人を縊り殺せる凶器だ。お前はシモーヌを……人を殺そうとした。そうだね?」

 井戸端。園の木々に水を与えるためのその井戸は、便利のいい園の中心にあった。園のどこからでも人が現れ、周囲からの見通しもいい。すなわち、明らかに密談には向かない場所。そこに婆ァはオーリィを引き立てていった。オーリィを晒し者にするつもりはない。だが自分の縁故で園にやって来た彼女のありうべからざる不始末を裁くにあたって、いつ、誰に見られても構わないという、それは婆ァの公正の意思表示。そして普段より静かな調子でオーリィに問いただした。何かあればすぐに怒鳴り散らすのが常のよだか婆ァだが、彼女のガミガミは不思議な愛嬌あるいは人情味があり、婆ァの人柄をよく知った村人たちにはむしろそれが親しまれている。この一ヶ月余りを付きっ切りで過ごしたオーリィにも。それを自覚しているのだろう、厳正な裁き手として、この場は敢えて感情を抑えて話すつもりなのだ。そしてなるほど、常に無いその態度は「村の最古老」の威厳を際立たせる。婆ァの静かな視線にオーリィは射すくめられ、身じろぎも出来ない。蒼白な顔色に、震える頬。口の中でカチカチと歯が当たる音が聞こえてくるかのようだ。絞り出すような小声でようやく一言、「はい」と返事をすると、婆ァはそれを受けてさらに問うた。

「ぐずぐずとは聞かないよ。だからはっきり答えな。お前、シモーヌの何が気に食わないんだい?ええ?」

 オーリィが口を開くまでかなりの時間を要した。だが、ただ静かに自分を睨みつづける婆ァの態度には逃げ場がまるでない。それをようやく悟ったのだろう、やはり消え入るような声で。

「婆ァ様……あの方は……何も悪くはないのです。全部私のせい……」

「ふん、大体は聞いたよ。お前、シモーヌの言う事をちっとも聞かなかったらしいじゃないか。だったら確かに悪いのはお前だ。そうじゃない。『何故』そうなっちまったかってことさ、あたしが聞きたいのはね。何故お前は、あいつの言う事は聞けないんだい?さっさと言いな!」

「あの方は……あの方は!!似ている……似ているんです、何もかも……何もかも。『シモーヌ』というお名前が同じ、お顔立ち、物のおっしゃり方、仕草……わたしが前の世界で、誰よりも憎んだあの人に……そっくりそのまま……」

 オーリィが「あの人」と言った瞬間。そのたった一言によだか婆ァは、シモーヌの首を絞めに行った時のオーリィの狂気の片鱗を再び感じ取った。煮えたぎるような屈辱と憎悪。まさしく、「あの人」なる人物はオーリィの不倶戴天の仇敵に違いない。

「そんなに忌々しい相手なのかい。いったい誰だ?」

「わたしの……実のお母様……!!」

 そう言い放つと、オーリィは眉間に深くしわを寄せ歯を食いしばった。「母」なる人物を思い描くことは、彼女にとって余程の苦痛なのであろう、婆ァにもそれは真実の言葉としてはっきり伝わって来た。

「わたしの家族。父が絶対の権力者でした。傲慢で、自分の家族のことすら見下して……大嫌いでした。叔父、卑屈でいつも父に取り入ってばかり……軽蔑していました。けれどあの人たちはいつもわたしと一緒にいるわけじゃありませんでした。叔父は元より私達の屋敷には時々訪れるだけでしたし、父には事業が、仕事があって居ないことの方が多かった。良くも悪くも、二人とも家族のことなんて本心ではないがしろでしたから、わたしはあの二人からは、上手く立ち回れば無干渉でもいられたのです……いられたはずなのです、お母様さえいなければ!!

 あの人は……いつもわたしのことを監視していました。そして恐ろしいほどの地獄耳なのです。どう隠そうとしても、わたしのしていることは全部筒抜けで。うすうすはわかっていました、自分だけでなく、邸内の使用人すべてに鼻薬を効かせていたのでしょうね。だからわたしがほんの幼い子供の頃から、どんな些細な失敗でも、不注意でも、見つからないということはありませんでした。そして見つかれば当然、延々と叱られる……いつもお母様の言葉は決まっていたわ……

『この家の名誉を守りなさい』、『あなたの気持ちなどどうでもいいのです』、それから最後に……『私はあなたの事を思って言っているのです』!!

 ああ吐き気がする!!なんておためごかし!!大富豪の妻になった自分の地位、それが大事だっただけのくせに!!父の前で、わたしを上手く教育しているという体裁を繕いたかっただけ、ご自分の面目を汚されたくなかっただけのくせに!!

 そう、お母様はわたしに、いくつもいくつも習い事を押し付けました。別にわたしを本物の淑女に育てようだなんて、決して思っていなかったくせに。そしてわたしがわずかの間に上手く成果をあげられなければ、すぐに取りやめ……お母様の望みは、ご自分を教育熱心に見せたかっただけだったから……見栄!!ご自分の見栄のため!!だからわたしが、たまさか気に入って熱心に学ぼうとしたことまで、すべて取り上げられた……そしてその時の言葉はこう……

『お父様にはご報告しておきました』、『あなたが不真面目だからこうなるのです』、『お父様がお決めになったのですからあきらめなさい』!!

 卑怯!!お母様の卑怯者!!」

 そこでオーリィは、自分を見つめるよだか婆ァの視線にはたと気づいて、唇を噛み押し黙った。憎しみのあまりか、すっかり過去に飛ばしていた意識が今ここに戻ってきた、そんな有様だった。ややあって、再びオーリィは語り出す。

「あの方は……この村のシモーヌ様は。わかっています、ただの別人。わたしのお母様じゃない……わかっているんです婆ァ様、でも!!あんなにそっくりだなんて……

 シモーヌ様のお顔を見ると、お声を聞くと、もう駄目なのです。わたしは気が違ってしまうんです。不愉快な気持ちがどんどん湧き出して、それをあの方にも味わわせたいと思ってしまう、あの方に無性に逆らいたくなって、あの方を怒らせたくなって!!駄目だとわかっているのに、結局言われたことと全部違うことをしてしまう……

 いつも家に戻ってから、我に返るんです。いけないことをしてしまったって、胃が痛くなる思いがして……いつも思っていたんです、「明日こそちゃんとお詫びをして、言われたとおりきちんと仕事をさせていただこう」って……

 どうしても……出来ませんでした……」

(その挙句が今日のあの有様、かい……根が深いね……これじゃお手上げだ)

 目を閉じながら天を仰ぎ、大きく無念のため息を吐くよだか婆ァ。目を開ければ、そのまま、萎れた花のように力なくうつむく長身のオーリィと目が会う。

(それならそうと、あたしにもっと早く言ってくれればこんな事には……いや、あたしがうかつだったよ。こいつに危なっかしいところがあるのは、わかってたはず。もう少し気をつけてやれば……)

 だが最早遅い。後悔と自責の念を、婆ァは敢えて顔色から隠した。

「いいかいオーリィ。訳はわかった。わかったがね、お前のしでかしたことがしでかしたことだ。それにシモーヌには何の落ち度もない、お前自身がそう思っている。そうだね?だったらあたしにはもう、とりなしてやるこたァできやしない。

 前に言ったね?あたしはホントはもう園長なんかじゃない。シモーヌが頑固にあたしを担いで降ろさないもんだから、名前だけは残ってるようなもんの、ここの仕切りはもうシモーヌの役目だ。あたしがそう決めた、任せたんだあいつに。他にはいない。あいつにしか出来ないんだよ。

 確かにね、シモーヌはあたしの言う事なら何だって聞く。あたしが頭を下げりゃあるいは、お前を許してくれるかも知れんがね……そいつは依怙贔屓、筋違いだ。そんな無理筋を通したら、昔このあたしに園を任せてくれた先々代の長老様、その御恩を裏切ることになる。重いのさ、このりんご園は、ここを守るってことは!!

 ……シモーヌには、何て言われたんだい?」

「今日限りで、園を辞めろと……そう仰いました……」

「そうかい、そうだろうね。あいつならそう言う。あたしでも、ね。同じことをお前に言うしかないよ。今日で園を辞めておくれ。いいね?

 ……オーリィお前は」

 と。ここまであくまで静かに、だが峻厳な態度に徹していた婆ァの表情が変わった。

「手間のかかる弟子だったね」

 いたわり、あるいは、なぐさめ。

「最初の日から、お前はいきなりそうだった。『それはなぜですの?』ってね。あたしが何か一言いう度にいちいち聞く。なかなか話が進まなくて困ったもんだった。それでも初めは聞くだけだったが、そのうち慣れてくると。

『それでは手間がふえますわ』『こうした方が早いのでは』ってね!妙なやり方を考えちゃぁ言ってくるようになった。おかげでますます話が進まなくて」

「……申し訳ありませんでした……」

「なぁに、叱ってるわけじゃないよ。お前はね、それだけ熱心だったってことだ。中にはいるのさ、あたしのことが怖いんだか遠慮なんだか、それともやる気がないんだか!わからないこともほっておいて、右から左に言われたことを聞き流すやつがね。そういうやつは、いざそいつに実地でやらせてみると抜けてることばかりでさ、結局同じことをまた教えてやらなきゃならなくなる。手間は同じだよ。そこへ行くとお前は、しつこく食い下がる代わりに、一度自分の腹に落として『わかりました』と言ったら絶対に間違えなかった。教え甲斐があったよ。

 それにね、面白かったよ、お前をいちいち言い負かしてやるのはさ。あたしはお前の聞いてきたことには逃げずごまかさず全部答えてやっただろう?

 あたしが覚えたりんご作りの技はね。あたしの自慢、あたしのすべてさ。昔々、先々代様に手をとって教えていただいて、仲間と汗を流してさ、一つ一つ覚えたんだ。みんな先に逝っちまったがね……お前に教えてやってると、聞かれたことに答えてやってると、一緒にね、全部思い出せたもんさ。あの時のこと、この時のこと……

 楽しかったねぇ……」

「婆ァ様、わたしも……うれしかったのです。前の世界では、わたしが何を聞いても『黙って言われた通りにしろ』ばかり……誰も真剣にわたしの相手などしてくれなかったから……うれしくて、だから……」

「そうかい。そういうことかい……」

 こくこくとうなづくと、婆ァはあらためてオーリィの瞳を覗き込んで、噛んで含めるようにこう言った。

「いいかいオーリィ、お前もね、もうあたしの弟子だ。最後まで面倒は見てやるよ。園で働けなくても他につてはある、お前に合った仕事が、生き方が必ずあるはずさ。一緒に考えて探してやる。だから今日はこれで帰りな。一晩頭を冷やして、ゆっくり考えるんだ。それで明日の朝になったら、あたしと一緒にモレノの所に行く。今度の事は園の内々で済ませられる事じゃない。一緒に行ってやるから、堂々と自分で自分のしたことを話すんだ。

……くれぐれも、妙な考えだけは起こしちゃいけないよ!いいね?」

 自死によってこの村にやって来たオーリィに婆ァが最後にそう釘を刺すと、オーリィは声なく頷いて悄然と去って行った。その背中を見送りながら、婆ァはしかし井戸端を去ろうとしない。しばし井戸を覗き込み何やら物思いにふけっていたが、その足音に気づいて静かに顔を上げた。


「聞いてのとおりさ、シモーヌ」

 オーリィに気づかれぬよう、距離を取っていづれかの木陰に潜んでいたのだろう。無論よだか婆ァもそれは承知の上。「井戸端」と場所を教えておいたのは、オーリィの話を聞かせるため。

 コウモリの命を体に宿したシモーヌの「獣の力」、それは超人的な「聴力」。普通なら声の届かないような距離にあっても、たとえ小声であっても、彼女の耳になら、目の前のラジオを聴くように余すところなく聞き取れる。己の意思にかかわらずあらゆる場面で立ち聞き盗み聞きをしてしまう、出来てしまうのだ。誇り高く公正な彼女は、そうして得られた事実や知識を私用悪用することを自分に対して厳に禁じていたが、さりとて日常生活を営むのに、必要以上に他人に遠ざけられるわけにもいかない。従ってシモーヌはその能力をあまり多くの人間には伝えていないのだが、無論、師であるよだか婆ァは別。

「お前が気に病む必要は無いよ。お前の言ったことは正しい。今日のことはね、あたしから今日のうちに先にモレノの耳にも入れておく。この村で人を殺しかけるやつなんざ、もう十何年もいなかった。それがあいつは二人目の二度目。裁きが必要なら、それは長老のモレノが下す。オーリィのやつを許せとは言わないよ。言えない。ただ、これ以上の沙汰はモレノにまかせな。お前にとってもその方がいい。聞いたろう?お前たちは、お互い近づかない方がいいんだ。

 だが済まなかったね、あたしが気がつくのが遅かった。申し訳なかったねシモーヌ、あたしの手落ちだった……

 ……シモーヌ?」

 深々と頭を下げたよだか婆ァだったが、ふいとその顔をあげた。

 シモーヌの様子がおかしい。真っ青に青ざめた顔色、他人から見てもはっきりわかる熱病のような体の震え。無論、シモーヌは理不尽な理由で殺されかけたのだ、恐怖、怒り、どちらもあって当然の感情だろう。だが妙だ。彼女の表情を支配するのは、むしろ巨大な【当惑】と【罪悪感】のように婆ァには見えた。

「シモーヌ?お前、どうしたんだい?」

「婆ァ様……その……彼女の、処遇については……私も……考えるところが……当分『謹慎』ということにしていただいて……少し考えさせてください……お願いします……」

「?……シモーヌ、オーリィのやつに温情をかけてくれるってのかい?あたしに遠慮は要らないし、あいつだって自分のしたことは飲み込んでる。無理しなくていいんだよ?」

「ですが……その……今日のところは……どうか……」

 そう言って、かえって婆ァより深く頭を下げると、シモーヌはよろめきながら園の詰所を目指して帰っていく。よだか婆ァも唖然として見送るほかはなかった。

(シモーヌお前……?)

 だが婆ァにもわかることが一つ。シモーヌは何かを隠している、その胸のうちに、ある重苦しい何かを。(続)

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