1 ~嘲笑う蛇と怒れる蝙蝠~
「う……美味いな……」
「よかった。あんたがよく弁当で食っている草を見ておいたつもりなんだが、当たっているかどうか心配だったんです」
その晩。テツジはベンを夕食に招いていた。東の荒れ地、開拓地で共に働く仲間たち。彼らはテツジとは皆「同志」でありかつまた彼にとって村民生活の先輩でもある。しかしその中で、物静かなベンとは特別に気が合った。「穴掘り鬼」の名づけの親でもある彼を、そのささやかな恩返しだと言ってもてなしていたのだ。
「……違う。料理……テツの……上手……」
穏やかな微笑みでかぶりを振りながら、ベンはたどたどしくそう返した。吃音がひどくしゃべるのが苦手な彼に対して、テツジもまだるこしい謙遜はしない。そのほうが会話が短く済み、大切な客人に負担がかからないからだ。
「先生が良かったんですよ。俺に料理を教えてくれた人がね……おや?」
軽く戸を叩く音がする。
「噂をすれば影だな……今開けますよ、オーリィさん」
「今晩は、テツジさん。ご注文の串蛙……あら!ベンさんじゃありませんか、あなたがテツジさんのお客様でしたのね!」
この村でテツジが一番美味だと思っているもの。彼はそれを客人に振る舞うつもりでいたのである。オーリィは彼の注文を気持ちよく引き受け、焼き立ての方がなお美味しいからといって、わざわざ時間に合わせて届けに来たのであったが。笑顔でお互いを見かわす二人の、意外にも親密な様子にテツジは軽い驚きを持った。
「オーリィさん、ベンさんとお知り合いだったんですか?」
「フフ……テツジさん私、以前この方に大変お世話になったことがありますのよ。私にとっては、大切な恩人のお一人。おもてなしのお手伝いが出来て嬉しいですわ」
「な、何、大したことじゃない……でも懐かしい……あの時の君、俺、驚いた……」
オーリィが人を驚かす、それはテツジにとってはむしろ常の事。「独り立ち」するまでの共同生活中にあって、彼は何度となくそれを体験した。別段大きな出来事があったわけではない。彼女の何気ない些細な仕草の一つ一つがもうすでに名画の1シーンのように美しいのだ。それでもなお、彼はベンの言葉に強く興味を惹かれた。
ベンの体験したらしい、オーリィの美しい驚異に。
「何だか面白そうですね。伺ってみたいな」
だが、テツジのその言葉にオーリィはやや当惑顔でためらいを見せた。
「シ……シモーヌのことなら……陰口にはならない……彼女も、か、覚悟して打ち明けた。話して……やるといい……テツに、あの人と、『黄金の林檎』のこと……」
「黄金の林檎?」
オーリィの浮かない顔つきに、さてはうかつに聞いてはいけないことだったかと。テツジも困り顔であったが、その言葉には引き込まれた。
(りんご?そうかオーリィさんの仕事はりんご作りだったな。それにしても思えば不思議だ、俺はこの人から今まで、りんご園の話を聞いたことがなかった。茶飲み話のネタとしては、真っ先に話題になりそうなことなのに)
「オーリィの受け持ちの……りんごの樹……特別……村に一本だけ」
ベンは持ち前の穏やかな笑顔を保ちながら、二人を交互に見かわしては話を促す。とうとうオーリィはほろ苦い笑みで決心の色を見せた。
「そうですわね、私が話し始めてしまったことですものね……テツジさん、どうかこれは、わがままな私の懺悔話としてお聞きくださいませ」
「オーリィさん?これは一体どうしたことですか?昨日あれだけ注意して、きちんとやるようにお願いしたはず。違いますか ?!」
その日も。オーリィは美しい産毛に顔を覆ったその女、シモーヌに詰問されていた。
【白コウモリのシモーヌ】。全身を覆った純白の産毛と、長く広く広がった耳。人の形を保った細くなよやかな指の間には、しかし薄い皮膜が。その身にコウモリを宿した彼女は、よだか婆ァが治める、村のりんご園の【管理総代行】。
婆ァのりんご作りの技の最も傑出した一番弟子。技術だけではない。理詰めで厳格ながら、公正無私で依怙贔屓の無い凛とした振る舞いもまたよだか婆ァ譲り。園で働く女達には深く畏怖敬愛されており、園の後継者、次代園長と目されている……否。
本来はシモーヌこそ、今のりんご園の主。よだか婆ァが代替わりを宣言したのは大分以前の話なのだ。だが婆ァをこれまた神のように敬愛する彼女は、それゆえにか、その地位の継承を固辞し続けていた。
「婆ァ様がご健勝ですのに、私が取って代わるなど以ての外です」、そう言って。
他の事なら常に婆ァに絶対忠実な彼女が、これだけは頑強に首を縦に振らない。かくてよだか婆ァは、引退したはずが名ばかりの園長として園にとどまらざるを得なくなり、時折園を訪れては心中でこぼしている始末。
(まったくシモーヌめ、いつまであたしを担いでいるつもりなのかねぇ……こうして顔を見せりゃ有難がってあれやこれやともてなしてくれるのはいいが、あたしのやるこたぁ何にも無いんだから。ヒマで仕方がないよ。
もうあいつ一人で立派にやっていける。あたしゃそれが見たいんだ、じれったいこった!!)
と、その愚痴はすなわち、自慢の愛弟子への信頼と期待の裏返しなのだったが。
一方。
一命を取りとめた後ようやく村の生活に慣れてきたオーリィが、ケイミーに連れられりんご園にやって来たのは、そんな折であった。
「ケイミー!このひよっこめ、そいつが元気になったら園に連れて来いと言ったのに、いつまで待たせるんだと思ってたが……今頃かい!!甘やかすのもいい加減にしな!!何だっけ、新入り、たしかオーリィとか言ったね?あたしはこのひよっこみたいに甘かぁないよ。お前がどんだけワガママで天邪鬼かは、あたしゃようくわかってるんだ。その根性、あたし直々にきっちり叩き直してやるから覚悟するんだね!!」
と、悪たれ口めいて脅したものの、やるせなく暇をかこっていたよだか婆ァにとってオーリィの入園は実は渡りに船。元来せっかちで、かつ世話好き仕事好きの婆ァには賓客扱いなどむしろ苦痛、園にいるなら仕事がしたい。新人教育など普通は婆ァのする仕事ではなかったが、そこは「コナマに頼まれた」という口実がある。
「まったく!こんな面倒事を押し付けやがってコナマの奴!」
もちろんそれは、最近の婆ァのつまらなそうな様子を見て少々気の毒がっていたコナマの、お得意の深謀遠慮。婆ァに生き甲斐を与えつつ、メンタルに脆さ危うさを多分にのぞかせるオーリィの人格教育にもなるという、一石二鳥の計略だ。婆ァ自身もその手にまんまと乗せられているとわかっているので顔では精いっぱいの渋面を描いてみせるが、内心はホクホク。これで久しぶりに、思い切り働ける!!
「…… そういうこったからシモーヌ、こいつはしばらくあたしが預かるよ。とんでもない世間知らずの甘ったれだからそう簡単に一人前とは行くまいがね、何とか半人前くらいには仕上げてお前に渡してやるから。
ぼさっと突っ立ってるんじゃないよ!とっととあたしについてきな、新入り!」
と。よだか婆ァが意気揚々とオーリィを仕事場に追い立てていったのが、およそ一月前のこと。この一ヶ月、婆ァは付きっきりでオーリィに果樹の世話のイロハを徹底的に叩き込んだ。そしてりんご作り初級免許は無事皆伝、頃やよしとシモーヌの元に託したはずだったのだが……
「オーリィさん、あなたはどうしてこんなに、私に言われたことが出来ないのですか?!」
シモーヌの端正な顔立ち、その眉間に刻まれる深い縦皺が、彼女の苛立ちと怒りを明らかにしている。だが、シモーヌのこんな顔は実は極めて珍しい。無論立場上責任上、彼女が園で働く作業員を叱責することは常のこと。彼女は甘い上司では無い。失敗の内容、原因、考え得る今後の対策をきっちりと部下から自己申告をさせ、それを評価し、不十分なら指摘し、妥当なら順守を誓わせる。その段取りは極めて厳格だ。だが一方、彼女の指導、指示はこれまた極めて合理的で具体的で、尚且つ無理を求めない。一人の責任に帰すると思えない場合は共に対策を考え、時には皆に広く意見を求め採り入れることも忘れない。誰に対しても公正公平なのだ。
そしてその際、シモーヌは決して自分の感情を露わにしない。なぁなぁでいい加減に丸く収めることも、声を荒げて委縮させることも、彼女にとっては無意味というよりむしろ害悪。必要なのは次から同じ失敗をさせない、そのための必要な対策と適切な指導あるのみ。大抵の場合、叱責はわずかの時間で終わる。
だから彼女に叱責された者は誰しも素直に思う、「私がいけなかった、うっかりしていた、考えが足りなかった」と。「ご迷惑をお掛けしないよう頑張ろう」と。
しかしここ数日、オーリィに対しての叱責は、シモーヌの常のそれとは明らかに違っていた。瞼は怒りで細かく震え、口調もキリキリと険しい。怒鳴りつける寸前のところを辛うじて抑えているのが、傍から見てもはっきりわかる。
理由の無いことではなかった。その場を取り巻くりんご園で働く女達の、オーリィに対する一様な反感と迷惑顔。彼女たちは囁きあう。
(またあんなに叱られて……)
(無理もないわよ、あの人、やることなすことメチャクチャだもの)
(やらなきゃいけないことは全部後回し、そのくせしなくてもいいことを、しかも適当に!)
(後始末も安心して任せられないし。結局私たちが全部尻ぬぐい!)
(注意されても、同じことを何度も!全然変わらないじゃない)
(大体あの顔は何?そっぽ向いて、不貞腐れて……悪いのは自分でしょう??)
(それにいつもだんまり!何を言われても、ろくに返事もしないんだから)
そして彼女達のヒソヒソ話は、いつもある決まったフレーズにたどり着く。
(あれじゃ、いっそシモーヌ様の方がお気の毒だわ……いくら婆ァ様の口利きだからって、あんなコを押し付けられたらたまらないわよ)
しかし。いつもならそこで一同ため息で終わるところが、今日はその先があった。
(実はね……わたし昨日、思い切って婆ァ様に直訴したのよ。告げ口なんて気分悪いけど、仕方無いでしょう?私たちのため、シモーヌ様のため、園のため!)
(そういえばさっき、婆ァ様がこちらに向かってらっしゃるのをお見掛けしたわ。あなたが言ってくれたからかしら?)
(だったら早くいらっしゃって欲しいわね。もう我慢も限界よ!そう言ったらなんだけど、あのコのことは婆ァ様にだって責任はおありでしょう?)
その時シモーヌの眉が一瞬、一層激しく吊り上がったのを、気付く者はいなかった。彼女は強いて平静を装うかのように、言葉だけはややトーンを下げた。
「いいですかオーリィさん。あなたはここ一月程の間、よだか婆ァ様から直接ご指導をいただいたはずですね?私もそうですし、園に長く勤めていらっしゃる方には同じく、婆ァ様からご指導いただいた方が沢山います。だからわかるのです。
あの方に限って、いい加減に教えるなどということは、絶対にありえません。誰もが正しく仕事を覚えることが出来るはずなのです……余程の愚か者でなければ、あるいはいい加減に聞き流していたのでなければ。でもあなたの場合は、どちらも違う。なぜなら。あなたを私に預けた時、婆ァ様ご自身がわたしにおっしゃったからです。
『まだまだ半人前にも届かないが、どうやら最低に毛が生えた程度にはものになったよ。案外理屈っぽくってね、教えるのに手間はかかったが、こいつは物覚えは悪くない。言ってやったことは忘れないたちだ。だからあとはシモーヌ、お前がよぉく教えてやってくれ』と。あなたもそう聞いたはず。
あの方に限って。嘘や人を見る目のめがね違いもありえません、決して!」
そうピシリと決めつけると、シモーヌは自分から顔をそらし続けているオーリィに一歩近づき、覗き込むようににらみながらさらに低い声で、さらに険しくこう迫った。
「ではなぜ、今あなたはこの体たらくなのか?答えはおそらく一つ。
……わざと【私に】逆らっている。違いますか?」
その一言は、凍り付くような響きだった。お互いヒソヒソと話続けてきた取り巻く女達も、思わずギョっとしてシモーヌの顔に目を奪われる。怒りをとっくに通り越した先に現れるその突き放すような無表情に、自分が責められているわけでもないのに肝を冷やされた女達。しかしその耳に、次に聞こえてきたのは。
クツクツと笑う声。そして、それまでそっぽを向き続けてきたオーリィが、シモーヌに向き直ったその顔に浮かぶ歪んだ嘲笑は、その場の空気をさらに凍てつかせた。
「本当に、まだるこしい……ようやくそれ……最初からそう言えばいいのに……最初から、そう思っていたくせに!あなたは、あなたという人はいつもそう。
……【昔】から。何も変わらないのね……
そうですよ。わざとです。理由は、あなたが気に入らないから。わたしはあなたが嫌いなんですもの。バカバカしくて!言う事など聞けないわ!
で?だったらどうします?あなたも、もっと直截におっしゃって下さいな?!」
シモーヌの白皙な表にさっと朱が走った。何という無礼な開き直りと、居並ぶ女達の顔色も同じ色に染まる。ただし。
(【昔】から……?何故?)
シモーヌの顔に浮かんだ奇妙な感情、それは当惑と、【恐怖】。彼女らの誰一人、この時は。その表情に秘められた意味を読み取れた者はいなかったが……
刹那の睨み合いの後、シモーヌは硬い表情でそれに答えた。
「このりんご園は、村の農場の中では特別な扱いを受けています。麦にしろ野菜にしろ、他の作物は代々の長老様がすべて取り締まっていました。今はバルクス総監督が代行なされていますが、お一人なのは同じこと。しかしりんご園だけは、常に別に『園長』がいる。この村の作物は、私たちが元いた世界のような洗練された農業技術で品種改良され栽培されてはいません。半分野草のようなもの。どれも硬く筋張ってアクも、苦味えぐみも強い。従って、草食の動物を体に宿していない限り『生で食べられるものが無い』のです。その中で。りんごだけは誰でももいでそのまま食べられる。かつて私たちがいた豊かな文明社会と違って。生活の喜びが少ないこの世界、この村にあっては『食の喜び』は大切なもの。中でも『新鮮な果物』は、ここではとても貴重なのです。りんごは、そしてりんごの樹は村の大事な財産なのです。
だからこそ。りんご園にだけ特別に園長という職責が定められていて。代々の園長様方はその責任を誇りと思って園を、りんごを守り育ててこられた。それは今の婆ァ様も同じですし、婆ァ様に代わって園を取り仕切らせていただくこの私も、同じ覚悟で臨まなければならないと思っているのです。
オーリィさん。あなたが私にどんな感情を抱こうと、それは些末なこと。ですが、村の貴重な宝であるりんごの樹を、粗末に、でたらめに扱うことは!婆ァ様に信任いただいた私が許すわけにはいきません。
あなたには今日限り、園を辞めていただきます。いいですね?」
静かに、しかし極めて厳格な調子で、シモーヌはそう言い渡した。その面を凝視しながら聞くオーリィの顔は、シモーヌの言葉が進むにつれて苦悶に歪んでいったが、最後の宣告を聞き終えると再びあの笑い声をあげて答えた。
「クク……そうですね、聞くまでもないことですわね……わかっていたわこうなるって、予感していたもの、あなたに会った時から……あなたは……
変わらない!昔から何も!わたしの気持ちなどあなたにとっていつも【些末な事】、大切なのは【一族の名誉】、わたしは黙って大人しくしていればいい!!あなたはいつもそう決めつけて!わたしからすべてを取り上げる、そうよ全部いつものことだわ!!」
オーリィは何を言っているのか?女達もその言葉の噛み合わなさに気づき始めた。オーリィが園にやって来たのはおよそ一ヶ月前、しかもそのほとんどはよだか婆ァと二人きりで過ごしてきた。彼女がシモーヌに託されたのはわずかこの一週間ばかりのことなのだ。【昔から】とは何事を指しているのか?そして。
ただいぶかるだけの彼女らとは違って、シモーヌにはなにやら思い当たる節があるようなのだ。毅然と断を下したはずの彼女が、オーリィの言葉を聴くにつれ動揺していく様が女達にも見て取れる。青ざめていく顔色、額には冷たい汗、震える唇と膝。誰にでもわかる、それは激しい怖れ。だが何故?
「でもなぜ?なぜあなたはここに、この村にいるの?忘れていた罰をわたしに与えるためですか?またわたしを縛るおつもりなの?ああ!!あなたさえ……」
オーリィのあの一種奇怪な両目に、メラメラと浮かぶどす黒いかぎろい。
殺意。
「あなたさえいなければ!!」
そして絶叫。シモーヌははじかれるように踵を返してオーリィのそばを離れようとした。背後に素早く迫るオーリィ、あの蛇の右手が、逃げるシモーヌの襟首にかかった。そのまま胸元に引き込み、そして……
「オーリィィィィィィィィィィ!!」
間一髪。その場に現れたよだか婆ァの叫び声で、オーリィの動きは石像の様に固まった。その時まさに。
オーリィのあの恐るべき左腕は、シモーヌの首に巻き付いていた。(続)
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