第27話奪い返した
紫陽花には毒がある、らしい。
その実態はまだ未解明の部分も多く、はっきりしない。
個体によっても差があって、毒の有る個体も無い個体も存在するのだとか。
と、ここまではネットで得た浅い知識だ。
いい加減で誠に申し訳ないが、間違っていたらご指摘頂けると幸いである。
紫陽花ケーキは毒の無い個体を選別して、原料に使っている。
選別の手間コストを考えれば一般販売など出来るはずもなく、この試合限定のスペシャルメニューとしての提供だ。
しかし未練にはそれが疑わしく思えた。
美々は空ろな目をして紫陽花ケーキを食べ続けている。
空はシャツの前をはだけ、ぺたんと女の子座りをして人差し指を吸いながら未練をじっと見ている。
絶対何か入ってるだろ、と粉蜜に目をやると序盤とは変わって冷たく鋭い視線を未練に返す。
八回裏終了時までで東京野球団のお菓子交代は計七回、先発メンバーで残っているのは夏美、大谷川、鬼清の三名のみになっていた。
控え選手もスイーツを我慢出来なければ、この試合の出場資格を失う。
既に東京野球団には出場出来る選手が九人ぴったりしかおらず、投手の美修院が臨時でライトに入らなければならない程に追い込まれていた。
対するスイーツデザートも多くのお菓子交代を出しており、両チーム合わせて三十六人が、我慢出来ずスイーツに手を伸ばしてしまった事になる。
これは球史において二番目の記録である。
因みに最多は二〇〇七年、十月二日の試合で、三十八人がスイーツを食べた。
この試合、出場出来る選手が下限九人を切りコールドゲームとなった初のケースで、選手が足りず敗北したのは東京野球団である。
八回の時点でそれに次ぐ数字を叩き出したこの日の試合、粉蜜の名誉の為に言うと別に変な物は入れていない。
未練が勝手にそう思っているだけで、全てはスイーツの魔力によるものだ。
粉蜜が紫陽花ケーキで仕留めた選手はここまで十八人、甘原の饅頭も十八人、同点となっている。
ここにもプライドを賭けた意地のぶつかり合いがあった。
粉蜜は、未練と夏美は仕留められると考えていた。
実際五回表、二人は堕ちかけている。
しかし何とか二人は八回を終え、九回までこぎ着けた。
粉蜜もついつい二人に向ける視線が険しくなってしまう。
得点ボードには0が並んでいる。
ここまで両チーム無得点で最終九回を迎える事になった。
七番ライト、途中出場の
三球目スライダー、投手ゴロに打ち取りワンアウト。
次は八番投手甘、ここまで東京野球団を無得点に抑えてきた好投手。
未練にとっては負けられない相手である。
初球ストレート、に食らいつく。
カンッと音を残して打球は三遊間へ、夏美が捕球体勢にはいる。
打球は夏美の足の間を抜けていった。
夏美には珍しいエラー、集中力を保つのにかなり苦労しているようだ。
甘は一塁を回り二塁に頭から滑り込む、間一髪セーフ。
甘も必死だ。
九番、
空気中の糖によりベタついた指、ボールによく引っ掛かりスライダーが大きく曲がる反面コントロールが難しい。
低めにワンバウンドとなるが、濃縮甘は振りにかかる。
結果は空振りだがスイングは強力で、ブオンと音を立てて風を起こした。
ねっとりとした甘い風が未練の顔を撫でる。
九回までスイーツを我慢したスイーツデザート選手のパワーは極限まで高まっており、スイングの度に風が舞う。
未練はこれが嫌だった。
甘い風を受ける度に五回のように理性が飛びそうになってしまう。
それでも未練は歯を食い縛り、濃縮甘を三振に取った。
打順は戻って一番、ショート
これも途中出場の選手だ。
未練はこの選手を特に嫌がっていた。
スイングの強力さは随一で竜巻のような風を起こす。
当たれば強い打球を飛ばすし厄介な相手である。
初球スライダー、低めに外れた球だった。
甘謝甘激はこの低めを強引に振り抜く。
バットの先に擦ったような当たりだが打球は強い。
同時に風が巻き起こり未練を包む。
甘く重い風に頭が痺れ動けなくなった未練の横を打球が抜けていった。
打球はそのままセンター前には抜けなかった。
夏美が横っ飛びでギリギリボールを止める。
素早く立ち上がり一塁へ送球、アウト。
スリーアウトチェンジ。
一瞬自分を見失いかけた未練だが、すぐ我に返りファインプレイの夏美を見る。
夏美は嬉しそうに視線を返すが、五回の事を思い出したのか顔を赤くして目を伏せてしまった。
こうしてどうにか未練は九回まで0を並べたのである。
九回裏の攻撃、先頭打者の夏美がヒットで出塁した。
まるで恥ずかしさをぶつけるかのような鬼気迫るバッティングで、一塁を陥れる。
続く二番柵本がヒットで続きノーアウト一二塁。
三番牛島賀がバントの構えをする。
三番とはいえお菓子交代で入った選手、バッティングは得意ではない。
しかしピッチャー甘は牛島賀にバントすらさせない、厳しい内角攻めでファールを打たせツーストライクと追い込む。
牛島賀はバント失敗後、セカンドフライを打ち上げワンアウト一二塁。
更に鬼清が倒れツーアウト一二塁で、大谷川が打席に進む。
ネクストバッターズサークルに入る前、大谷川は未練に話しかけていた。
その時の未練は九回を投げ終え、祈る気持ちで戦況を見守っていた所。
「辛そうだな、おい。大丈夫か」
大谷川は糖度九十%の屋内環境に辟易こそすれ、案外平気そうだ。
ずいぶん余裕がありますね、と未練は半分呆れ半分感心の気持ちを込めて言った。
「辛党だからな、私は」
と大谷川。
未練だってどちらかと言えば辛党だ、一体この差はなんなのか。
「お前はよくやったよ。このコンディションで大したもんだ。でもこの回点が入らなきゃ延長戦だからな。覚悟決めといてよ」
そう言い残し、大谷川はネクストバッターズサークルに向かった。
甘の初球ストレート、際どい球に大谷川のバットが止まる。
カウント1-0。
二球目チェンジアップ、タイミングが合わず空振り。
1-1。
三球目チェンジアップ、今度はタイミングを修正し振り抜く。
強烈な打球が三塁線に飛ぶもファール、ほんの少しだけまだズレがあるようだ。
1-2。
四球目外角いっぱいにストレート、手が出ない。
大谷川は肝を冷やした、ストライクを取られていてもおかしくない良い球であった。
2-2。
五球目チェンジアップ、いい低さに落とした球であったが大谷川は自信を持って見送る。
今度は甘が天を仰いだ。
3-2、フルカウント。
そこから五球ファールが続く。
大谷川、甘共に勝負に集中していた、お互い譲らない。
観客のスイーツを食べる手はいつしか止まっていた。
この試合も最終局面、ついつい見入ってしまう。
空も美々も正気を取り戻し、試合の展開を固唾を飲んで見守る。
スイーツの魔力は計り知れない、しかし野球だって負けてはいない。
この試合の開始後初めてかもしれない、野球がスイーツから主導権を奪い返していた。
十一球目、甘にとって改心の球だった。
外角低めいっぱいに渾身のストレートが投げ込まれる。
大谷川の目、体、脳はそれに反応する。
下半身を低く沈み込ませ、ボールにバットを叩きつけた。
バチンッと音を立てて、打球は甘の頭上を越える。
更にセカンドベースを越え、センター前で跳ねた。
前進守備を敷いていたセンター甘ーしが捕球、本塁に返球。
セカンドランナー夏美は既に三塁を回っている。
スイーツの魔力に耐え抜いた甘ーしの送球は正確だ。
一直線に本塁に伸びてくる。
返球は捕手の構えるミットにドンピシャで到達した。
ボールを受けた捕手、濃縮甘が夏美にタッチすべくミットを振り下ろす。
夏美はそれをかわすように、本塁よりやや右に迂回し足から滑り込んだ。
夏美は滑りながら本塁にタッチするため、体をよじり右手を伸ばす。
濃縮甘もそれに反応しブロックを試みる。
捕手とランナーは交錯し、夏美はスライディングの勢いのままグラウンドをコロコロ転がった。
セーフ、判定が下る。
夏美の右手は捕手のタッチよりも早く、本塁に到達していた。
試合終了
東京1-0千葉
東京野球団、サヨナラ勝ちである。
粉蜜は恨めしそうに勝利に沸く、東京野球団の面々を見つめた。
今一歩のところで記録は作れず、甘原との勝負も引き分けである。
菓子職人はお菓子を作り、提供してしまえば役割は終わりだ。
そこから試合をどう展開させるかは、グラウンドの選手に託されている。
粉蜜は後一押しという所まできて、見守るしかないもどかしさを感じていた。
甘原も同様で、隣で頭を抱えている。
ふとこの日の対戦相手に目をやると、ほぼ同時に甘原も粉蜜を見る。
目が合うと甘原は微笑んだ。
つられて粉蜜も微笑み返す。
結果は必ずしも満足とは言えないが、充実感はあった。
総じていい試合であった、と言えるのではないだろうか。
我に返り服装を正した空が、いそいそと二人のコメントを取りにくる。
ここは気の利いたコメントでもしてやろう、粉蜜は頭を回転させた。
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