第26話ベタついた
安間の心中は穏やかではなかった。
この時点で就任後三戦をこなし三連敗、未だ監督初勝利はお預けとなっている。
急遽昇格の新人監督、周囲の目はまだまだ温かいが本人としてはそうはいかない。
なるべく早く結果が欲しいと考えている。
そんな時に先発投手美々の早々のノックアウトである。
美々に心底ムカつきつつも、この後の試合プランを根底から練り直さねばならない。
美々に代わるピッチャーは誰にすべきか。
代わりのピッチャー……安間は手持ちの駒の顔を頭の中に浮かべた。
……ふと安間は思いついた、思いついてしまった。
セオリーからは外れる策だが思いついたものは仕方ない。
血気盛んな若手監督は自分で自分を止める事は出来なかった。
二番手ピッチャーに指名されたのは未練だった。
チーフ投手コーチの
下策にしか思えなかったからだ。
未練のような先発投手は七~五日に一度の登板に向けて、体を休め準備を進める。
急遽の投球では力を十分に発揮出来ないし、怪我の原因にもなりかねない。
未練は前回登板で百球以上を投げて完投している。
この試合の出場は避けるのがセオリーのはずだ。
しかし安間は勝ちたかった、とりあえずの一勝目が喉から手が出る程に欲しい。
ここ二戦で活躍をみせた未練に賭けてみようと考え至ったのである。
更に言えば采配に独自性を出したかった。
セオリーから外れた奇策を打ち出し成功させれば、監督としての手腕を高く評価されるのではと夢見た訳だ。
未練は急ピッチで肩の準備を進め、マウンドに向かわなければならない。
先程まで、ケーキ食って呑気にチームを応援しようと考えていた。
この急展開に気持ちの準備も整える必要がある。
「困難な状況だが君に期待して送り出そうと思う。ここで力を見せて真の信頼を獲得してくれ」
新監督のお言葉に思う所がないではないが未練の立場は弱い。
言われた場所で働くしかないのだ。
準備を終えマウンドに追いたてられる未練に、美々が声をかける。
「未練っ、後は託したっ」
頬はケーキで膨らみ、口にはクリームがついていた。
グラウンドには至る所にケーキや饅頭が設置されている。
マウンドの横にもショーケースが置かれ、いつでも取り出す事が出来る。
ショーケースからは甘い匂い、甘党ではない未練から見ても流石に美味しそうだ。
未練はマウンドに立った。
マウンドの正面にあるバックネット裏にはオープンキッチンがあり、そこで粉蜜、甘原それぞれのチームが調理をしているのが見える。
粉蜜は、紫陽花ケーキを頬張る美々を満足げに見つめていた。
美々もうっとりと粉蜜様に見入っている。
未練の視線に気付いたのか、ふと粉蜜はマウンドに目を向ける。
目が合うと、粉蜜はにっこりと未練に微笑みかけた。
思わず目を逸らす未練。
粉蜜は構わず未練を見つめ続けた。
下を向き未練は息を吐く。
打席には相手打者甘しが入っていた、そろそろ投げないと遅延と取られる。
初球、ストレート。
投球動作中にキッチンが目に入った、あれ、見覚えのある顔。
キッチン内のリポートをしているのだろう、空がいた。
カキンッ、打球は未練の足元をかすめセンター前に抜けていった。
幸先の悪いスタートである。
この日のキャッスルドームは野球をするには最悪のコンディションだった。
梅雨時で湿気が多い、湿度は八十%を越えている。
更にファールゾーンにはスイーツがうずたかく積まれ、甘気を放つ。
観客も多くがスイーツを堪能し、その吐く息は甘い。
それらが会場に充満し、むせ返るようであった。
この日の会場内、空気中の糖度は九十%を越えていたという。
ねっとりとした空気が体に張り付き、服もベタついて動きにくい。
四回まで投げ終えた未練、無失点ながら一杯一杯の投球が続いていた。
自身のコンディションもさることながら、会場のコンディションが未練を苦しめる。
空気のベタつきに絡め取られ体が重い。
漂う糖が、甘気が脳を侵食し思考を麻痺させる。
派手なピンクの内装で目がチカチカしているのも手伝ってか、頭痛がしていた。
五回表もまたピンチを招く。
この回先頭打者甘し、続く美味しに連打を浴びノーアウト一二塁。
未練は相手チーム、スイーツデザートの変化を感じていた。
回を追うごとに動きが良くなっている、気がする。
これは気のせいではない。
スイーツデザートはスイーツを我慢すればするほどに集中力やパワーが増し、プレイの精度が高くなるチームである。
そういう訓練を積んでいる。
バックネット裏キッチンを見ると、粉蜜とまた目が合う。
この試合中既に、何度も目が合っていた。
その度に粉蜜は目を細め、未練に微笑みかける。
粉蜜の横に控える空もまた体に変調をきたしているのか、フラフラと足元が覚束ない。
髪は乱れ顔はテカり、上着のジャケットがずり落ちて肩が覗いている。
口を半開きにしたまま、先日バーで見せたような潤んだ瞳で未練の投球を見つめていた。
別に未練や空だけに異変があった訳ではなく、球場全体が甘気に飲み込まれ熱に浮かされたようにフワフワと浮足立っている。
具沢山キャッスルドームはこの時、二人の菓子職人によって支配されていた。
相手三番打者、甘無量への初球ストレート。
甘無量は浮いた球を見逃さすバットを叩きつける。
甘い球に力んでしまったのか、打球はファールゾーンにフラフラと上がった。
ファールフライが取れる、と判断した海鈴は走り出す。
ボールを目で追いながら、落下地点を目指し猛ダッシュする。
間に合う、と確信した海鈴はボール目掛け頭からダイブした。
落下地点には紫陽花ケーキが積まれていた。
ケーキの山に突っ込む海鈴。
予め敷かれたシートの上にケーキは散乱し、一目ではボールの行方は判断できない。
アウト、と神は判定した。
海鈴のミットにはしっかりとボールが収まっていた。
それと同時に海鈴の交代も宣告される。
ケーキの山に突っ込んだ際にしれっと食べてしまっていたとの事で、この日二人目のお菓子交代となった。
「俺にはケーキより饅頭が堪えるよ」
海鈴と交代で入った油の第一声。
粉蜜が紫陽花ケーキなら、甘原は異世界餡のたっぷり入った饅頭で勝負している。
油も甘い物は好きではないそうだが、球場の甘い空気にまいってしまっているらしい。
一旦タイムをかけて、内野陣がマウンドに集合。
このピンチをどう乗り切るか相談しなければならないが。
未練の背後で夏美がよろけた。
そのまま未練の背中にもたれかかってしまう夏美、……なかなか動かない。
動悸と目眩、体の火照りに耐えながら心配の声をかけると、夏美は未練の背中におでこを擦り付けた。
「どうしよう……未練君、私……変になっちゃったかも」
未練は目が回るような感覚に陥った。
まるで自分が自分でないような、夢の中で普段の自分ではありえない行動をとってしまうのにも似た感覚。
甘い空気に身を任せ、フラッとおかしな事をしでかしてしまいそうになる。
例えば大勢の観客の目の前で夏美を抱き締めてしまうとか、側にあるショーケースからケーキを取り出して手掴みでかぶりついてしまうとか……
未練も夏美も甘気に当てられ、正常な判断が困難になっていた。
「おいおい、
大谷川が夏美の尻を蹴る。
ここで我に返る二人。
「盛ってませんよ!」
と言う夏美の顔は真っ赤になっている。
未練も急激に冷静になり周りを見ると、油はニヤついているし鬼清五村は呆れ顔だ。
危なかった……と未練は心底思った。
あのままいけば何をやらかしてしまうか、分からなかった所だ。
スイーツの魔力は恐ろしい。
野球を観戦中、内野手が投手に声かけするシーンを目にする事がある。
あれは今回のような事態を想定した行動である。
投手がパニック、或いは頭に血が上っている時は冷静に。
投手の気持ちが乗っていない時は喝を入れる。
投手が投球に集中する為の重要な役割なのだ。
ゲッツーを狙う、守備の方針を確認し野手は自分の持ち場に散った。
四番打者、舌に蕩けしへの初球スライダーは低めにコントロールされる。
舌に蕩けしの振りだしたバットはボールに上手くミートせず、引っかけるようなバッティングに。
打球が放たれた瞬間平凡なゴロを確信した未練、しかし舌に蕩けしのスイングが鋭かった為か打球は思ったよりも速く転がった。
飛んだ先は三塁線、抜ければ長打コースとなり失点は免れない。
大谷川の第一歩の走り出しは早かった。
打球に追い付くと冷静に掬い上げ足元にある三塁ベースを踏む、これでツーアウト目。
そのまま一塁へ送球、ボールは舌に蕩けしの足より早く鬼清のミットに到達する。
553のダブルプレーとなりスリーアウトチェンジ、この回も無失点で切り抜け未練は胸を撫で下ろした。
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