第28話聞いた
七月十九日、未練は蟹江の元を訪れていた。
初めて出会ったあの日以来、毎週のように蟹江に指導を仰ぎに生き生きて病院に通っている。
当初は振り回されるのみだった未練であるが最近は蟹江の指導にも慣れ始め、魔球カープの何たるかを掴みかけているような気がしていた。
指導の対価として未練は毎週、献上品を用意しないといけない。
これがないと蟹江は頬を膨らませ愚図るからである。
この日はインドカレーをご所望とのことで、都内の有名店スーパーエキゾチックインドのチキンカレーナンセットを用意した。
蟹江は早速、口内にナンをセットし容器に口をつけカレーを吸い上げる。
これが蟹江のインドカレーの食べ方だ。
――変な食べ方!
と未練は思っている。
「美味シイノデス」
しかし蟹江は満足そうだ。
七五歳の蟹江と今年還暦の油、美修院は現役時代かぶっている時期がある。
「あいつ、まだ生きてやがったのか」
未練が蟹江の元で修行していることを知った油は、驚きの表情を浮かべた。
油曰く、蟹江は野球バカとの事である。
野球選手に限らずアスリートは、怪我との戦いを余儀なくされる。
体のどこかに痛みを抱え、それに耐えながら騙し騙し競技を続けている部分が少なからずあるかと思う。
ベテラン選手ならなおさらだ。
現に六〇手前の油の体は既にボロボロである。
蟹江の現役晩年も例外ではなかったはずだ。
蟹江はその苦しみを一切見せることなく、飄々としていたという。
だからといって痛みを内部に溜め込みじっと耐えていた訳ではない、と油。
野球に夢中で痛みに気付かなかったのだと。
一応断りを入れておくとこれはあくまで油の私見である。
とある試合中のベンチで蟹江は唐突に、自身の抱える体の痛みに気付く。
気付くと同時に蟹江はイタイデス、イタイノデスと泣き叫び、球団スタッフに担がれベンチから退場、そのまま引退していった。
このことは当時若手だった捕手の脳裏に深く刻まれており、油は今見てきたかのように臨場感を持って話すことが出来る。
蟹江も油の事はしっかり認知している。
「油君、優シイデス。好キナノデス」
油は永らく蟹江とは会っていないかのような口振りであったが、折に触れては見舞いなどに来ているらしい。
ツンデレというやつである。
蟹江の引退エピソード、おそらく油が話を盛って喋っているのではと未練は思っている。
しかし口に含んだナンにインドカレーを吸い上げさせている蟹江を見ていると、なんとなくリアリティのある話にも思えてくるのだ。
蟹江は時に突飛な行動を取った。
本当にこの人は自分と同じ世界の出身なのだろうか、未練は疑問に感じる事がある。
蟹江と話していて、そういった共通項を見出す機会は少なかった。
そもそも世代が違いすぎるし、蟹江がこの世界へ迷い込んだのは五十年以上前のことである。
これではなかなか共通項を見つけるのは難しいのかもしれない。
しかし、そんな事には関係なく未練は蟹江と過ごす時間が好きだった。
蟹江には未練を安心させる魅力があった。
週に一回、蟹江の許を訪ねるのが楽しみであったし、ついつい話し込んでしまう。
「未練君モ、優シイデス。好キナノデス」
蟹江の言葉に未練は、えへへと返した。
この頃の未練には若干の心の余裕があった。
蟹江との交流もその一因である。
そして何よりも仕事が上手くいっていた。
復帰後の未練は八試合に登板し、六勝無敗と好調を維持している。
先日の無茶な起用にも応え、監督の信頼も獲得しつつある。
安間はあの試合以降もたまに、大胆な采配をする事がある。
主に未練に対してである。
これは別に嫌がらせではなく、未練が使いやすい駒だからだ。
プロ野球選手の中にも、学閥というものがあり、うるさいOBから起用法に関して度々横槍が入る。
未練はその点、しがらみのない選手だ。
異世界人派閥というものも存在はしているが、あまり強い派閥ではない。
異世界人組合とも疎遠なため、安間にとって未練は自分の手足のように使える便利な選手となっていた。
ここまで未練は安間の要求にしっかりと応えている。
安間は未練の事を気に入ってしまい当面、出番を失うことはなさそうに思えた。
好調ゆえか最近の未練は、活動的だ。
隠れてコソコソ空と会っているし既に二度、粋な馬市も訪れている。
この世界における生活基盤を固めつつある未練だったが、やはり元の世界が気になってはいた。
粋な馬市内の生活圏だった場所を、ふらふらと徘徊してみたものの二度とも特に収穫なし。
只訪ねただけになってしまった。
元の世界とは異なる色で塗られた思い出のアパートの前に立つと一瞬、寂子の顔を思い出す。
寂子は未練のアパートに足しげく通い料理や掃除洗濯など家事の世話を焼く、そんなタイプの女性だった。
そもそも未練とは高校の同級生、軟式野球部員とマネージャーの関係だった訳で、元々そういう気質を持っているのかもしれない。
高校在学時は選手とマネージャーの関係でしかなかったが大学進学後に即再開し、寂子からのアプローチで交際をスタートさせたのであった。
寂子の顔は、一瞬浮かんだがすぐ消えた。
やはり建物の色が違うとあまり感慨が湧かないものである。
元の世界へ帰りたくはないのか、この事を未練は蟹江に聞いてみたかった、しかしその為にはタイミングを計らねばならない。
蟹江との面会の日は主にチームが試合のない日であり、しばしば夏美が付いて来ていた。
夏美も蟹江には興味津々のようで、よく蟹江を質問攻めにした。
主に野球の話である。
蟹江の答えは難解なものが多く理解が及ばない事が多々あったが、夏美は夏美で野球バカ。
更に質問に質問を重ね、野球談義はそれなりに白熱しているようである。
夏美はこの世界を、この世界の野球を心から愛している。
故に他者にも好きでいて欲しいし、離れる者があればひどく悲しむ。
特に異世界人は競技性の違いから、この世界の野球に失望して辞めていく者が多い。
その度に夏美は心を痛めていたのだろう。
未練はそう理解している。
純粋な反面、我が儘な奴だとも思っている。
夏美がトイレに立った時、ついに未練は蟹江に質問をしてみた。
「タマニアリマス」
やっぱりそうですよね、と未練。
元の世界に帰る方法を試している人はいないのか、実際に帰れた人は一人もいないのか、こっちの世界に来れたんだから帰る方法もあるはずでは。
「分カラナイデス……」
夏美が戻ってくる前に話を終わらせねばならない、未練はついつい矢継ぎ早に質問してしまい蟹江を困惑させてしまった。
未練は後悔した。
初めはそんなつもりではなかった。
望郷の気持ちをなんとなく蟹江と共有したかっだけなのだ。
そもそも蟹江に、帰る方法を聞いた所で答えられる訳がないではないか。
異世界について多くの事は分かっていない。
未練の元いた世界から今いる世界へ誰かが迷い込む事ははあっても、逆の例は確認されていない。
何故一方通行なのかも分からないし、何故こうした事がおこるのかも分からない。
未練達が普段対戦をしている異世界との関係も分からないし、現世に出現する神と世界の関係も分からない。
分からない、分からない、分からない事だらけである。
現代科学でも解明できていないこれらの事を蟹江に問うても仕方ない、未練は反省した。
因みに当然ではあるが、語り手も異世界の真実は知らない。
今後、語り手の口からこの世界の構造が語られるなどという事は期待しないで頂けるとありがたい。
「未練君、帰ッチャウンデスカ」
蟹江は不安そうな表情で未練をじっと見つめた。
未練は否定する、帰ろうにも方法がわからない。
しかし気になっているのもまた事実、未練は正直に今の気持ちを話した。
「帰ルチャンスアリマス、タブン」
蟹江は真剣な目で言った。
どういう事だろう、疑問に思った所でタイムアップ。
夏美が戻ってきて、この話題はお開きとなった。
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