第20話:村正、おめかしする
冷たい流水が火照った身体を冷まし、清々しさが心に宿る。
「ふぅ……」
「村正殿ぉぉぉぉぉぉぉぉっ‼」
「……なんなんだよ急に」
大声で自身の名前を叫んでいるその者に、村正は嫌悪感を示す。しかしこの時、彼女が怒っていると村正はすぐに察した。
真っ赤にした顔で息を切らしている様はさながら般若の如く。かと思いきや小娘のように頬を膨らませて不機嫌さを露わにしたりと、感情の起伏が忙しない。
とにかく、事情を知らぬ限りはどう対処していいかわからない村正は杏二郎へと事情を尋ねた。
「いったいどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも案山子もござらん!」
「何をそんなに怒ってるんだ?」
「き、聞いてくだされ! トウカ殿が村正殿と出掛けられると聞き、某も同行すると申したのですが、必要ないと言われてしまい……」
「そうなのか? まぁ、仕方ないんじゃないか?」
「村正殿はお、お二人で出掛けられるおつもりにござるか⁉」
「オボロはトウカが不在中の屋敷を任されているし、酒吞童子との戦いで負傷した奴らは怪我こそよくなったもののまだ戦える状態じゃない。その辺りを差し引いて、実力だけなら俺達二人だけで問題なしって判断したんだろ」
「な、納得がいかぬ! 戦力であれば何故この杏二郎を同行させないのか!」
「んなこと俺に言ったって仕方がないだろ」
「これでは逢引ではござらんか! は、破廉恥な……某から村正殿を奪おうとは笑止千万!」
「いやそうはならないだろ。後俺はお前のものじゃないし気持ち悪いからやめろ」
幼子のような言い分をする杏二郎に、村正は沈思する。一先ず、彼女に駄々をこねるのを止めさせることから始めた。
(大の男が駄々をこねる……うっ、気持ち悪くなってきた……)
未だ脳裏に焼き付いて離れない、本来の真加部杏二郎の姿は村正に酷い吐き気をもよおす。
辛うじて嘔吐するのだけは避けられた村正であったが、杏二郎の怒りはまだ収まっていない。
この大きい子供を如何にして説得するべきか。うんうんと唸る村正に、杏二郎が深く頭を下げる。
「村正殿! どうか某も一緒に同行できるようトウカ殿に口添えしていただけぬか⁉」
「俺が言うのかよ」
「貴殿しか頼れる者がおらん! この通り!」
「…………」
トウカの話では、都へ招かれたのは彼女と村正の二名のみ。そこに杏二郎の名はなかった。
指名なき者を連れていくのは原則認められない。
だが、護衛としてならばなんとかなるかもしれない。
「……仕方ない。俺の方から一度トウカに進言してみる」
「おぉ! さすが村正殿! 某が惚れた男にござる!」
「…………」
「ではっ! 某も身を清めるとしよう!」
「は? お、おいちょっと待て!」
杏二郎の取った行動に、村正はぎょっとする。
かつては真加部杏二郎も男である。半裸を晒そうとも、それで恥ずかしがるようであれば戦場では生き残れていない。
今の姿が美しい女であろうとも、生まれてからずっと染み付いてきた習慣は未だ男のまま。従って、癖で衣服を村正と言う男の前でさも平然と脱ぎ捨ててしまったのである。
村正としては、突然女が生まれたままの姿となったのだから、当然これには驚かざるを得ない。
(こいつ……綺麗な身体をしてるんだな)
露わとなった乳房は、村正の視線を釘付けにする。それは同時に、彼の虚手に柔らかな感触さえも錯覚させた。咄嗟だったとは言えども、村正は杏二郎の乳房をがっちりと掴んでいる。
(って俺は何を⁉)
村正は必死に煩悩を振り払った。
元男に少なからず欲情を抱いてしまった自身への不甲斐なさを咎めていることなぞ、目の前の女が知る由もない。
杏二郎がかわいらしく小首をひねった。
「如何なされた?」
「いや、お前さんなぁ!」
「……あっ!」
村正からの指摘を受けて、ようやく卑しい行為をしていると気付いた杏二郎は慌てて乳房を隠した。
「み、見たでござるか……?」
「…………」
「い、いやその! 村正殿は将来某の伴侶となるお方!
遅かれ早かれ見せるのならば、今であろうと問題はないでござる!」
「いや問題大有りだからな? と、とにかく今のお前はもう女なんだから。もっと、こう……自分の身体を大切にしろよ」
「……そう、でござるな……うん」
「お、俺は先に行くからな! ついてきたいんだったら、ちゃんと準備だけは整えておけよ!」
気まずい空気に耐えかねて、村正はそそくさとこの場から立ち去った。
杏二郎との不祥事の後、村正は屋敷に戻った。
「ほぉ、予想通り似合っているな」
「そうか?」
我がことのように喜ぶトウカに、村正は気恥ずかしそうに己を見やる。
黒の生地に描かれるは天を目指す昇り龍。更には赤拵の手甲なども違和感なく村正の身を守っている。
かつてのみすぼらしさは、どこにもない。
採寸などされた憶えがない村正は、この着物を仕立てた和裁士を称賛した。
「でも、本当にいいのか? 結構よさそうな生地使ってるだろこれ」
「先程も言ったように、それは私からの感謝の印でもある。遠慮せずに受け取ってもらいたい」
「あぁ、もちろんだ。ありがとうなトウカ――ところでなんだが、ちょっといいか?」
「どうした?」
「今回の同行、杏二郎の奴も一緒に連れていってもいいか?」
ここぞとばかりに、村正は本題を切り出した。
杏二郎の同行を提案した途端、トウカの顔にはあからさまに不満の
「駄目に決まっているだろう。今回呼び出されたのは私と貴様だけだ」
「それはお偉いさんの前では、の話だろ? 道中までもは制限されてないはずだ」
「貴様と私がいれば十分じゃないか」
「何が起こるかわからないだろ。杏二郎の強さは俺が知ってる、お前だって酒吞童子と打ち合って尚も生きてるのを見てるだろうに」
「それは、そうだが……」
あくまで、杏二郎の同行を頑として認めようとしないトウカ。どうしたものかと悩んでいたその時、水浴びをしていた杏二郎が戻ってきた。
「ただいま戻ったでござる!」
「お、おぉ杏二郎」
「キョウジロウ、申し訳ないがこれは私とムラマサだけの招集だ。貴様には悪いが――」
「な、なんと⁉ 村正殿交渉をしてくれると仰られたはず……!」
「これでも頑張ってたんだけどな……」
村正は肩を竦めた後に手を挙げた。
お手上げだ、もう自分ではどうすることもできない。
村正の意志を汲み取った杏二郎が、ついに自ら交渉に打って出る。
「トウカ殿! 某の槍であれば貴殿らをお守りするに相応しいはず!」
「と、とにかく駄目なものだ駄目だ! 貴様は連れていけない!」
「そこまで拒むのは他に理由があるからではござらんか⁉」
「そ、そんなものはない!」
「今某から目を逸らしたのが何よりの証拠にござる!」
「だ、黙れ黙れ! 駄目ったら駄目!」
「ぐぬぬ……!」
「くぅぅ……!」
「……やれやれ。もういい加減にしてそろそろ行かないか? こんな調子だと日が暮れるぞ」
睨み合ったまま一向に動こうとしない二人の仲裁に入った。この時村正は杏二郎の味方についたものだから、トウカからは突き刺さるような鋭い眼光が村正へと飛ばされる。
臆することなく、村正は進言した。
「……トウカ。この国には酒呑童子みたいな奴がまだいるんだろ? だったからこいつがいることは俺達にとっても悪い話じゃない」
「左様! 先の酒吞童子では後れを取ったがもう負けはせん! 某の槍はあやかしであろうとすべて穿ってみせる!」
「言っていることはわかるが……」
「都に着くまでの間だけ。謁見するのは俺とトウカの二人のみ、杏二郎は外で待機しておく――これなら問題はないだろ?」
「トウカ殿……!」
「……はぁ。もうわかった。そこまで言われたなら仕方がない」
「おぉ! 感謝いたしますぞトウカ殿!」
項垂れるトウカと、身体全体を使って喜びを表す杏二郎。対照的な反応を示す二人を見やる村正の顔は、疲労が既に浮かんでいた。
ともあれ、これでようやく出発ができる。安堵する村正であったが、そこに鋭い眼光が浴びせられる。
むっとした表情をするトウカ。あからさまに不機嫌さを示している彼女に、村正はその理由を知り得ない。
(何を怒ってるんだよ……真面目な奴だな。まぁいい)
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