第5話:注文と地雷の多い料理店

 

 玄関に入った瞬間から、僕は驚きの連続だった。

 大理石の床。汚れた靴を置くのがはばかられるほどだった。

 長い廊下。服についた埃を落とすのが申し訳なくなるほどだった。

 そしてスキンの肌。玄関のドアが閉まるなり、彼女は荷物を置き、そして、着ている制服を脱いだのだ。上下とも。

 一瞬のことだった。

 この高級空間全体に意識が向いていた僕は、そのため、スキンのその行動への反応が致命的に遅れた。

「……ええ⁉︎」

 霞が、そんな驚きの声を上げた時には、スキンはもうすでに、バスローブのような、真っ白い部屋着に身を包んでいた。

 もし、彼女に向かって、『見損ねた』などと言ったら、即座に、『見損なった』と返されることを察し、僕は、「大理石すげー」などと言って、ずっと床を眺めている馬鹿を演じた。

「早く」

「ん? ああ」

 すでに玄関から上がっていたスキンにそう促され、霞は、靴を脱いで、できる限り丁寧に揃え、一歩、廊下に足を踏み入れる。

 正面から蹴られた。

「なんで⁉︎」

「制服脱げよ、部屋が汚れるでしょーが」

 まあ実際は、『蹴られた』というよりも、腹を足裏で軽く押された、くらいの強さだったけど。

 そもそも、スキンが目の前で着替えているのに気づいていながら、その行動の意味も考えず、僕は原始人のように、この汚れた服で、彼女の神聖なる住空間を侵そうとしたのだから、足蹴あしげにされて当然、いや、むしろこの程度のたしなめで済ませてくれた、スキンの温情なる精神に、感謝するべきだろう。

 いや、そうか? 普通に、『部屋に上がる前に着替えてくれる?』とお願いしてくれれば良かったのでは?

「それ着て、制服はそのカゴに入れといて、終わったら来て」

 スキンは僕に淡々と指示を出し、スーパーの買い物服を二つとも持って、廊下の奥へ消えていく。

 『それ』?

 霞がその場所を見ると、玄関横のクローゼットの中に、スキンの着ている物と同じ、白いバスローブが何着か置いてあった。

 これ、だよな……? 着ていいんだよね?  

 新品のような白さを誇るそれを、手に取ることさえ一瞬躊躇ちゅうちょしたが、結局、霞は言われた通り着替えて、脱いだ制服を軽く畳んでカゴに入れて、スキンの後を追いかける。

 スキンの後を追いかける? 

 霞は一度立ち止まって考える。

 なんでだ?

 ここまで来たのは、荷物運びの仕事として理解できる。しかし、その荷物を、家まで運び終え、それも、すでにスキンに回収されている。

 僕の仕事はここまでで十分ではないか?

 むしろ、この近さなら、マンションのエントランスはおろか、スーパーの出口まで運べば十分だったのでは?

 どうしてスキンは僕に、家を晒し、階を示し、部屋の場所まで特定させたのだろう……。

 不可解だ。

 何より、この場所は学校に程近い、スーパーの袋を持った僕たちが、このマンションに入っていく所を、知り合いに目撃されたらどうなる?

 付き合っている、どころか、同棲どうせいを疑われかねない。

 二重の誤解を受けることになる。ちなみにここは、25階だ。

 まあ、お互いに知り合いとかいないから大丈夫か?

「まだー? 早くー」

「おっと」

 そんなこんなで立ち往生おうじょうしていると、廊下の奥の扉の向こうからスキンの声がかかる。

 まだ雑用が残っているのかもしれない。

 霞は、大急ぎで、それでいて埃を立てないような早足で、彼女の元へと向かう。


「遅い」

「すみません……広くて迷ってました」

「一本道なのに?」

「疲労でへばってました」

「男なのに?」

 男でも疲労でへばることはあるだろう。むしろ、日頃の活動内容の活発さ的に、女よりもその機会は多い気がする。

 まあ、どちらも僕の冗談のような嘘なので、何も言い返すことはないが。

「買った物、冷蔵庫にしまってくれる?」

「はいはい」

 そんなことだろうと思った。

 霞は言われた通り、袋から食材を取り出して、業務用サイズの冷蔵庫に入れていく。

 なるほど、このサイズならまとめ買いしてストックしておけそうだ。今日は、その買い物の日だったのか?

 それか、ちょうどいた僕を、召使いのように利用したのか。

 この家の召使いなら、なってもいい気がする。多分だけど、かなり待遇は良いだろう。

「あ、それは入れなくていいや、ちょうだい、すぐ使うから」

「んー」

 霞は持っていた豆腐をスキンに渡す。

 こんなやりとりが何回かあり、全ての食材を、あるべき場所へと送り届けた。

「じゃあ僕はこれで……」

 そう言ってスキンに振り返ると、スキンはローブを脱いで、エプロンを身につけていた。

 裸エプロン、ならぬ、下着エプロン。

 予想通り、スキンの全身は、それこそ職人が磨いた工芸品のように、美しく映えていた。

 特に、露わになった背中のラインは、その絶妙な曲線と筋が、生き物とは思えない、完成された美しさを発現していた。

 その格好のためか、太ももの裏、という、普通に生活していたら、まずお目にかかることのない部位も、晒されている。そんな、人の目の行き届かない場所も、抜かりなく、妥協なく、『丹精たんせい込めて磨きました』と言わんばかりに、輝いていた。

 って違ーう! 何考えてんだ!

 そのあまりの美しさに、霞は我も忘れ、常識も忘れ『鑑賞』してしまっていた。

 感動するほどに。

「え? なに……やってんの?」

「自炊してなくても、見れば分かるでしょ、料理すんの」

「料理……」

 いや、そんなことは分かってるよ。

 そのために買い物をしたのだし、そのためにエプロンを身につけることにも、なんの疑問もない。

 でもその格好……!

 は。まあ、バスローブで料理はおかしいし、その上からエプロンをつけるのはもっとおかしい。

 つまり、スキンの行動は理にかなっている。

 しかも、ここはスキンの家だ。

 何一つ、おかしな点はない。

 僕がここで覗いていることを、除けば。

 ひょっとして、彼女は、僕を居ないもののように扱うことで、暗に『さっさと帰れ』と言っているのだろうか?

 ぶぶ漬けなど比べ物にならないものをすええられた気分だが。

 据え膳食わずに帰るべきだろう。

 絶対違うけど。

「それじゃあ、僕はこれで……」

「え? なに言ってんの?」

「え?」

 さっきとほとんど同じことを言った僕に対して、スキンは、包丁を扱っている手元から目を離さず、驚くべき提案をしてきた。

「ご飯、食べていきなよ」

「……いや、そこまでは」

「私の体、見たでしょ」

「……ご馳走ちそうになります」

 提案ではなく、命令だった。しかも、少し脅迫された。

 食事に毒を混ぜて、僕をここで確実に殺すつもりなのだろうか?

 それとも、言うことを聞かないと、クラスであらぬことを言いふらすということだろうか?

 マリンとのお出かけを、どうしてか知っていた件もあるし、ここでスキンの命令に背くことはできそうになかった。

 そこで、キッチンから離れ、向かいの、ダイニングへ移動する。

「適当に座りな」

「はい」

「そこは私の席……まあ、どうしてもそこがいいならいいけど」

「……」

 どうしてもそこは避けたかったので、その向かいの席に座る。

 考えすぎだと思うけど、これ以上、弱みになりそうなことを増やしたくない。

 もっと考えすぎると、最初に制服を脱がされたのも、僕がすぐに逃げ出せないようにするためではないかと思えてくる。

 もう思考が、誘拐された人間のそれだ。

 ストックホルム症候群にならないといいけど。

 長時間同じ緊張感を共有することで、人質が犯人に、恋愛感情に似た親近感を抱くというアレだ。

 まあ、食べたらすぐに帰るから、大丈夫だと思うけど。

 大丈夫……だよな? 

 食べたら、すぐに、帰してくれるよな?

 キッチンで調理をしているスキンを見る。僕の視線にも気づかず、黙々と作業している。

 何か手伝えば良かったかな? いや、多分足手まといになるだけだ。

 霞は、大人しく待っていることにした。

 しかし、すぐに暇を持て余し、周りを、行儀悪くキョロキョロ見回す。

 初めこそ、部屋の広さや、贅沢な間取り、相当の空間的・金銭的な余裕がないとできないようなインテリアのレイアウトに、霞は、子供のように心をおどらせていたが、すぐに飽きた。

 物が、極端に少ないのである。

 ちょうど、高級ホテルを訪れたようだった。

 ここには、スキンらしさを表す物が何一つ置いてなかった。

 まあ、見方によっては、特徴の無さこそが最大の特徴だと、言えなくもないけれど、それにしても、生活感がまるで感じられない。

 質素を通り越して、殺風景な空間だった。

 25階。まだ夜景という時間には少し早いけれど、せめて、外の景色が見れたら良かったのだが、やたらと分厚いカーテンによって、視界は完全に閉ざされている。

 外からは、光一つ、入り込みそうにない。

「お待ちどお」

 霞の前に、コトっと、食事が置かれる。

「あ、ありがとう」

 スキンにお礼を言うが、すでにいない、彼女はまたキッチンに、自分の分を取りに行っている。

 献立を見る。どれも、霞のよく見知った料理だった。

 玄米、冷奴、ほうれん草のおひたし、レンコンとごぼうの炒め物、そして大根とワカメの味噌汁。

 バランスの取れた、良い食事だと思った。

 しかし、このメニュー……。

「何かアレルゲンでも入ってた?」

「あ、いや、大丈夫、油分が多いと気持ち悪くなる体質だけど、食物アレルギーはない……」

「どうしかした?」

 隣に座ったスキンに、怪訝な目を向けられる。

「ええと……?」

 なんで……隣に座ったの?

 え、だって、『そこ私の席』って言われたから、僕はそこを避けて、向かいの席に座ったんだよ?

 なんで、隣に並ぶの?

 気になったが、なんとなく聞くのがはばかられたので(『唾が飛ぶから』とか『顔を見てたら飯が不味くなるから』とか言われたら普通に傷つくし)、僕は、最初に気になったことを聞く。

「肉とか、魚とか、食べないんだね」

「ああ、欲しかった?」

「まあ……あるのが一般的かなと」

「私のじゃダメ?」

「……へ?」

 いただきます、と言って、何食わぬ顔で、スキンは食べ始めている。

 もちろん、彼女と僕のメニューは同じであり、向こうの皿にだけ動物性タンパク質がふんだんに含まれたおかずがある……とかではない。

 私の=スキンの肉(体)

 冗談だとしても、そういう意味になるよな。

 もしかして、『オカズ』とも掛けられているのだろうか? だとしたら、なかなか粋なジョークを飛ばす。

 黒いけど、ブラックジョークだけど。

 いただきます、というと、肯定の意味に取られかねないので、もう一度、ご馳走になります、と言って、霞は食べ始めた。

 うん、見かけの通り、薄味だった。もしくは、緊張で味がしないかのどからかだ。


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