第9話:マリンブルーでサプライズ

「ありがとう、もう落ち着いたよ」

「それなら良かった」

 たったの3分だった。

 マリンはまた普段通りのりんとした表情に戻り、当然のように、僕からも距離を取って座っている。

 まだベッドの上だけど。

 試合でも、このくらいの速さで気持ちを切り替えているのだろうか? 流石はキャプテン、頼りになる。

「長々とごめんね、いつもなら切り替えに、こんなに時間かからないんだけど……」

「…………」

 これでも長かったそうだ。

 本当、普段はどんなスピード感で生きているのだろうか。

 いや、むしろ、普段からそんなに早く切り替えているからこそ、何百、何千回と凛とした表情に戻しているからこそ。 

 今日、こうなってしまったのかもしれない。

 泣いて、笑って、元に戻って。今日は今日で、忙しい。

「どうしたの? さっきからぼーっとして」

「あ、いや、その」

 霞は今更になって、慌てて目を逸らす。

「あ……!」

 霞のその行動により、マリンは、自分の体が、あられもないことになっていることを自覚する。

 ベッドの上から転がり落ちるようにして霞から離れ、近くにあったタオルを手に取り、体を隠す。

 それでも、隠れるのは長い胴体だけであり、手足や首周りははっきり見えてしまっていたが。

 マリンは、羞恥に顔を赤く染め、霞を細い目つきで睨みつけながら言う。

「……エッチ」

「い、いや! 違うんだ!」

 何も違わなかった。

「あ、あれは不可抗力ふかこうりょくというか、マリンを慰めるために……!」

 先に手を出したのも、マリンから弱みを引き出したのも、僕だった。

 何を言っても、ちまたでよく聞く、犯罪者の言い訳、自己弁護にしかならなかった。

 事後弁護?

 しかし、慌てふためく僕を見たマリンはクスッと笑いながら言う。

「なーんて、ね。冗談。霞くんは下心なく私を助けてくれた、でしょ?」

「……もちろん」

 抱き合っていた3分を、『たった』と形容している時点で、まるで説得力のない返事だった。

 名残惜しく、未練タラタラである。

 そんなことをおくびにも出さず、霞は、凛とした表情を作り(ちなみにさっきから目は閉じている。いや、薄目開けてるとかじゃなくて、ほんとに)、マリンのいるであろう方向に向かって紳士的な台詞を言う。

「ほら、早く着なよ……身体、大切にしないと」

 何故か少しセクハラっぽい。なんでだ?

「うん……言われなくても」

 そう言ったマリンだが、しかし、一向に着替える気配がない(もう一度言うが僕は耳がいいだけであって、うっすら目を開けて見ているとかでは断じてない)。

 では何を躊躇ちゅうちょしているのか……。

 逡巡しゅんじゅんしている、のか?

「マリン……買った服を、見せてほしい」

「……え」

 何を買ったのか、もちろん僕は知っている。意識を失う前の、その記憶は、しっかりと残っている。

 でも、見ていない。それを、本人が、着ているところを。

 マリンの迷いは、制服を着るか、買ったボーイッシュな服を着るかだ。

「……でも」

「大丈夫」

 そして、買った服を着るのに、なぜ躊躇ちゅうちょしているのか、今の霞には、分かる。

「着て、見せてくれたら、必ず、もう一度、同じことを言うから」

「…………!」

「まあ、どっちを着るか決めるのはマリンだから、僕は、大人しく、ここで着替えを待ってるよ」

「……制服だったら『言って』くれないの?」

「さあ? 僕は思ったことを、素直に口に出すだけだよ」

「……いじわる」

 そう言ったあと、マリンはすぐに着替え始めた。

 まあ、その瞬間に、耳のいい僕には、彼女がどちらを選んだのか分かったのだけど。それでも、だからこそ、楽しみだった。

「もういいかい?」

「もう、いいよ」

 着替え終わった音がした(正確には着替えの音がしなくたった)タイミングで、僕は念のため、口頭でも確認する。

 マリンからすぐに返事が返ってくる。

 これがかくれんぼだったら、目を開けてすぐに終わりだ。

 これがかくれんぼじゃないから、目を開けたらすぐに始まりだ。

「カッ……『可愛い』……よ」

「ふふ、ありがとう」

 目を開けた霞の目の前には、ボーイッシュなジャケットスタイルにより、凛々しさが何倍にも増した、マリンが立っていた。

 準備していたから、なんとか言えた。

 約束したのは、『思ったことを、素直に口に出す』であり、『素直に思ったことを、口に出す』ではない、

 『可愛いと言おう』と思っていたことを、口に出したのだ。     

 まあ、それでも、危なく、『素直に思ったこと』を言いそうになったけど……。

「でも一瞬、『カッコいいっ』て、言おうとしてなかった?」

「いや? 最初に『』かっこを言おうとしただけだよ」

 霞はマリンに指摘され、即席の誤魔化しをする。

 『可愛い』ーーカッコ可愛い。

 まさに、マリンのことじゃないか。

「おいおい、カッコは言うものじゃなくて」

 彼女は、大袈裟に、芝居がかったセリフを、凛として言い放つ。

 宝塚のように。

「つける、ものだろう?」

 そして、マリンは、霞の目の前で腰に手を当て『カッコつけた』。

 黒のパンツに、白のシャツ、そして紺色のジャケット。地味とも取れるような、そのシンプルなコーディネートでありながら、いや、だからこそ、本人の素質が全面に出て。

 それはもう、痺れるくらい、格好良かった。

 もう人としても、男としても、何一つ勝てる気がしない。

「ところで、霞くんの方は、もう体調は大丈夫?」

「ん? ああ、すっかり良くなったよ」

 そもそも1時間も寝ていたのだし。それ以上に……良い思いもしたし。

 むしろ、元気いっぱいだった。

「それじゃあ出ようか」

 マリンはそう言って、着てきた制服を紙袋に詰め始める。

「え? その格好で帰るの?」

「もう一度、私が着替えるところを見たいってこと?」

「いや、そうじゃなくて!」

 しかも、着替えるところは一度も見てないし。

 スカートを下ろす瞬間が目に入っただけだ。

「その……良いのかなって。その姿、男の僕から見ても、男にしか見えないから……」  

 可愛くなりたい、普通の女の子になりたいと言っていたマリンの願望は、結局どうなったのだろうか。

「ん……まあ、確かに『女の子らしく』なりたい思いはあるよ。でも、もう十分、褒めてもらえたし……す、ーーな人に……」

「ん? 何て?」

 最後の方が小声で良く聞き取れなかった。

 なんて言ったんだ? す…『素敵な人?』

 だとしたら、僕のことじゃないな。

 僕はただの病的な人だ。

「な、なんでもない! 早く行こ!」

「あ、ちょっと待って……」

 荷物をまとめて、そそくさと部屋を出ようとするマリンを、霞は慌てて追いかける。

 せめて、ホテル代だけでも払おうと、財布の入っているポケットに手を入れる。

 そこに、慣れない感触があった。

「霞くん? どうしたの? 何か忘れ物?」

 既に玄関にいるマリンは、未だ部屋の中央で、ポケットに手を入れたまま硬直している霞に、疑問を投げかける。

 忘れ物? いや、忘れ物じゃなくて、これは、ただ僕が、忘れていただけの物だ。

「マリン、ちょっと目をつむって」

「え?」

「いいから」

 言われた通り、マリンはその場で目を閉じる。

 僕は、玄関にーー彼女の方へと向かいながら、ポケットの中の物を出し、プレゼント用の丁寧な包装を開け、中身を見る。

 うん、意識を失う直前の自分にしては、なかなかいいセンスじゃないか?

 あとは、これを……う、と、届かない……。

「マリン、ごめん、ちょっとしゃがんでくれる?」

「何なの……?」

 そう言いながらも、マリンは、霞の指示通り、スッとしゃがむ。

 中腰の姿勢が多いバレーで鍛えられているだけあり、足腰は相当強いらしい。脅威の安定感だった。

 よし、これで、頭に手が届く。

「オッケー、もう良いよ」

「ん? ん?」

 目を開けたマリンは、周りをキョロキョロとしていた。

 サプライズでも仕掛けられたのかと思ったらしい。

 でも、いくら周りを見ても、そんなものは見つからない。

 だって、サプライズは、

「あ……!」

 玄関に設置されている姿見に目を向けたマリンが、そこで『それ』気づき、驚きの声を上げる。

 マリンの頭の上、正確には、髪の上にあるのだから。

「僕からの……プレゼント」

「嬉しい……ありがとう!」

 お礼、と言いそうになるも、それだとマリンの身体を見たことの対価のようになってしまい、気持ち悪いので、便利な言葉に置き換える。

 僕からマリンへのプレゼント、それは、マリンブルーのヘアピンだった。

 駄洒落だって? 仕方ないじゃないか。そういう色がちょうどあったのだから。

 ショッピングモールでマリンの会計を待っている間、僕は、彼女の目を盗んで、店内を駆け巡り、何かいい贈り物がないか探したのだ。

 そして、見つけた、マリンにぴったりの、プレゼント。

「それに……可愛い!」

「でしょ」

 玄関の姿見の前で、踊り出しそうなくらいに喜ぶマリン。

 予想通り、いや、予想以上に、彼女に合っていた。

 ショートヘアの彼女に、ヘアピンは無用の長物かとも思ったけど、例えば、運動時は危ないから外した方がいいが……勉強の時とか、前髪を止めるのに使えるだろう。

 あとは、今のように、少しイメージを変えたい時とか。

 ボーイッシュなマリンに、ささやかな、『可愛さ』や、『女の子らしさ』を付け足す、魔法のアイテム。

 プレゼントがうまく行ったのを良いことに、霞はただひたすらに自画自賛していた。

 これで僕も、少しは格好がついたかな?

「霞くん」

 満面の笑みで、マリンがこちらに振り返る。

 前髪に新品のヘアピンを輝かせ、それ以上に輝く瞳で、僕を見つめて、凛としたよく通る声で、言った。

「大好きだよ……これ、大切にするね」

 そんなに気に入ってもらえて何よりだ。気を失ってまで、手に入れた甲斐があった。

 この日から、僕の人脈に、一人追加されることになった。

 滝眺たきながマリン、脈アリだ。

 ……意味違う?

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