第6話:ホテルイン、トライ、プットオン

「次は……こっちの方面に……あれ、こっちかな?」

「霞くん大丈夫? さっきから、足取りがおぼつかないけど」

「うん……大丈夫」

 もちろん、大丈夫ではない。

 ただ、足は引きずっているものの、先の罪悪感を引きずっているわけではない。

 霞は単純に、疲労していたのだ。

 午前中から歩きっぱなしであり、慣れない場所に、姉以外の女性を引き連れ、人混みを避けて進んでいる。

 加えて、今は午後二時。最も暑い時間帯である。

 今の天気は、快晴かいせい無風むふう

 全ての状況が、霞の気力体力をゴリゴリ削っていた。

 大体だいたい気力ってなんだよ、空気の力か? そんなもの入れてどうなるというんだ。確かに吹けば飛ぶように軽い僕ではあるけれど、体は空気でできていない。

 命は風前ふうぜん灯火ともしびかもしれないが。

「……危ない!」

「んえ?」

 そんな風にフラフラと歩いていた僕は、マリンの声と、後ろから伸びてきた手で歩みを止められる。

 何が? と思った刹那、目の前を神速の自転車が通り過ぎる。

 僕は、横断歩道にも、信号にも、それが赤であることにも気付けず、突っ切ろうとしていたのだった。

「あ……ありがとう! いよいよ命が尽きるかと思った」

「普段からそんな今際いまわきわで生活してるの? 心配だよ?」

 と、マリンから耳元で囁かれる。

 ……耳元で囁かれる?

「あの……マリンさん? もう、大丈夫だから……」

 霞は改めて自分の身の回りの状況を把握する。

 マリンは、僕の歩みを止めるために、後ろから抱きしめるように手を回していたのだった。

 この身長差だと、大人と子供みたいだ。マリンに、後ろから止められると言うよりも、覆い被される、包まれる、といった状態だった。

 飛び出す子供を親が抱き止める感じ。

 僕の不注意が原因とは言え、恥ずかしい。

「あ、ご、ごめんね」

 それを察し、彼女は、まだ霞が心配なのか、少し躊躇ためらった後で、腕を解く。

 霞はそれを、ちょっとだけ名残なごり惜しく思いながらも、青になって安全が確保された横断歩道を渡る。

 しかし、気丈きじょうに振る舞ったものの、少し立ち止まったくらいで体力が回復する僕ではない。

 歩き出すと、また、フラ〜と体が傾く。

 限界だった。素顔に、限界だと言うしかない。

「ちょっと……休憩しても良い?」

 霞が振り返って見れば、マリンは、あさっての方向に目を向けていた。

「マリン……? 何を見て……」

 彼女と同じ方向に目を向ける。

 次なるお店でも見つけたのかな? と、思ったが、それらしいものはない。あるのは、どこにでもあるコンビニと、個人経営のちっちゃな居酒屋と……。

「あ、休憩? それならちょうど良かった……寄っても良いかな?」

 高級感漂う、オシャレなホテルだった。


********************


 確かに、ここならば休憩できる。

 霞は、エアコンの効いた室内で椅子に座っていた。

 手には、ジュースも持って。

 しかし、気は休まらなかった。

 エアコンが効いているのに、変な汗が流れている。

 飲み物を持つ手が、震える。

 絶えずのしかかる緊張感に、今にも潰されそうだった。

 この部屋には今、霞しかいない。

 マリンは別の部屋で、着替えている。

 まさか、こんなことになるとは。

 マリンの大胆さには、恐れ入る。

 誤解のないように言うと、ここはホテルである。

 しかし、客室でなはい。

 普段……というと少しおかしいが、通常は結婚式などで、控え室として使われる部屋である。

 どうしてこんな場所にいるのか? 

 それは、マリンが、このホテルの入り口付近に提示されている、とあるサービスを見つけたからだ。

 『ウエディングドレス試着サービス』

 それを着るのが、憧れだったらしい。

 しかし、自分の身長ではどうせ似合わないと、これまで諦めていたらしい。

 ところが、このホテル、流石である。そのサービス内容の下の方に、太字でこう書いてあったのだ。

 『※外国の方向けに、大きいサイズもあります!』

 それを見たマリンは、即決そっけつだった。

 フロントに聞いてみたところ、今日は他に予約が入っておらず、すぐに着られるとのことだった。

 そして流れるようにこの部屋に通され、飲み物までいただけた。

 高校生カップルが訪れるのは大変珍しいらしい。

 カップルじゃないけど。

 だったら初めての客ではないか? カップルでない高校生の男女ペア。

 更に言えば、マリンも、初めての客だと思う。

 180cm。

 ……大きいサイズと書いてはいたが、実は横幅のことではないのだろうか? 本当に、彼女の身長で着られるドレスはあるのだろうか?

 霞はそんな不安を抱えながら待つ。

 かなり時間が経った。緊張で喉が渇いたせいで、手元のジュースは飲み干され、グラスの底まで乾燥しきっていた。

 おかわりをもらいに席を立とうとした、その時。 

 部屋の扉が開いた。

「……あ」

 白無垢しろむくに身を包んだ、マリンが、姿を現した。

 顔が半透明のヴェールに包まれているため、その表情は見えない。しかし、顔の俯き加減と、うっすら透けて見える、頬の赤さから、向こうも緊張しているのが分かる。

 あとつまづきそうになっていた。さっきまでの僕みたいな足取りだ。

 サイズは、ぴったりだった。(何をもってピッタリというのか知らないが)少なくとも、よく、似合っていた。

 身長のお陰か、子供っぽさは全くない。彼女の未来をそのまま連れてきたみたいだ。

「どう? 初めて着てみて、感想は?」

「……うん」

 一向に喋り出さないマリンに代わって、霞が訊く。

 マリンは、小さく頷くと、ヴェールを手でそっと開き、満足げな表情を見せた。

「綺麗……別の自分になったみたい」

 それだけ言うと、Uターンして、戻ろうとする。

 着替えるつもりだ。

「え? もういいの? 早くない?」

 僕の本音は、『もっとよく見せて!』だ。

「うん……実は、向こうの部屋の鏡の前で、たっぷり

見てきたんだ」

 それで時間かかってたのか!

 できれば、僕にたっぷり見せてもらいたかった。

「それに……着ているだけで凄く疲れるし、その、結婚するか分からない相手に、あんまり長く見せるのもどうかと思うし……」

 それもそうだ。

 ただ、今ここでマリンにプロポーズされたら、断り切れる自信がない。

 それだけの魅力(魔力?)を持つ、マリンのウエディングドレス姿が脳裏に焼き付けられながら、霞は、去っていく彼女の後ろ姿を眺める。

 なんか今日は、マリンから、貰ってばかりな気がする。

 そう思い、彼女へ何かお返しができないか考え始める。

 どれくらいそうして思案に耽っていたのだろう。再度、扉の開く音がする。

 そこには、いつも通りの、制服姿のマリンがいる。

 そう思っていたため、完全に予想外の、彼女のその姿に、霞は、驚いてグラスを落とすところだった。

「え……え⁉︎ その格好は……?」

「私は断ったんだけど……ここのスタイリスト?さんに、『是非着てほしい』と、必死に頼み込まれてしまって」

 完全に、マリンは着せ替え人形のようにされていたようだった。

 いや、この場合、日本人形というのが正しいかな?

 なんとマリンは、和服姿だった。

 先ほどとはうってかわって、黒基調くろきちょうの、落ち着いた色合いだ。

 しかし、ハレの日に相応しい、赤や金といった色の、絢爛豪華けんらんごうか刺繍ししゅうが、全身満遍まんべんなく施されていた。

「和服を着たがる外国人も多いそうで、私に合うサイズがあったんだ、でも、私の場合、体が細くて、内側はタオルでぐるぐる巻きに……って、聞いてる?」

「あ、ごめん、見惚れてた」

「みとれ……⁉︎」

 あ、つい本心を。

 言った僕より、言われたマリンが驚いている。

 しかし、無理もないだろう。制服だと待ち構えていたところに、不意打ちを喰らったのだ。

 マリンも反撃されて、これでおあいこということで。

「もしかして、メイクも……?」

 霞は、マリンの、先ほどよりも赤みを帯びた顔を見ながら言う。

 髪型が、これまでのストレートから、前髪がかき上げられ、おでこが出るようなスタイル変わっていた。

 だから、化粧もセットでされていたのだと思ったのだ。

「うん……あんまり目立たないように、うっすらとだけど」

 しかし、その髪型になることで、霞の中で、一つの考えが形になる。

 マリンは、その身長もさることながら、非常にボーイッシュなのだ。

 ちょっと男装したら、それはそれは世の女性を虜にする。理想のイケメンになると思う。

「やっぱり、そっちの方向性かな」

「え?」

「任せろマリン、最強の姿にしてやる」

「いや……普通で良いんだけど」


********************


 今度こそ制服に戻ったマリンを連れて、ホテルを後にする。

 霞の体力は十分に回復していた。

 そして、彼の中で、今後のファッション選びの方向性も決まった。

 ボーイッシュ。

 あとは、それを明確な形にするだけだった。

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