第6話:意図も簡単に行われる過剰なお礼

 彼女は、グラスを手に取り、何かの決意の印のように、水を一気に飲み干す。

「本当にありがとう。突然家に押しかけた私に、ここまで付き合ってもらって……何かお礼をさせて欲しいんだけど……」

「いや、いいよお礼なんて」

 そもそもこの約束自体、すっぽかそうとしていたし。

 今日の様子を見るに、例え相談に乗らなかったとしても、同じ結論に辿り着けてそうだった。

 しかし、レオンは自分に出来るお礼を必死に考えているようで、頭を抱えて唸っている……。

「あの……僕も自分の悩みを話したから……それでトントンてことで」

「そうだ! いいこと思いついた!」

 霞の提案を鮮やかに無視して(多分聞こえていなかったのだと思う)、レオンは喜びに声を上げる。

 そうして、姉の椅子から飛び降りると、床の上、正確には、敷いてあるカーペットの上に座り……僕の目の前で正座の姿勢を取った。

「ほら、いいよ!」

 そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべ、自分のさっきまでコンプレックスだった太ももをぽんぽんと手で叩く。

 ほら、と言われても。

「え……と、何が?」

「膝枕!」

 膝枕⁉︎

 霞はあまりの驚きに、激しい動揺を通り越して、動悸が激しくなる。

 「お礼」がどうしてそうなるんだ……? 体で払うというやつだろうか。困る。ならいっそ、お金をもらった方が気が楽だ。もちろん、受け取らないけど。受け取ったとしても、後日美味しいお菓子とかにしてやんわり返すけど。

「いや、それはちょっと……」

「えー? 何で? 遠慮しないでいいのに、私の部活の後輩なんて、彼氏から、事あるごとに死に物狂いでねだられる言ってたよ!」

 それはよくいるただの変態だ。全員がそうではないと、後輩に伝えてはしい。

「それとも……やっぱり私の足じゃダメ……か? こんな、太くて不恰好で……」

「いや! そんなことはない! ありがとうございます! 遠慮なく、享受させて頂きます!」

 太ももを人質(?)に取られてしまった以上、霞は断ることはできない。

 それに、ここでその太ももを肯定する行動をしなければ、言ったことが嘘になってしまう。

 いや、それこそ、『そんなことはない』が、そう解釈されてしまう可能性もある。ということで……。

 霞は椅子から降り、一旦正座で向かい会う。まるで、茶道のお手前を頂戴するかのような状況だ。 

 頂くのは、据え膳に近いけど。

「し、失礼します……」

 姉には何度かしてもらったことがある。(例えば貧血で倒れて介抱してもらった時とか)。しかし、赤の他人にしてもらうのは初めての経験である。

 縦向きか? 横向きか? どっちが正解なんだ……? それに、顔の向きは? うつ伏せは論外だとしても……一般的には仰向けなのか?

 こんなことなら、さっきの友達の彼氏とやらの話をもっと聞いておくべきだった。

 霞がそんなことを考えて躊躇していると、

「もう! 遠慮しなくていいって!」

 ふらふらと着地点を探して彷徨っている頭をレオンに掴まれ、太ももに引き寄せられる。

 擬音は『ふわっ……』ではなく、『ガシッ』『グッ』だった。

 僕の頭はリバウンド後のバスケットボールになった。

「うおっ……お?」

「どう……かな?」

 結局、縦向き、つまり頭頂部がレオンのお腹に向くような体勢で、膝枕されることになった。もちろん、仰向けの姿勢で。

 まさか今日だけで2回も、真下からのアングルでレオンを見ることになるとは。

 流石に少し恥ずかしいのか、レオンは頬を紅潮させ、はにかみながら感想を求めてくる。

「痛く、ない……?」

「うん、全然」

 嘘じゃない。

 想定していたよりも柔らかくて……何よりも。

「……あったかいなぁ」

「そ、そうか⁉︎ それは良かった……鍛えていた甲斐があったな!」

 こんなことのために鍛えている人はいないと思うが、今は、ツッコミもせずに、ただ感謝したいくらいに、レオンの膝枕の恩恵を味わっていた。

 適度な弾力に、じんわりと熱を伝える体温、『死に物狂い』で求めるという彼氏の気持ちも、今なら……完全に理解は出来ないけど、分からなくも、なくもなかった。

 無意識のうちに、頭が横に倒れ、手が目の前に来る。

 普段ベッドで眠る時の姿勢だ。

 それほど、リラックスしたのだろう。

 手が太ももに触れる。

 彼女の太ももが、より一層、熱を帯びたようだった。それと同時に、筋肉が収縮し、少し硬くなった気がした。

 そういえば聞いたことがある、女性はその骨格上、正座をしにくい人も多いのだとか。

 加えてレオンはこの太ももの持ち主だ、実は無理のある体勢で、変に力が入っているんじゃないだろうか?

 そう思ったので、霞は夢見心地から目を開き、頭を上げようとしたところで、押さえられる。

 押さえられる?

「レオ……ン?」

「カスミン……」

 頬を両側から挟むように、レオンの、細いながらも強靭な手と指が伸びる。そして、顔の向きを、上方向へと戻される。

 見下ろすレオンと視線が交差する。

「これも……お礼……だよ……」

「え? ちょ……⁉︎」

 真上から、レオンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 それに合わせ霞の顔が、持ち上げられる。

 磁石のように、互いの唇が、引き寄せられるように。

 いや、実際には、レオンが全てコントロールしている。

 お礼? お礼って……。

 こんなものをもらうほど、大層なことはしていない……‼︎

「私ね、実はずっと見てたんだ、カスミンのこと」

 ずっと? そんなはずはない。俺は有名人でも何でもないし、それに、席だって今日初めて隣になって……。

「席替えする前から、ずっと」

 ……そうか。

 僕からは見えていなくても、レオンからは見えていたんだ。最前列の角っこで、黙々と授業を受ける僕の後ろ姿が。

「細くて、白くて、小さくて。私とは、正反対。小動物みたいで……可愛かった」

 今日の帰り道、『自意識過剰』と切り捨てた仮説が……まさか。

 間近で見るレオンの表情は、こちらまで恥ずかしくなるほどの、甘い慈しみに溢れていた。

「それで今日、有名人である私に、一週間も休んでたのに、事情も聞かず、誰よりも普通に接してくれた、普通に女の子として気遣ってくれて、ハンカチも、貸してくれて」

 そ……そんなフラグに気付けるか! 

 はやいのは、走りだけじゃなくて、決心や、行動も……なのか?

「だから、今日までの、私の気持ち、受け取って……」

「いやいやいやいや……」

 それは流石におかしいんじゃないか? と思う俺がおかしいのか? 

 しかし、抗うことは出来ない。物理的に。この体勢、この力、されるがままだった。

 唇が近づく。その質感が、はっきりと見える。

 吐息がかかる。その体温さえ、伝わるようだ。

 いよいよ触れ合う、その、寸前。

 ビンポーン。と、場違いな、間の抜けた音が、部屋に鳴り響く。

「あの……レオン? さん?」

「……」

 手は、離されない。

 もう一度、インターホンが鳴る。

「荷物が届いたみたいなんだけど……取りに行ってもいい?」

「……」

 まだ、離されない。

「今受け取らないと、再配達とか面倒なことになってしまいまして」

「……いいよ」

 レオンはぶっきらぼうにそう言い放ち、手を離す。

 霞は、ピンポンにダッシュする。

 霞の心臓は、今にもはち切れそうだった。こんな状態で走るなのは、彼にとって自殺行為に等しい。

 しかし、このままあの場所で続きをするには、心臓が悪い霞にとってはあまりにも心臓に悪い。

 自己防衛本能による戦略的撤退。そう言えば聞こえはいいが、傍から見れば、何よりも彼女から見れば、霞の行為は、ただ、恋愛経験のない男子による、据え膳食えない恥そのものだった。

 

 

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