第2話:隣の猛獣は、早く食べてよく寝る
「よーし、じゃ、授業を始めるぞー」
1時間目の授業が始まった。
席替えから一週間、この席で、2回目の国語の授業である。
チラリと隣の席を見る。今日も、いない。
もしかすると彼女は、席替え前から休みがちなのかもしれないが、席替え前の僕は、いつも最斬列で規則正しく、清く正しく授業を受けていたので、彼女の普段の様子を、知る由も、見る由もなかった。
「……号令ー」
「きりーつ」
ガタガタと椅子を引く音が、教室中にこだまする。
この音を苦手とする僕は、なるべく静かに椅子を引くよう心がけている。
体が弱い分、感覚器官が鋭く進化したのか、音に対して敏感であり、足音も極力抑えるくらいだ。
「れーい」
即座に号令が続く。
そっと椅子を引いていた霞はまだ立ち上がりきっていなかったが、号令に合わせて慌てて頭を下げる。
ところで、いつから礼の前に『気をつけ』と言わなくなったのだろうか。
2年生になって最初の頃は、確かに言っていたと思う。ここに編入する前に通っていた学校でも言っていたから、別段特別なことではないはずだ。
まあ、そんなことを気にする生徒なんて、僕以外にはいないだろうけど。
着席。という号令はない、しなくても、みんな自動的に席についている。どころか、なんと生徒の半分は、礼もせず着席していた。
この最後尾の席になって初めて判明し、密かに驚いたことだ。
ついでに言うと、その中のさらに半分は、起立すらしていなかった。
こんなもんか、と思う。むしろ、毎授業礼をする風習が残っていること自体、奇跡なのかもしれない。
今日も、そんな事を考えながら、席につく。
今日は、そんな時、隣に気配を感じた。
さっと右隣に目を向ける。
その、一週間空白だった席に、黄色いポニーテールの、ダンクのできる女子高生が座っていた。
彼女ーーレオンは、こちらの視線に気づくと、パッと笑顔になり、気さくに片手なんか上げて、挨拶をしてきた。
「おっはよー! カスミン!」
「……お、おはようございます」
予想以上に元気よく挨拶されたことと、長らく聞かなかったあだ名で呼ばれたことに二重で驚き、返事の挨拶がワンテンポ遅れる。
そしてその早朝とは思えないエネルギッシュな気迫に押され、敬語になる。
「いやー……ギリセーフ。椅子の音に合わせて教室に突入したのはいいけど、みんな座るの早すぎでしょ〜? 遅れて教室に入ったとこ、先生に見られるかと思った。前までは『気をつけー』って言ってなかったっけ?」
レオンはそんなことを言いながら、手でパタパタと自分の顔に風を送っている。
いた。僕以外に、いや、僕以上に、『気をつけ』の有無を気にしている人が。
それはさておき、遅れて(本人曰くギリセーフで)やって来た彼女は、まだ5月だというのに、額に大粒の汗を滲ませている。
相当急いで来たのだろう。
額だけではない、特に首回りは、冬場の結露したガラスのように、隈なく汗でコーティングされている。
その水分は、ブラウスの大きく開いた襟元から周辺まで広がり、生地を裏側から透かしていた。
天然の、水玉模様になっていた。
「ふいー……間に合ってよかった……」
当の本人は、授業に間に合った安堵に浸っており、ブラウスが水に浸ったようになっていると気づいていない。
僕は見かねて、黙って彼女にハンカチを差し出した。
「え?」
「汗、大変なことになってるから」
「あ、いいの⁉︎ 助かるー! 私も持ってきてたんだけど、さっきの練習で使い果たしちゃって」
そう言ってレオンは、びしょ濡れになっているスポーツ用タオルを、バックから摘み上げて見せる。
「練習……? ああ、朝練?」
「そそ、大会近くてさー、まあそうじゃなくても、うちはほぼ毎日やってるんだけどね、自主練も含めて」
レオンは、受け取ったハンカチで、遠慮なく汗を拭きながら答える。
拭いてる側から汗が吹いてる、側から見れば、とんだチキンレースだった。
個人的にはまだ少し肌寒いくらいなのだが、手を伸ばし、窓を開ける。窓際の席の特権の一つだ。
冬場は教師の命令で強制的に換気を促され、教室中のヘイトと最大の寒風を一身に浴びることになるが、その頃には、度重なる席替えで、この場所からはおさらばしているだろう。
「1枚で足りる?」
「2枚あるの? なんで?」
「……こんなこともあろうかと?」
昔から頻繁に、何もないところで転んでは出血するから、その止血のため。
という事実は、あまりにもカッコ悪いため言えない。
口が裂けても、傷が裂けても。
「さて……と」
一通り汗を拭き終えたらしいレオンは、ハンカチを置き、ガサゴソとカバンを漁り始めた。
僕の勝手な偏見では、運動部というものは、教師に当てられるまで教科書を出すことなく、それまでスマホをいじるか、突っ伏して寝るものだと思っている。 しかし、どうやら彼女は真面目に授業を受ける部類らしい。
これは感心と思っていた矢先、ドンッという効果音とともに机の上に出されたのは、教科書でも、ノートでも、筆箱でも、もちろん、滅多に使わない資料集でもなかった。
弁当箱だった。
1時間目から早弁。
僕の、運動部への偏見リストに追加された。
「いただきます!」
彼女は手を合わせ、小声でそう呟くと、颯爽と食べ始めた。
まあ、運動直後に栄養を摂取することは、全く理にかなっているので、早弁という行為自体はいいんだけど……。
しかし、どうしても気になってしまう。彼女の弁当が。
何故なら、その弁当箱が、重箱ほどの大きさのある、飾り気のない、タッパーだったからだ。
しかも2つ。(2段?)
そして中身も驚きが尽きない。
一つ目にはおかずが入っている。見た限りだと、多分鶏肉の炒めたやつと、ブロッコリーと、トマトの3種類が、ぎっしりと入っている。
二つ目にはご飯が入っている。白米が、ぎっしりというよりも、みっちりと、詰まっている。
女子高生の弁当として、激しい違和感を覚えるのだが、これも偏見だろうか?
野球部の男子が体作りのために無理やり食うやつじゃないのか? それ?
「〜♪」
しかし、レオンは、これが世界一美味いんだと言わんばかりの表情で召し上がっていらっしゃる。
女子高生のお弁当というのは、普通、ペンケースほどの体積の入れ物を、さらに仕切りで容積を減らし、残ったスペースに、おかずと野菜とおまけ程度の米が余白と共に入っている、そんなものじゃないのか?
「……ん?」
「あ、いや……」
そんなことを考えていたら自然と凝視してしまっていたようだ。レオンが俺の視線に気づき、怪訝な目を向けて来る。
すると彼女は、少し、何かを考える素振りを見せた後で、箸で挟んでいたひとつまみの米を、持ち上げ、空いた手を、下に添え、こちらに身を寄せて来た。
「はい、あーん」
「違う!」
欲しいから見てた訳じゃない!
「あ、おかずの方が? ……ごめん、こっちは、ちょっと」
「そうじゃない!」
あと、そっちはダメなのかよ!
と、思わずツッコミを入れてしまう。
「ああ、PFCバランスが崩れてしまう」
おかずの方は、大雑把に見えて、タンパク質(P)と脂質(F)が緻密に計算され配置されているらしい。
米はくれようとしたところから判断するに、炭水化物(C)は流石に多いという自覚があるのか。
「別に欲しくて見てた訳じゃないんだ……」
早弁する女子高生から飯をねだれる男子高校生はいないと思う。
レオンの場合、ライオンから獲物を横取りするようなものだ。そんなことができるのは、オスのライオンだけだ。
「ただ……よく食べるな、と思って。もしかして、朝食とか?」
にしても多いが、朝早く練習があり、朝食が間に合わず部活に参加した……ということもあるかもしれない。
そんな僕の予想を、レオンはとんでもないといった表情で否定する。
「いやいや、朝食は家でしっかり食べきたよ。でないととても練習なんてできない。アップの段階でギブアップだよ」
部活動を舐めていました。
これは偏見ではなく、実態のリストに追加しておこう。
腹が減っては部活が出来ぬ。
「じゃあ次の文章を………朝山、読んでくれ」
「あ、はい」
霞が、教師に当てられる。
立ち上がり、喉を整えるフリをして咳払い。その間に、黒板に残された手掛かりから、授業進度を推測する。
どこを読めばいいかわからない場合は、予想よりも少し先の部分を読むようにする。そうすることで、授業を聞いていない、やる気のない生徒でなく、授業の先を行く、やる気に満ちた生徒を演出できる。
霞は念のためもう1枚ページをめくり、適当な段落から読み始める。
少し読んだところで教師から正しい場所の指摘がある。そのつもりで少しゆっくり目に読むのだが……おや? ストップがかからない。
となれば、奇跡的に合っていたみたいだ。
危なかった。思ったより時間が経過しているようだった。
「よし、そこまで。ここの内容は前の段落で提示された筆者の意見の具体例になってるんだな、少し長かったが身近な例で理解しやすかったと……」
ようやく音読から解放された。
筆者め、有名な大学教授だかなんだか知らないが、世間ズレした人間にとっての身近な例など、研究自慢にしかならないというのに、あんなくどくて長い具体例などつらつらと書きおって。
読みながら眠ってしまいそうだった。
こんな文章の音読など、例えば、朝早くから運動をした後で、早弁をし、たっぷり食事を摂った運動部の生徒が聞いたら、本当に眠ってしまうぞ。
……例えば?
隣を見る。案の定、レオンは、夢の世界に旅立っていた。
蓋を閉めて重ねた弁当箱を枕に。美味しいものを食べる夢でも見ているのだろうか、それはそれは、幸せそうに。眠っていた。
「……」
霞は、席に座る直前に、ちょっと寄り道をして、手を伸ばし、窓を閉める。
運動、食事、そして睡眠。
この上なく、生物的に素直な行動だった。
本能、条件反射と言っても良い。
『天翔ける獅子』……ね。
霞は、その大袈裟な異名に、妙な納得感を覚えるのだった。
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