105.一方その頃、空の玉座を前に
ベンドル王帝国王帝クジョーリカがキャスバートたちの前に姿を現す、数時間前。
「陛下は無事に出られたか」
ベンドル帝都において大宰相シオンは、間諜からの報告を受けた兵の顔をちらりと伺った。膝をついたまま、その兵士は「はい」と小さく頷く。
「王帝陛下におかれましてはまもなく国境を越え、『偽王国』の神獣に面会されるようです」
「そうか」
王帝クジョーリカは自身の魔獣であるメティーオを従え、たった一人で『偽王国』へと向かった。シオンや他の重鎮たちが止めるのも聞かずに。
ただ、国の長である彼女をそのまま放っておくことはシオンはしなかった。数多くの間諜と護衛兵をクジョーリカに気づかれぬように配備し、その動きをこまめに伝えさせている。
そしてまもなく目的地である『偽王国』、ブラッド公爵領に到着するであろうということを理解したシオンは、短く指示を伝えた。
「監視を怠るな。王帝陛下の御身に何事もないよう、護衛兵どもに伝えよ」
「はっ。では、失礼いたします」
即座に頭を下げ、立ち上がって去っていく兵士を見送ることもなく大宰相は、あからさまに唇の端を歪めた。そうして、空っぽになった玉座に視線を向ける。
「魔獣メティーオごときで、神獣に敵うものか。神魔獣グランメディスティーオでなくてはならんというのに、小娘め」
現在クジョーリカが騎乗している魔獣は、彼女……というよりは王帝専用の使役魔獣であるメティーオ。かつて『偽王国』を打ち立てたゴルドーリア『偽王』率いる軍と戦い、偉大なる戦果を上げたと言われる魔獣だ。
もっとも、神獣を打ち負かすほどの力はメティーオにはない。魔獣メティーオが持つ本来の姿である、神魔獣と言われる存在でなければならないだろう。もっとも、現在その姿を見た者は誰もいないのだが。
「何とか古代戦史を読み終わったが、記されていることが真実であればメティーオ程度では神獣の相手にはならん。アレを核にして神魔獣を覚醒させ、一気にかたを付けるべきだ」
これまで報告された『偽王国』の戦力、そして神獣システムに関する情報を分析した結果、大宰相シオンはそう結論づけた。
だが。
『妾は、神魔獣など使わずとも愚かな民に勝てる。アレを目覚めさせることなど要らぬぞ、シオン』
神魔獣の覚醒を進言した大宰相に対し王帝はそう答え、そして自らメティーオを駆って『偽王国』に向かったのだ。未だに戻らぬ多くの兵士たちと合流し、再び『神なる水』の都へ進むために。
『我が民は、我が国の領地を取り戻しているのであろう? であれば、妾が向かうことによって勇気づけられるはずだ』
……王帝クジョーリカは、戻らぬ兵士たちは『偽王国』の領内にて領民を『解放』しているのだと信じている、らしい。あまりにも偏った教育と、歪んだ情報だけを与えられた結果の、哀れな少女。
「確かに、神魔獣の覚醒には多くの生命が必要となるが。だが、小娘は知らんはずだがな」
ふむ、と顎に手を当ててシオンは思考にふける。
緑の地を追われ、北の山の中に追いやられてからどれほどの時間が経ったことか。
王帝の血筋は今のクジョーリカに至るまで延々と続いているが、その権力は実質的にないに等しい。数代前より、王帝のそばに侍る大宰相や重鎮たちが政治を行っている。
「王帝とは、ベンドルの象徴であれば良い。政も戦も知らなくて良いし、実際知らなくとも何も問題はない」
そして、現在の王帝はシオンたちが自分たちの使い良いように育て上げた少女。そうでなくとも北の国の民には極端な教育が行われているが、クジョーリカの知識はベンドル王帝国を重鎮たちの都合よく運営していくための最小限にしかない、はずである。
「まあ、『偽王国』の領域に入ったのであれば問題はないな。頃合いを見て、呪術儀式を行えば良い。小娘ごと吸わせて、神魔獣を覚醒させる」
さほどの思考時間を取らずに結論を引き出し、シオンの表情が満足げな笑みに変わる。国のため、長のためというよりはおそらく、自分のための満足。
キャスバートやクジョーリカ、現在世界にいる者のほとんどは知らない事実。
神獣の招請や強力な魔獣の召喚には、多くの魔力が必要となるという、こと。
神魔獣、などという仰々しい名を持つそれを呼び覚ます魔力は、人の生命に換算して数十、数百ということ。
それらを、大宰相としてベンドル王帝国の実権を握る黒衣の男は全て知っている。故に王帝たる少女の独断専行を許し、その行動を逐一監視し続けているのだ。
「問題は神獣の結界能力だけか。まあ、問題はないだろうが」
ただ、その大宰相にも知らぬことがある。
ゴルドーリアの民を護る強力な結界、それを展開できるのが神獣システムだけではない、ということを。
神獣が好み、自らの力として残させた『ランディスブランド』の能力を。
そして、キャスバート・ランディスはかなりのお人好しであることを。
……まあ、そのそばにいる近衛騎士の少女が人を縛ることを趣味としたり、同僚の魔術師が神獣や魔獣の毛皮を愛でることを好んでいることは情報の端に乗って伝わっている、かもしれないが。
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