70.一方その頃、猫は任務を果たす

 キャスバート・ランディスが神獣システム、そしてファンラン・シキノと共に出陣した後。

 シノーペ・ティアレットはランディス邸に残り、書類作業に明け暮れていた。バート村の村長であるキャスバートの目を通せば済む程度に整理し、自身の権限で決済できるものは次々と決済していく。

 執務室として使用している部屋の床、絨毯の上でゴロンと寝そべっていたエークリールが不意に顔を上げたのは、もうすぐ昼食の時間となる頃であった。


「うにゅ?」


「どうしたの? エーク」


 起き上がり、伸びもせずにふんふんと空中の匂いをかぐような仕草を見せる黒猫の魔獣に対し、シノーペはあまり気にすることもなく声をかける。その問いに答えるエークの声は「ふにい」という少々間抜けなものだった。

 そうして、足音もなく歩き出すエークを見送るシノーペは、軽く声を上げた。


「お出かけ? あまり遠くに行っちゃだめですよー」


「なーお」


 あまりにも緊張感がなく、知らぬ者が見れば飼い主とペットの会話にしか見えない光景。薄く開いている扉からてくてくと出ていくエークの背にコウモリの翼がなければ、完全にそうにしか見えないものである。


「にゃお」


「おや、エークちゃんお出かけ? 早めに帰ってらっしゃいよ」


「うなー」


 昼食の準備をほぼ終えたライザと挨拶を交わし。


「なうー」


「おお、エーク、お仕事かい? 頑張っておいで」


「にゃう」


 ライザの夫であるテオが、庭の植木の手入れをしている横を通り。

 そうしてエークは、ランディス邸の塀の上にひょいと飛び乗った。そのままてくてく進み、そうして目的地にたどり着く。


「にゃ」


「っ!?」


 塀の向こう側、つまり敷地の外から内側を伺っている青年は、一見普通の村人に見える。だが、何しろエークは魔獣であり、故に人の匂いや気配の違いなどは簡単に判別できる。


「な、なんだ猫魔獣か。お前、どこから来た?」


 この男は、村に住んでいた者ではない。外から、寒い国からやってきた者だ。

 そして、自分のご主人さまである神獣システムとそのマスターであるキャスバートに対し、敵意を持っている。


「なーう」


 そのくらいは一瞬で看破したエークであったが、ひとまずは無力な小型魔獣のふりをすることにした。とんと男の足元に飛び降り、ぐいぐいと額を押し付けてやる。


「おお、よしよし」


 翼があっても愛らしい黒猫の姿であるエークがそんなふうに甘えてきたのだ、男としても悪い気はしない。ついその額を撫でてやり、ついで首筋から背中まで手を伸ばす。

 テムの配下となってから、シノーペやライザがエークの世話をこまめにしている。ブラッシングが丁寧になされていることもあり、エークの漆黒の毛並みはつやつやと輝いている上に手触りも上々だ。


「そうか。お前、ここで飼われているのだな」


 それらの状況証拠から、男はエークをランディス邸のペットか何かと判断したようだ。猫の姿であるから、当然といえば当然か。

 ただ、その後に続いた言葉にエークは一瞬だけ目を細めた。


「ちょうどいい。お前を使役できれば、任務を遂行しやすくなるな」


「ふにゃ?」


 使役。

 魔獣使いが、その魔力によって魔獣を思い通りに操るときに使う言葉だ。魔獣側にとっては、あまり好ましいものではない。

 故に、エークリールは目の前にいるこの男を確実に敵である、と認識した。


「我もとに下れ魔獣、その魂と名を我に明け渡せ」


「ふしゃあああああぐあああああ!」


 そして、男の魔術を振り切るように全身に魔力をまとわせ、本来の姿である有翼の黒虎へと戻った。ついでに、威嚇とばかりに吠えることも忘れない。

 ……もっとも、神獣の支配下にあることでエークには使役の魔術をかけることはできないのだが、それは目の前の魔獣使いには知る由もない。


「ひっ!?」


「ぐるるるる……」


 突然、黒猫が黒虎に姿を変えたのだ。さすがの魔獣使いも腰を抜かし、顔をひきつらせている。そして、その黒虎がべろりと舌なめずりをしたことにも。


「ま、待て。お、俺がお前のマスターだぞ? な?」


 どうやら、自身の使役魔術がエークには効果を示していないことに気づいていないらしい。男はなんとか気を取り直し、両手を広げてエークを抑えようとしている。

 その様子を眺めてエークは、僅かに首を傾げた。そして。


「ぐわあう!」


「ぎゃ!」


 吠える声に風の魔力を乗せ、敵である男に叩きつけた。

 もちろん全力のものではないが、それで十分人間を吹き飛ばす力はある。男は軽々と風に乗り、そうしてランディス邸敷地の外に生えている大木の一本、その幹にぶつかった。


「何事だ!」


「声がしたぞ!」


 ずるずると地面に崩れ落ちた男の様子を眺めつつ、エークはするりと身体を縮めた。黒猫の姿に戻り、そのまま塀の上に飛び上がる。

 自分の下を駆けてくる衛兵たちとすれ違うように、てくてくと塀の上を歩くエークの目的地は、元いた部屋であった。


「おかえりなさい、エーク」


「うにゃあん」

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