第06章『冷めたコーヒー』

第12話

 ゴールデンウィークが終わった頃には、姫奈の体調は回復した。

 学校では一学期の中間試験の日程と教科が発表されたので、頭の中でぼんやりと計画を立てながら、姫奈はアルバイト先に向かった。

 その日、店の前には黒色のSUV車が停まっていた。お陰で、店前に飾っているピンク色と白色の芍薬も『コーヒー二百円』とだけ書かれた立て看板も、隠れて見えなかった。

 レイミの顔を思い浮かべながら、姫奈は扉を開けた。


「やあ、ヒナちゃん! 久しぶりだね!」


 キッチンに立つアキラと向かい合うように、カウンターテーブルにはパンツスーツ姿のレイミ――そして、その隣に三人目の女性が座っていた。

 大きめのニットに、チェック柄のボリュームがあるスカート。アッシュピンクの長い巻き髪を左肩に垂らし、ぼんやりとした瞳を姫奈に向けていた。

 美人なだけあり、おっとりした雰囲気は絵になっていた。


「あれ?」


 その人物が目に入り、姫奈の中で何かが引っかかった。思わず、入り口で立ち尽くした。

 すっきりしない感覚は、既視感によるものだった。

 どこかで会った?

 姫奈は記憶を辿ろうとしたが――アキラとレイミから向けられた視線で、それは遮られた。

 爽やかな挨拶から一変、レイミの瞳は冷ややかなものに変わっていた。アキラからも、気だるそうな瞳で一瞥された。


「い、いらっしゃいませ……」


 姫奈はその場からそそくさと逃げるように、スタッフルームに駆け込んだ。

 エプロンに着替えながらも思い出そうとしたが、どこで会ったのかもどんな名前だったのかも浮かばなかった。

 勘違いだろうか?

 いや、あの眠そうな雰囲気はとても印象的で――

 モヤモヤするが、これ以上思い出しても埒が開かないので、店内に戻った。


「ヒナちゃんは初めてかな? 彼女は、ユヅキ。うーん、そうだね……私の仕事のパートナー」


 レイミは言葉を選びながら、隣の女性を紹介した。

 ユヅキ――やはりどこかで聞いたことのある名前だが、これも姫奈は思い出せなかった。


「あら? 仕事だけのパートナーじゃないでしょ? ちゃんと紹介して」


 ユヅキと呼ばれた女性は、ぼんやりとした瞳をレイミに向けた。

 そう振られたレイミは、落ち着かない様子で目が泳いでいた。


「付き合って同棲してるんだよ、こいつら。仕事でもプライベートでも、ずーっと一緒だ」


 キッチンから奥のテーブル席に移っていたアキラが、ぽつりとそう漏らした。


「ええっ!?」

「……うん。まあ、そういうことだから」


 レイミは苦笑するが、否定はしなかった。そんなレイミの腕に、ユヅキはもたれ掛かって見せた。

 どうやら事実のようだと、姫奈は理解した。

 バリキャリ系とゆるふわ系のふたりだが、どこに接点があるのだろうと思った。そして、大人の恋愛事情は難しいとも思った。


「昔は三人でつるんでたのよ。ねぇ、アキラちゃん」


 ユヅキは表情を変えずに、アキラの方を向いた。


「そうだったかもな……。一杯奢ってやるから、さっさと帰れ」


 過去に触れられるのが嫌なのか、アキラは不機嫌そうだった。

 レイミと旧い知り合いなのだから、ユヅキとも繋がりはあるのだろう。しかし、レイミとユヅキが恋仲だというのに、アキラはどういう立場だったのだろうか。拗れた関係では無さそうだが。

 姫奈は想像するが、実態がまるで見えなかった。

 アキラの一杯という言葉で、カウンターテーブルに何も飲み物が無い事に気づいた。

 以前のレイミの時もそうだったが、アキラは自分で出す気が無いのかと姫奈は呆れた。


「あっ、私アイスコーヒーで」

「私は甘いやつがいいなぁ」


 カウンターテーブルのふたりは、メニューにはないものをさらっと注文した。


「すいません。ホットコーヒーしか出せないんですが……」

「えー、やだ。私、苦いの飲めないもん」


 ユヅキはそう言うが、ぼんやりとした表情は一切変わらなかった。しかし、不満であるのは事実のようで、肩に垂れ下がった髪を指先で絡めていた。


「ほら。ユヅキもそう言ってるしさ。もう暑いし、私にはアイスコーヒー飲ませてよ」


 レイミの方は満面の笑みだった。

 この無茶な注文はおそらく意図的に困らせるものだと、姫奈は悪意を感じた。だが怒るわけにもいかず、ぐっと堪えて引きつった笑顔を浮かべていた。


「おい、姫奈。冷蔵庫にあるやつ何でも使っていいから、さっさと作って追い出せ」

「もうっ! 味の保証はしませんからね!」


 姫奈は一杯分のお湯を沸かし、二杯分のコーヒー粉をドリッパーに乗せて淹れた。

 マグカップ半分の牛乳を電子レンジで温め、グラスには大量の氷を用意した。そして、それぞれにコーヒーサーバーから濃い目のコーヒーを均等に注いだ。


「ご注文のアイスコーヒーとカフェオレです!」


 グラスにはストローと紙のコースター付け、マグカップは牛乳の膜を取り除き、カウンターテーブルに差し出した。


「なんだ。やればできんじゃん」

「カフェオレなんて超久しぶり……。うん、美味しい」


 ユヅキは角砂糖をふたつ入れ、一口飲んだ。相変わらず表情に変化は無いが、ぽつりと漏らした言葉は本当なのだと姫奈は信じた。

 アイスコーヒーもカフェオレも作り方の知識はあったが、いざ作ったのは初めてだった。本当の客に出す前に、こういう機会があってよかったと思った。


「どうだ。ウチのバリスタ見習いは優秀だろ?」


 テーブル席のアキラが、どこか自慢げに言った。

 見習いとはいえ、アキラから初めてバリスタ扱いされたので、姫奈は嬉しくもあり恥ずかしくもあった。


「ねぇ、バリスタさん。あんたはこれをカフェオレと言ったけど、カフェラテとの違いは分かるかな?」


 レイミはユヅキのマグカップを指差して訊ねた。

 確かに、姫奈はこれをカフェオレとして出した。そう思った根拠は――


「泡が無いんですよ」


 姫奈の思い描くカフェラテは、表面に牛乳のきめ細かい泡が乗っていた。だから、これはカフェラテではなくカフェオレだと判断した。


「確かにスチームミルクもそうだけど、割るのはコーヒーじゃなくてエスプレッソ。……ちなみに、エスプレッソって分かる?」

「濃いコーヒーですよね」

「イメージは合ってるけど、根本的に抽出方法が違うの。エスプレッソは専用の機械を使うんだよ」

「へぇー」


 レイミの解説を、姫奈は為になったと思った。こういうアルバイトをしている以上、知識はあるに越したことがない。


「というわけで、どうだろうアキラ。エスプレッソマシーン買ったら?」


 レイミはアキラに振り返った。

 だが、アキラはその提案に頷かなかった。


「まだ姫奈には早い。もうしばらくコーヒーの修行させてから考えるよ。二兎追う者は何とやらだ」

「は、はい。頑張ります」


 姫奈はアキラの言葉に助けられた。

 確かに、いろんな種類の飲み物を提供したい気持ちはある。しかし、アキラの言う通りまだ満足にコーヒーが淹れられない現状で他に手を出すと、中途半端になりそうだった。

 それに、これからの季節はエスプレッソやカフェラテよりも、まずはアイスコーヒーだった。


「アキラちゃん手先器用だから、ラテアート描けそうなのに」

「アホか。どうしてオーナーの私がやらなきゃならんのだ」

「なるほど。アキラはあくまで経営メインになるわけだ。店のデザインだって良くなってるよ」


 レイミはカウンターテーブルに等間隔で飾られている赤、白、青――三つのハーバリウムを見渡した。

 以前買ったものだが、四つ目の黄色はアキラが座っている対面テーブル席に飾られていた。

 アキラがどういう意図で置いたのかは分からないが、姫奈の目から四つの配置は均等なものに見えていた。

 しかし、黄色だけがなんだか蚊帳の外のようにも見えていた。


「立地と、店内が狭いのが難点だね。繁盛した暁にはさ、もっと大きいトコに移れるといいね」

「……そんなの夢物語じゃないか」

「いいじゃん。夢はでっかく持とうよ」


 レイミは明るい笑顔を浮かべながら、席を立った。ユヅキもそれに続いた。


「アキラちゃんが元気そうで安心した……」


 ユヅキは相変わらずどこか眠たげな表情だったが、心なしか口元が微笑んだように姫奈には見えた。


「アキラもヒナちゃんも、ごちそうさま」

「またいらしてください!」


 姫奈はキッチンから店内に姿を出し、腕を組んで出ていくふたりを見送った。


「なあ、姫奈。お前もその……この店が大きくなればいいって思ってるのか?」


 ふたりきりになり、アキラがぽつりと漏らした。


「ここは隠れ家みたいで好きですけど、お客さんが大勢来てお店が大きくなればそりゃ嬉しいですし、いつかは表の方にも出てみたいです」


 姫奈は本心を素直に打ち明けた。

 本当にただの理想――目標とするにも遠すぎる話だと理解していた。確かにここ最近は客の入りも増えてきたが、店員がふたりしか居ない以上、いずれ限界は訪れるだろう。叶うわけが無い夢として、口にしていた。


「そうか……」


 姫奈の答えが意外でもなかったのか、アキラの相槌はどこか上の空だった。

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