第13話

 明日から一学期の中間試験が始まるが、姫奈はその日も放課後にアルバイトをしていた。

 試験範囲を十分に理解し、余裕があったのだ。


「よし。今日はもう店閉めろ」


 客が空になってすぐ、まだ十七時過ぎだが、アキラがそう言った。試験を気遣われているのかと姫奈は思ったが。


「え――もうですか?」

「これ試したいから、外に出るぞ」


 アキラは、断熱用の紙コップを手にした。

 それは、以前注文してちょうど今日届いたものだった。飲み口の空いているプラスチック製の蓋とセットになっていた。

 姫奈は二杯分のホットコーヒーを入れると、紙コップに注いで蓋をした。

 店のシャッターを降ろしたアキラに手渡し、ふたりで歩いた。


「意外としっかりしてますね。本当に熱くないです」

「ああ。ちょっと高いだけのことはあるな。持ち手のやつまでは要らないか」


 コーヒーの熱が完全に遮断されているわけではないが、長時間持っていても支障が無いように姫奈は思った。確かにアキラの言う通り、通信販売サイトで関連商品として紹介されていたクラフト紙のスリーブまでは不要だった。


 少し歩き、客船ターミナルの広場まで来た。夕陽に照らされたそこは、やはり誰も居なかった。

 海際の柵で、アキラはいつものように煙草を取り出した。

 火をつけようとするが、紙コップで片手が塞がっているうえ、潮風で上手くつかない。

 イライラしている姿を見かねた姫奈は、アキラの手からライターと自身の紙コップを交換し、片手で風を遮って火をつけた。


「すまないな。それ、お前にやるよ」

「ありがとうございます……。でも、どう見ても女子高生JKが持つような代物じゃないですよね」


 青色で細長い直方体のそれは一見ライターには見えないが、用途が明確な以上、縁の無い未成年としては抵抗があった。


「いいから持っておけ。お前は今日から私のライター係だ。これも立派な仕事だぞ」

「はぁ……」


 また勝手な、と呆れながら姫奈は紙コップを受け取った。


「最近な、煙草とコーヒーの組み合わせが美味いことに気づいた」


 そう言いながら交互に口にしているアキラは、姫奈の目から確かにリラックスしているように見えた。


「仕事してるから、そう感じるんじゃないですか?」

「そうかもな……」


 姫奈は放課後にアルバイトとして来ているだけだが、洗われたマグカップを見ると、日中はアキラひとりでEPITAPHを回しているのだと実感した。

 一時の適当ぶりからすると、客の入りや店の装飾等、現状は随分良くなったと思った。


「でも、アキラさん……お口の匂いには気をつけてくださいよ。息キレイなミントタブレットでも持っておいた方がいいかもしれませんね」

「ん? そんなに臭うか? ……自分じゃ分からん」


 アキラは口元を手で塞ぎ息を吹きかけるが、釈然としない表情だった。

 喫煙頻度はさほど多くないからか、近くで話していても姫奈はアキラの口臭が気にならない。


「ほ、ほら! 接客業ですし、注意するに越した事はないですよ!」


 キスをされると臭かったです――とはとても言えないので、姫奈は適当に誤魔化した。


「コーヒーに煙草もいいが、何か甘いの持ってないか?」


 アキラは煙草を一本吸い終わると、姫奈を見上げた。


「甘いのと言っても……これならあります」


 姫奈は学校鞄から、チャック袋パッケージのラムネ菓子を取り出した。


「絶妙にコレジャナイ感じが凄いな。ラムネを見るなんて、いつ以来だ」

「ラムネというか、ブドウ糖って凄いんですよ。頭が活性化されて、集中力が高まるんです」


 実際にそういう効果があるのかプラシーボ効果なのか姫奈は分からないが、中学生の頃から勉強中に摘んでいた。

 アキラは不満を漏らしながらも手を差し出したので、姫奈はラムネを二粒置いた。


「わかってはいたが、コーヒーとは全然合わないな」


 ボリボリとラムネを食べてコーヒーを飲むが、アキラは何とも言えない表情だった。


「他には、小腹が空いた時のグミならありますけど」


 姫奈はラムネと同じくチャック袋パッケージの葡萄グミを取り出した。

 それを見ても、アキラの表情は晴れなかった。


「ラムネとグミがあって、なぜチョコレート的な駄菓子が無い? お前JKだろ?」

「JKだからチョコ持ってるというイメージが分からなくもないですが、チョコって溶けるからあんまり持ち歩きたくないんですよ」


 その他に、ラムネやグミと違って明確な摂取目的が無い事も理由のひとつだった。だが、姫奈にとって最大の理由は――


「それに……太るんで」


 姫奈は恥ずかしいながらも、ぽつりと漏らした。


「は? そんなに気にするほどか?」

「身長ある分、数字だけはあるんです!」


 高身長相応の体重であるため仕方ないとはいえ、同級生と比べ大きい値であることが姫奈の悩みであった。

 数字を減らす事は困難だが、これ以上増えないよう維持しようとしていた。


「体重はお前の場合、身長だけじゃなくてさ……」

「何ですか?」

「いや、何でもない」


 アキラから胸元に隻眼を一瞬向けられるが、何が言いたいのか分からないまま言葉を濁された。


「チョコじゃないにしろ、アキラさん用に何か持っておきます。それにしても――テイクアウトできそうですね」

「ああ。明日にでも表のメッセージボードに付け足しておくよ」


 姫奈は紙コップを改めて眺めた。

 こうした店外向けへの提供はアキラのアイデアだった。現実的に行える事から業務を広げていくのが着実な成長だと感じ、姫奈は嬉しかった。


「でもこれからの時期はアイスコーヒーだと思うんで、プラスチックカップとストローの発注もお願いします」

「そっちも任せておけ。アイスの方も淹れられるようになったからな」

「そうそう。ただのアイスじゃなくて、水出しも美味しいと思うんですよ。数に限りはありますけど、メッセージボードに一日十杯限定とでも書けば購買意欲を煽れますし」

「水出しかぁ……。そういうのもアリだが、面倒そうだな」

「そうですよ。水出しは時間管理が重要ですからね! アキラさんにはきっちりと毎朝起きて貰う必要があります!」


 店の身近な展望を語りながら、姫奈はとてもイキイキしていると自覚があった。


「水出しの他にも、業務用の煎った豆を買ってきてミルで挽いてみたいです。それに――いつかはカップに店のロゴでも入れて、オシャレな感じにして……オリジナルのを持ち歩いて欲しいですね」


 かつて、この広場で踞っていた少女が居た。

 勉強一筋で短い人生を歩いてきたが、受験に失敗して落ち込んでいた。

 そんな彼女に、現在の姫奈は言いたかった。

 勉強だけじゃないんだよ。

 他にも楽しい事、夢中になれる事はあるんだよ――と。


「ああ。そういうの、いいな……」


 夕陽に照らされ、アキラは穏やかな笑みを浮かべていた。


「そうだ。明日から試験中は午後ひるから入りますね」

「本当にいいのか? よく分からんけど、普通は午後から勉強するもんだろ? 無理しなくてもいいからな」

「大丈夫ですよ。余裕です。不思議なんですけど……バイト始めてから、理解力は伸びてる気がします」


 姫奈の勉強時間は、張り詰めていた中学生時代に比べ大幅に減少した。しかし、勉強以外にも打ち込めるものが見つかり、そして姫奈自身の外観も内面も変化があったからだろう。心に余裕が生まれ、勉強とそれ以外のメリハリがついたため、普段から効率よく勉強が行えていた。


「ならいいんだが。赤点取っても私のせいにするなよ?」

「あははっ。そんなことしませんよ」


 過去に比べ肩の力が抜けた現在、澄川姫奈の学生生活はとても充実していた。

 あの時――この広場で、アキラに声をかけられてからだった。

 アキラと試行錯誤しながらふたりでカフェを運営していくのは、とても楽しかった。

 この心地よい時間がずっと続けばいいのに……姫奈はそう願っていた。


「まあ、最後に試験範囲を見直しておくんで、そろそろ帰りますね」

「お疲れさん。試験頑張れよ」


 姫奈は残っていたコーヒーを飲み干そうとしたが――飲みかけのそれは、すっかり冷めてしまっていた。

 やや酸味が強くなったそれは、淹れた時からの時間の経過を感じさせた。


「……」


 ふと、自宅へ帰ろうとしているアキラの背中に目をやった。

 小柄な背中はどんどん離れ、さらに小さくなっていった。

 ごう、と。潮風の音が、ひとりきりになった姫奈の耳に触れていた。

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