第04章『そのままで』
第07話
アキラの介抱をした翌日。
昨晩はずっと混乱していたせいで、姫奈は朝から気疲れが酷かった。
覚えたての化粧も心なしか乗りが悪く、学校でもその日は終始沈んだ気分だった。
願わくば今日のアルバイトは適当な理由をつけて休んでしまいたかったが、アキラへの連絡先が分からなかった。
インターネットで店の電話番号を調べようとするも、店名の綴りを思い出せなかった。地図アプリで店の場所を表示するも、店自体が開店してまだ間もないからか、登録されていなかった。
ゴールデンウィークが目前ということもあり、クラスは浮足立った雰囲気だった。
それとは裏腹に姫奈は憂鬱な気持ちで放課後を迎え、仕方なくアルバイト先に向かった。
というか、アキラさんの体調は回復したのかな――ここにきて、そんな疑問が浮かんだ。もしまだ寝込んでいると思えば、急に心配になってきた。
しかし、それは杞憂だった。いつも通り、店のシャッターは上がっていた。
磨りガラスの扉に浮かんだ灯りを見ると、いろんな気持ちが込み上げてくるが、姫奈は観念して扉を開けた。
「お――」
カウンター席に誰かが座っている姿が目に入り、お疲れ様ですと言いかけた口を閉じた。
カーディガンとスカートの、小綺麗な格好の女性だった。隣の席にハンドバッグが置かれているため、OLだと姫奈は思った。
だが、その女性は俯いた顔を両手で覆い、背中が小刻みに震えていた。
正面のカウンター越しに、アキラはどこか物悲しげな笑みを浮かべていた。
「……」
姫奈は来て早々、ただならぬ空気に息が詰まった。
アキラには一瞥されたが、この女性は姫奈の存在に何の反応も示さなかった。おそらく、そんな余裕すら無いのだろう。
姫奈は女性の後ろをそっと通り、スタッフルームに駆け込んだ。
店内で現在起きている状況がまるで理解出来なかった。このまま店内に出てもいいのかと思いながらも、姫奈はブレザーからエプロンに着替え、髪を結んだ。
しかし、その心配よりも、アキラの存在に気を取られていた。
顔を合わせ難いのは確かだが、少なくとも体調は回復したようで安心した。
そもそも、昨日の事は現実だったのだろうか。アキラは本当に体調を崩したのだろうか。もしかすれば、悪い夢を見ていたのもしれない。
ふと、姫奈はそう思ったが――棚に置いてあるピルケースが目に入った。何種類かの錠剤薬が入ったそれは、以前までは確かに無かった。
自分の舌に他者のが絡みつく生々しい感触を、姫奈は思い出した。
そう。あれは決して夢では無い。憂鬱な気分が再び込み上げてくる。
準備が終わり店内に戻る前に、姫奈は心境を整理した。
あのキスは朦朧としたアキラの暴走行為であり、アキラ自身が覚えていないのなら――それでも笑えはしないが、まだ許せる。
しかし、もしもあのキスがアキラの意識下の行為であり、何か意図が含まれていたのなら――どう接すればいいのか分からない。
変化が怖かった。
アキラは姫奈にとって依然として『憧れの存在』や『理解のある大人』だった。その距離感が心地よく、これからもその維持を望んだ。
だから、アキラから嫌われる事も必要以上に好かれる事も、避けたかった。
おそらくは、前者だろう。アキラは覚えていないだろうが、明確にならない以上、不安は姫奈を憂鬱にさせていた。
しかし、これ以上頭を抱えても埒が開かないと思い、スタッフルームの扉を開けた。
店内では女性が席を立ち、店を出ようとしていた。まだ涙は完全には止まっていないが、さっきよりは落ち着いた様子だった。
「来てくれて、ありがとう……」
女性が立ち去る間際、アキラは女性をそっと抱きしめた。
優しい抱擁――ふたりの身体の接触を目の当たりにし、姫奈は心の奥底がムズムズと疼いたのを感じた。
女性が店から出ると、アキラは姫奈に振り返った。
「姫奈。昨日はすまなかったな」
気だるそうな隻眼と、淡々とした声。アキラは相変わらずの様子だった。
いえいえ。ビックリしましたけど、大事にならなくてよかったです――
きっと、いつもの姫奈ならそう流していただろう。
現在に限って、それは何に対しての謝罪なのかと、姫奈の中で引っかかった。
いったい何の病気なんですか?
レイミさんが居ればわたしは要りませんか?
どうしてキスしたんですか?
一度疼いた心は加速し、訊ねたい事が次々と浮かんできた。
「アキラさん……わたしもギュッてしてくださいよ。それで許してあげます」
さっきまでの憂鬱な気持ちは、最早どこかに消え去っていた。
姫奈は込み上げる感情のままに、その言葉を自然と口にしていた。
自身の発言を理解した時には、意地悪で最低な女だと一瞬思ったが、自己嫌悪にまで陥る余裕は無かった。
「は? まあ、別にいいけど」
アキラは不可解そうな表情を見せるも、姫奈に近づき、真正面から抱きしめた。
エプロン同士の擦れる音が聞こえた。
ローファーとスニーカーは三十センチ程の身長差を縮めることはなかった。そのため、抱きしめるというより、子供が母親に抱きついているかのようだった。
姫奈は、小柄な存在を身体で触れて感じた。
首とは違い現在は腰のあたりに腕を回されているが、昨日のに近い感触を思い出させた。
「これで満足か?」
「さっきの人、誰ですか?」
姫奈は質問を質問で返した。
自身の胸のあたりには、プラチナベージュのショートボブヘアーがあった。いい匂いと、かつ艶のあるそれを撫でたい衝動に駆られるが、我慢して両腕をアキラの細い肩に垂らした。
「……ただの旧い知り合いだ」
「アイさんですか?」
その質問もまた意地悪だと、姫奈は思った。
「いや、違う――ていうか、どこでその名前を知った? レイミか?」
アキラは不機嫌そうな顔で見上げると、姫奈から離れた。
やはりあれは人名だったんだと、姫奈は瞭然とした。
同時に、その人物を重ねられて――人違いでキスをされた事も理解した。
「違います。昨日、アキラさんの寝言で聞きました」
「そうか……」
アキラは姫奈から視線を外し、遠くを見るような目をした。
「もしかしたら、何か夢でも見ていたのかもな……。私自身は覚えていないが」
どこか他人事のように話す様子が、姫奈に確信を与えた。
予想通り、アキラはあの行為を覚えていない。
「アキラさん……。昨日、わたしに何をしたのか覚えてないんですか?」
しかし、姫奈は最後まで確かめたかった。
もしかすると、否定して欲しかったのかもしれない。
そう。姫奈にとっては理想の結果だったのだ――人違いでキスをされたという事実を知るまでは。
「ん? 何か粗相でもしたか? ああなったから……もしかして、吐きでもしたか?」
アキラはばつが悪そうな表情で模索した。決して、とぼけているような様子は無かった。
帰りに吐いたのはわたしですよ。
喉まで出かかった言葉を、姫奈はぐっと飲み込んだ。
「いえ……。何でもないです」
真実を告げたい衝動に一瞬駆られたが、黙っておくべきだと姫奈は判断した。
言ったところで何になるんだろう。
納得のいく回答を得られるとはとても思えないと、姫奈は理解していた。
あくまでも、望むのは距離感の維持。現状を壊さないためにも、余計な情報を与えたくはない。
傷を負うのは、わたしだけでいい。
そうブレーキをかけると、姫奈は自身の暴走じみた言動を顧みて、反省した。
「ならいいんだが……。どうした? 今日のお前、なんか変だぞ?」
アキラは、急に塩らしくなった様子を怪しんでいるようだった。
「そうだ――アキラさん、
わざとらしいと思いながらも、姫奈は話題を変えた。
「わたし、もうすぐアレの日なんで……。大丈夫だとは思いますけど、もし休むとなったら連絡します」
生理が近い事も、今日のように休みたい時に連絡を入れたい事も、本当だった。
言っている内容に嘘偽りは無いので、真意を隠す後ろめたさはあまりなかった。
「ケータイ、か……。実を言うと、自分の番号は私も知らん。覚えてない」
アキラは恥じる様子も無く、堂々とした態度だった。
「覚えてなくても、ケータイの設定画面を開けば書いてありますよ」
「そうなのか。だが、今ここには無い」
姫奈は、充電ケーブルが刺さったままの携帯電話を思い出した。おそらく現在も、アキラの部屋のテーブルに置いたままになっているのだろう。
「アキラさん、せめてケータイは携帯しましょうよ」
「すまないな。昔っからあれを使う事がほとんど無かったから、持ち歩く習慣も無いんだ」
大量の着信履歴を放置してあったのを姫奈は知っている手前、妙に納得した。
アキラが普段から携帯電話を持ち歩く事も、使用している様子が無い事も事実だ。
姫奈は携帯電話の使用にまだ慣れてはいないが、最近でこそ調べ物やクラスメイトとのコミュニケーションに使用していた。面白い画像や動画が回ってくる事もあり、生活必需品というより娯楽としての側面が強かった。
アキラの部屋にはテレビも無かった事を、姫奈は思い出した。アキラは普段、帰宅してから何をしているんだろうと疑問に思った。
「そういうわけにもいかないんで、習慣づけましょう。これ、わたしの番号です」
姫奈はメモ用紙に自分の携帯電話の番号を書くと、アキラに手渡した。
「帰ったら、そこに着信入れておいてください。ちなみにですけど……電話のかけ方、わかりますよね?」
「バカにするな! ……たぶん分かる」
姫奈は自分自身が家電量販店の店員に教わるまで分からなかったこともあり、大丈夫だろうかと心配だった。
*
翌朝。姫奈は目覚めると、携帯電話に知らない番号からの着信が一件あった。
時刻は夜中の二時、姫奈がぐっすり眠っている時間だった。
アキラがその時間に思い出したのか、その時間まで携帯電話の扱いに苦戦していたのかは分からない。
どちらにせよ、こうして届いた事が姫奈には嬉しかった。
――傷はまだ癒えない。
しかし、ようやく許せる気になった。
今すぐ通話ボタンを押したい衝動に駆られるが、おそらく寝ているだろうと思い、止めておいた。
代わりに『アキラさん』と入力し、電話帳に登録した。
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