第06話(後)

 ふと、視界の隅にパッと光るものが入った。

 テーブルに置かれていたアキラの携帯電話の画面が、何かを映し出していた。

 姫奈はテーブルまで近づき、充電ケーブルが刺さったままの携帯電話を覗いた。音やバイブレーションこそ切っているものの『麗美』という人物から電話の着信を知らせていた。

 麗美――レイミ――EPITAPHに来ていた長い黒髪のキャリアウーマンを、姫奈は思い出した。

 他人の携帯電話に触れる、ましてや着信に勝手に出るなど常識的に考えていけない事だと、姫奈は理解していた。しかし、現在は非常事態だから着信に応えるべきだと判断した。


「もしもし! わたし、アキラさんのお店でバイトしてる澄川姫奈です!」

『えっ、ヒナちゃん!?』


 驚いた様子だったが、思っていた人物の声が聞こえて、姫奈は少し安心した。

 そして、アルバイトに顔を出してから現在までの事を振り返りながら、なるべく事細かに説明した。


『そう……。今は寝てるの?』

「はい。おそらく……ですけど」

『それじゃあ、ひとまずは安心かな。よくやったね、ヒナちゃん。ありがとう』


 レイミの声に驚きや焦りは無く、いたって冷静だった。

 まるで、こういう事態に慣れているような――少なくとも、初めてではないようだった。


『今からすぐに行くから、ヒナちゃんはもう帰っていいよ』

「で、でも――」

『いいから!』


 レイミの声のトーンが急に上がった。


『……ごめん。鍵は私も持ってるから、戸締まりだけはしておいて。と言っても、オートロックだけどね。それじゃあ』


 レイミはそう一方的に告げると、通話を切った。

 姫奈は携帯電話を耳から離し、画面に目を落とした。

 いつから溜まっているかは分からないが、五十七件の着信履歴。先頭のものだけでも『麗美』の名前がずらりと並んでいた。


「……」


 そういえば、アキラさんの連絡先知らないな――姫奈はそう思いながら、携帯電話をテーブルに置いた。

 アキラの下でアルバイトを始めたが、近づいたつもりだったが、アキラの事は何も知らないままだった。

 レイミに拒絶された通り、これ以上踏み込んでいいのかという疑問が一瞬浮かんだ。


 テーブルの位置まで来たからか――ふと、テレビの無いテレビ台に写真立てが置かれていることに、姫奈は気づいた。

 ツーショットの写真だった。

 ひとりは、私服ではなく何かの衣装のようなものに身を包んだ小柄な女性だった。現在と違って暗い色の髪は長く、医療用眼帯も着けていないが、顔つきからその人物がアキラだと姫奈は分かった。

 現在では信じられないほどイキイキとした両目で、どこか得意げに微笑んでいた。

 そして、そんなアキラの腕に女性が寄り添っていた。スーツ姿だが、レイミではなかった。隣のアキラよりはやや歳上に見えたが、子供のような無邪気な笑顔でピースサインをしていた。

 これもまた、姫奈の知らないアキラの一面だった。

 ついさっきまでアキラのことを助けたいと思っていたが、姫奈は大きな無力感に打ちひしがれた。

 ぼんやりとした頭で、アキラのベッドに近づいた。


「アキラさん……。わたし、そろそろ帰りますね……」


 姫奈はアキラの寝顔の側で、そっと囁いた。

 アキラのことを想うなら――現在は、レイミに任せるのが得策だと思った。


「うう……」


 姫奈の存在と声に反応したのか、アキラの片目は再び涙を流した。

 そして、毛布から出した両腕を姫奈の首に回し、抱き寄せた。


「アキラさん!?」


 突然のことに姫奈は体勢を崩すも、両腕をアキラの顔の両横で支え、なんとか踏み留まった。


「あい――」


 アイ。姫奈には、はっきりとそう聞こえた。

 『愛する』という言葉よりも、誰かに呼びかけるような――人名のニュアンスに聞こえた。


 姫奈はそう思うや刹那、アキラの顔が正面から近づいてきた。

 距離はあまりにも近く、首から上はアキラ本人に固定されているため、避けようがなかった。

 結果――唇同士が重なった。

 それはキスと呼ばれる行為だと、姫奈は理解した。

 初めての経験だった。

 柔らかく、優しく、甘美な――十五歳の少女には、そういうイメージが形成されていた。

 しかし、現在経験しているのは、とても激しいものだった。

 アキラは軽く口を開け、姫奈の唇に覆い被さった。そして舌を伸ばし、姫奈の閉じた唇をこじ開けた。

 姫奈の意思とは関係なく、一方的に舌を絡ませてきた。

 姫奈は相手の唇の感触を確かめることなく、口内を乱暴に犯された。

 ただ、アキラの熱量だけが伝わった。

 必死に抱き寄せる細い腕も、別の生き物のようにうねる舌も、何かを求め渇望する強い意思が込められていた。

 姫奈はされるがままに受け入れ、頭がぼんやりしていたが、身体はそれを許さなかった。

 吐き気のような――生理的な嫌悪感が込み上げ、アキラを力任せに引き離した。


「はぁ……はぁ……」


 姫奈は呼吸を整えながら、ベッドのアキラを見た。

 閉じた瞳から涙を流し、悲しげな表情で横たわっていた。まだ眠っているように見えた。

 ――しかし、ふたりの唇には唾液の糸が繋がっていた。

 姫奈は乱れた学生服と眼鏡を直し、再び毛布を整えると、その場から逃げるように部屋を出た。

 長く降りるエレベーターで、姫奈は口を手で抑えた。現在でも口内を滅茶苦茶に荒らされる感触が残っていた。

 感触、記憶、嫌悪感――そして、自身の奥底にある何か。その全てが混ざり合い、酷く混乱していた。

 ドクンドクンと、自分の胸の音が頭に響いていた。

 エレベーターが一階に到着するとすぐに、姫奈は走ってマンションから出た。


 外の空気に触れて、落ち着いたところがあったのだろう。頭で考える余裕はまだ無かったが、現在になって口内に煙草の匂いがした。

 その不快感に引きずられながらモノレールの駅まで歩き、駅のトイレで耐えられずに嘔吐した。

 少しだけ気分が楽になり、少しだけ落ち着いた。

 アキラは薬の副作用で、朦朧としていたのかもしれない。だが、いくら無意識だったとはいえ、何の前触れも無く突然あんな風にキスをされたのは、確かに嫌だった。


「……」


 帰宅ラッシュで混み合ったモノレール内で、姫奈は自分の唇に触れて俯いた。

 ――それを受け入れたこともまた、確かな事実だったのだ。



(第03章『煙草の味』 完)


次回 第04章『そのままで』

アキラにキスをされた翌日、気まずい思いで姫奈はアルバイト先に向かう。

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