第06話(前)
――アキラのこと、よろしくね。
そうは言われたものの、何もかもが自分よりアキラの方が優れていると姫奈は思っていた。
アキラの事は、ひとりで何でも出来る超人のようなイメージさえあった。
しかし――それが崩れ去ったのは、レイミにその言葉をかけられた数日後だった。
何の前触れも無く、唐突に訪れた。
「お疲れ様です」
その日の放課後、姫奈はEPITAPHの扉を開けるや否や、すぐ目に入ったのは――相変わらず客がひとりも居ない店内で、カウンター席で突っ伏しているアキラの姿だった。
顔は扉とは反対の方を向いているため、見えなかった。
「アキラさん?」
「……」
扉が開いた事にも、名前を呼ばれた事にも何の反応も示さない。
もしかして寝ているのかと思いながら、姫奈は回り込んだ。
「姫奈か……」
アキラは青ざめた――苦しげな表情だった。
唸るような声で、姫奈の名前を呼んだ。
「アキラさん!?」
「来て早々にすまない……。店仕舞いをして、私を部屋まで送ってくれ」
アキラのか細く弱々しい声を、姫奈は聞き取った。
生理かと思ったが、腹部を痛がっているわけではなかった。それに、いくら酷い生理でもここまで苦しむことはないぐらい尋常な様子だった。
アキラは帰宅したがっているが――
「救急車呼びましょうか!?」
医者に診てもらうべき状態だと、姫奈は判断した。
「バカ。発作みたいなものだから、大袈裟にするな……。部屋に戻れば薬がある……」
アキラは否定こそするものの、表情はやはり苦しげだった。
姫奈は自身の判断で救急の連絡をするべきか悩んだ。もしかすれば、何か取り返しがつかない事になるかもしれない。
「わ、わかりました」
しかし、アキラの言葉を信じるより他は無かった。
アキラはパーカーのポケットから鍵を取り出し、姫奈に差し出した。
姫奈はそれを受け取り、アキラを連れて店を出た。手早く扉の鍵を閉め、シャッターを下ろした。
背後からアキラの小さな両肩を支え、歩いた。足取りは意外としっかりしているため、不安は若干和らいだ。
海に沈みそうな夕陽が眩しかった。
アキラの住むタワーマンションへは徒歩五分程の距離だが、十五分程かかった。段々とアキラの歩くペースが落ちていた。着いた頃には陽が落ち、店を出る前よりアキラが一層弱っているように見えた。
アキラにはまだ、カードキーを使えるだけの意識と体力はあった。
このアキラの姿を誰にも見せたくないという姫奈の願い通り、誰ともすれ違うこと無くマンションまでたどり着いた。
しかし、エントランスを抜けるとコンシェルジュの女性が二人の様子に驚き、近づこうとした。
姫奈は藁にも縋りたい心境だったが、大袈裟にするなというアキラの言付けを守った。コンシェルジュに目をやり、無言で首を横に振り静止した。
エレベーターに乗った頃には、アキラは立つのもやっとな状態だった。
「アキラさん、もう少しです」
フロアの部屋数が少ないのが幸いだった。ここに来るのは二度目だが、姫奈はアキラの部屋の場所を覚えていた。
姫奈は屈み、アキラの腕を自分の肩に回した。
しかし、肩を貸しても歩くのは困難であり――アキラの体重が妙に軽い事に、姫奈は気づいた。
部屋まであと僅かな距離であること。そして、人目が無いこと。そのふたつから、姫奈はアキラを両腕で抱えた。
「失礼します」
確かにアキラは小柄だが、実際は見た目以上に軽いため、姫奈でも難なく抱えることが出来た。アキラがまともな食事を摂っているのか、姫奈は心配になった。
アキラの部屋に着くと、姫奈はアキラのパーカーのポケットからカードキーを取り出し、扉を開けた。
アキラの履いているスニーカーを玄関で脱がし、自分もローファーを脱ぎ、部屋の灯りをつけるよりもリビングに直行した。陽は沈んでいるが、まだかろうじて部屋の中に明るみはあった。
リビングのベッドにアキラを横たわらせ、姫奈は少しだけ胸を撫で下ろした。そのせいか、当初の目的を思い出した。
「アキラさん、お薬はどこですか?」
「キッチンにある……。精神安定剤を一錠、持ってきてくれ……」
精神安定剤。アキラのか細い声は、はっきりとそう口にした。
姫奈としては、滅多に耳にすることのない言葉だった。今までの人生にそれとの接点は無かったが、それがどういうものなのかは漠然と知ってはいた。
そして、アキラの現状をようやく理解した。
そう。身体の苦しみではなく――精神疾患によるものなのだ。
姫奈は部屋の灯りをつけ、その場から逃げるようにキッチンへと向かった。
キッチンシンクも部屋の内装同様に豪華な作りだったが、料理を行っているような様子はなかった。真ん中に置かれていた白いビニール袋の中には、薬局で処方して貰ったであろう薬の紙袋が入っていた。
紙袋の中には、いくつかの種類の薬が大量に、そしてその説明書が入っていた。
姫奈は説明書に目を通した。抗不安薬、気分安定薬、睡眠薬、頭痛薬の四種類が処方されていた。
精神安定剤とアキラは言うが、おそらく抗不安薬か気分安定薬のことだろう。説明書の効用欄、抗不安薬に『パニック障害』の文字が見えたため、こっちだと姫奈は判断した。
水切りに置かれていたグラスに水を注ぎ、薬と共にアキラの元へ運んだ。
アキラに薬を飲ませるが、効果が現れるまで油断はできなかった。
姫奈はベッドに横たわるアキラから、パーカーを脱がせた。パーカーの下にはカットソーを着ていた。
アキラに毛布を被せ、ベッド横でじっとアキラを観察した。
化粧をするようになった現在だからこそ、姫奈は分かった――アキラは目の下の隈を化粧で上手く誤魔化していた。最近よく眠れないと言っていた事と、処方された薬が姫奈の頭の中で重なった。
部屋に着いてから既にアキラはぐったりしていたが、薬を飲んでからは、起きているのか寝ているのか分からないぐらいに落ち着いていた。十分ほど時間が経てば、青ざめていた表情も若干和らぎ、完全に眠りについたように見えた。
「う……うう……」
しかし、突然唸り声を上げ――閉じた左目の目尻から涙が流れた。
気丈に振る舞う姿に憧れていた女性がこうして弱々しい姿を見せるのは、姫奈にとって心苦しかった。
姫奈は、アキラの頬を伝う涙を、指先でそっと拭った。
そう、決して幻滅はしなかった。苦しんでいるアキラを助けたいと思った。
わたしを救ってくれた大人だから――
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