第03章『煙草の味』

第05話

 四月も終わりに差し掛かり、ゴールデンウィークが迫っていた。

 澄川姫奈にとっては高校に入学してから、あっという間に時間が流れたように感じた。

 その日も放課後はEPITAPHへアルバイトに向かった。

 しかし、いつもと違い、店の前に黒い自動車が停まっていた。SUV車だが、車種を知らない姫奈はただ大きい車だと思った。

 人気が無い立地には、自動車は人間以上に珍しい存在だった。

 それを横目に、姫奈は扉を開けた。


「お疲れ様です」


 その日も、客は誰もいないだろうと思っていたが――アキラが立っている向かい、カウンター席に女性がひとり座っていた。


「やあ!」


 女性は姫奈を見るや否や、片手を上げて気さくに挨拶をした。実に爽やかな笑顔だった。


「い、いらっしゃいませ」


 姫奈にとっては客が居た事も、客らしかぬ言動を取られた事も、どちらも予想外だったので挨拶がワンテンポ遅れた。

 冷静に考えれば、自動車が停まっているという事は客が来ていると想像出来た。しかし、その発想すら出来ないほど今までひとりの客とも遭遇した事は無かったのだ。

 姫奈は反省しながら、店奥のスタッフルームへと駆け込んだ。


「おい、姫奈。別に客でもないから慌てなくてもいいぞ」


 店内からアキラの気だるそうな声が聞こえるが、姫奈は準備を急いだ。

 準備とはいえ、ブレザーを脱ぎ、代わりにエプロンを着け、髪を結ぶぐらいだが。


「えっ、お客さんじゃないんですか?」


 姫奈は壁の鏡で身だしなみを確認すると、店内に戻った。

 客でないのは残念だが、この店で自分とアキラ以外の人間が居る事が、なんだか嬉しかった。


「こいつはレイミ。私の旧い知り合いだよ」


 アキラの紹介で――レイミと呼ばれた女性は笑顔で姫奈にヒラヒラと手を振った。

 アキラの旧い知り合いという事もあり、アキラと同じ二十五歳ぐらいだと姫奈は一瞬思った。しかし、スーツ姿のせいかアキラよりもさらに大人びて見えた。OLというより、貫禄のあるキャリアウーマンのようだった。

 カウンター越しなので今はよく見えないが、さっき店に入った時は自分と同じぐらいの高身長だったと思い返した。椅子に座っているからこそ座高から腰の位置が分かり、長い足がパンツスーツを映えていた。

 腰まである長い黒髪は艶があり、触れなくてもサラサラだと分かった。そして、切り揃えられた前髪から、和風美人だと姫奈は思った。


「この子がヒナちゃん?」

「ああ」

「ふーん」


 名前を確認すると、レイミは姫奈をじーと見つめた。

 屈託の無い興味本位な視線を向けられたのが恥ずかしく、姫奈は思わず視線を外した。


「……うん。本当だ」


 しばらく見つめた後、レイミは視線をアキラに向けた。


「だろ?」

「今どき珍しいねぇ。それとも、最近の若い子はこうなのかな?」

「どうなんだろうな。私もお前も、自惚れていたのかもな」


 アキラとレイミの会話を聞いていても、姫奈にはそれぞれが何を言ってるのか理解出来なかった。


「あのー……。さっきから何の話ですか?」

「何でもないよっ!」


 思わず遮るが、レイミはニコッと笑って誤魔化した。

 一点の曇りも無い完璧な笑顔のため、姫奈は逆に胡散臭く感じた。


「ていうかさ。この子、私より背高くない? スタイルも顔も素材として超優秀なんだけど――ウチで使ってもいい?」

「アホか。ウチのバイトに手を出すな」


 また意味不明なやり取りが始まったと思いながら、姫奈はカウンターに回り込み、アキラの隣に立った。


「姫奈。お前が来るのを待ってたんだよ。こいつにコーヒー淹れてやってくれ」


 姫奈と入れ替わるようにアキラは店内に出ると、レイミの隣の席に座った。

 アキラに言われて姫奈は、レイミの席に飲み物は何も置かれていない事に気づいた。


「アキラさんも飲みますか?」

「私はいい。最近あんまり眠れないから、カフェインは遠慮しておく」


 一杯分だと確認すると、百五十グラムの水を鍋に入れ、火をかけた。


「まだ寝れないの? 薬まだある?」

「ああ。まだもうしばらくは足りそうだ」


 何の薬だろと思いながら、姫奈はガラスのコーヒーサーバーに円錐形のドリッパーを置き、ペーパーフィルターを敷いた。そして、キャニスターからコーヒー粉を計量スプーン一杯分掬うと、ドリッパーに落として平らに均した。

 沸騰した鍋の湯をケトルに注ぎ、移し替える。コーヒーの抽出は九十度の湯が理想のようだが、温度を計る道具が無いので暫定的にこの手段を取った。実際は何度なのかは分からない。

 ドリッパーのコーヒー粉へと、中央から外側へ渦を描くように湯を一度ゆっくり注ぐ。


「おー、ハンドドリップかぁ。うんうん。匂いが良いし風情があっていいじゃん。今日び、どこのカフェでも機械だしねー」

「そうだ。機械を使うのは悪い事じゃない」

「いやいや、機械と言ってもアレはダメでしょ」


 蒸らすために姫奈は頭の中で二十まで数えながらも、ふたりの会話を追っていた。

 レイミもあの機械を知っているという事は、頻繁にこの店に来ているのだと思った。


「そうですよ、アキラさん。さすがにインスタントを出すのはお店としてマズイです」


 姫奈がアルバイトを始めて驚いたのが、カウンターの向こう側にカプセルタイプのコーヒーメーカーが置いてあった事だった。姫奈の自宅にも似たようなものがあり、過去から愛用していた。

 アキラに出されていたものがインスタントコーヒーの類だったとショックを受けると同時、それを美味しいと思っていた自分の舌を情けなく思った。

 姫奈は慌ててインターネットでコーヒーの淹れ方を調べ、道具を購入してきた。コーヒー粉はスーパーで売っている市販のものをひとまず使っているため、なんだか後ろめたさはある。

 なお、業務用コーヒーメーカーを選ばなかった理由は姫奈が機械音痴気味で苦手意識があった事、そして店の混み具合的にドリップの時間は充分にあると思ったからだ。


「……」


 コーヒー粉が蒸れたのを確認すると、姫奈は再びドリッパーに湯を注いだ。

 ペーパーフィルター内に盛り上がった泡が平らにならない事を意識しながら、計三回の湯を注いだ。

 所詮はインターネット知識なのでこれが正しいのかは分からないが、一連の作業はまだ慣れなかった。

 アキラは今までコーヒーを淹れた事がないと言うので、この作業法のメモ書きをキッチンの死角に貼っておいた。しかし、本当にアキラも出来るのは姫奈は不安だった。


「お待たせしました」


 湯が落ちきるのを確かめると、ドリッパーを外しコーヒーカップに注いだ。


「ありがとう。ブラックでいいよ」


 レイミは一度コーヒーの香りを楽しむと、一口飲んだ。


「うん、美味しい。目の前で淹れて貰えると、また格別な感じがする。ただ――余計なお世話だけど、カップは温めておいた方がいいね。そのカップも、カジュアルな感じのお店だから、可愛いマグカップの方がいいかも。それと、折角コーヒーの良い香りがするんだから、このフルーティーフローラルなアロマもどうかと思うよ」


 コーヒーを飲みながら、次々と口にした。

 姫奈はどれも自分では気づかなかった事なので、素直に参考になると思いながらカウンターで聞いていた。


「私はそう思うけどなぁ、経営者オーナーさん」


 レイミは隣のアキラに、ニヤニヤとした笑みを送った。店のデザイン面にも口を出したからだろう。


「わたしも、マグカップの意見には賛成です」

「お前らなぁ……。いちいちケチをつけるな」


 姫奈もすかさず加勢する。

 しかし、当のアキラは不機嫌そうにそっぽを向いた。


「ようやくカフェらしくなってきて、よかったじゃん」


 そんなアキラをなだめると、レイミは姫奈に向き直った。


「ねぇ、ヒナちゃん。この女、メンヘラとサブカルを足して二で割ったような感じだよ? どう見たって近づいたらヤバい感じするんだけど、よくここでバイトしようだなんて思ったね」

「メンヘラ? サブカル? えーと……」


 聞き慣れない言葉に姫奈は戸惑うが、言い回しからおよそのニュアンスは掴めた。

 不機嫌そうなアキラが、さらにイライラしているように見えた。


「アキラさんは……カッコイイです。わたしの憧れです」


 確かに、アキラのことは未だに得体の知れないところはある。

 それでも、姫奈のアキラに対する気持ちは、出会った時から現在も変わりなかった。


「へー。カッコイイ――か。私も割と自信あるんだけどなぁ」


 レイミは髪をかき上げ、にんまりとした笑みを浮かべた。

 アキラとはまた違う『大人の女性の色気』を感じ、姫奈はドキッとした。


「おっと、もうこんな時間。そろそろお姫様を迎えに行かないと」


 レイミは右手首の内側に着けた腕時計が目に入り、席を立った。

 立ち上がると、細いウェストとスラッと伸びた足に長い髪が映えた。タイトなパンツスーツのため、腰からのヒップラインが色っぽいと姫奈は思った。

 レイミの身長は姫奈より若干低いが、それでも世間一般的には充分すぎる高身長だった。


「もう二度と来なくていいぞ」

「また適当に――今度はあの子も連れて来るわ」


 アキラは気だるそうにそう言うが、それが彼女なりの見送りなのだと、聞き流しているレイミから姫奈は理解した。


「ヒナちゃんも、美味しいコーヒーありがとう」

「いえいえ。またいらして下さい」


 姫奈はカウンターから出てきて、立ち去ろうとするレイミに頭を下げた。

 扉を開けようとしたレイミは、一度振り返った。


「ヒナちゃん――アキラのこと、よろしくね」


 そう言いながら、レイミは微笑んだ。

 今までの調子とは打って変わって、どこ寂しげな笑みだと姫奈は感じた。


「は、はい!」


 よく分からないまま、姫奈は頷いた。

 そんな姫奈を横目に、レイミはヒラヒラと手を振りながら出ていった。

 しばらくして、自動車のエンジン音が聞こえ――それもやがて遠退いていった。

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