第2話 医者の見立て


 少女が黙り込んでしまえば、部屋は人が二人いるとは思えないほどに静まり返った。沈黙を破ったのは医者の到着を告げるベルだった。少女は手持ちのタブレットを確認して門のロックを解除した。


「医者が到着したみたいです。ここまで連れてきますね」


 少女がそう告げるも男の返事は無い。まぶたを閉じて、やや深い呼吸をしている。すっかり眠ってしまったようだった。



 気まずそうにした少女のことなど知らない医者は颯爽さっそうと歩いて屋敷の扉までやってきていた。小走りで玄関へ向かった少女が扉を開けた。


「こんにちは、お嬢さん。見知らぬ男性を連れ込むとは感心しませんね」

「大丈夫だと思ったので」


 「こっちです」と言って少女は男のいる部屋まで案内していく。どうやら彼らは互いに顔見知りのようだった。


 医者は少女より頭一つ分身長が高い青年である。くすんだ金色の短髪と銀フレームの眼鏡が印象的であり、なんとなく怖そうと思われがちな風貌だった。


「もう少し危機感を持ったらどうです?」


 と、医者はカバンを持つ手と反対の手で眼鏡のズレを直しながら言った。その表情には心配の色がにじんでいるとも見えた。一見して人を威圧するような雰囲気があるが、医者はまだ若い。二十代半ばと言ったところで、少女とは十も歳が離れていないように思われた。


「持っていますとも。危機感のひとつふたつ。その上で、まあ大丈夫だろうと思ったんです。ねえ先生、患者を差別しないのが医者なんでしょう?」


 少女がどこか楽しそうに医者に言う。その様子を見た医者はわざとらしくあきれたように息を吐いてから答えた。


「ええ。ですから、彼が何者だろうと診察しますよ」

「ふふふ、流石は先生ですね。ありがとうございます」



 医者に合わせて歩くとすぐに部屋の前まで来た。医者はドアを三回ノックして「入りますよ」と声を掛けると、大胆ともいえる所作でドアを開けた。


「あなたが行き倒れていたという方ですね。こんにちは。医者のマヤテトロです。聞こえますか」


 医者は少女と話すときと打って変わって柔和な雰囲気をまとっていた。表情や声色だけで随分印象が変わる。


 良く通る医者の声を聞き、男はゆったりと瞼を持ち上げた。


「意識はある、と」

「でも、返事は出来なさそうですよ。ずっとぐったりしてて」

「なるほど」


 少女から軽く状況を聞くと医者は淡々と診察を進めていった。その間、男に抵抗する様子はなかった。




「重度の脱水症です。あとは栄養失調に、ところどころ擦過傷もあります。傷の方はこのまま清潔に保っておけば問題ないと思うので、まずは水分補給をしましょう。経口補水液を持ってきているので少しずつ飲ませていきますね。大丈夫そうですか?」


 男は是と言うように唇をわずかに動かした。医者が補助して給水させると、一口目はむせたが、その後は順調に飲めるようになった。


 様子を見ながらそれを続けて一時間ほどが経った。男は心なしか体調が回復したように見えた。ローテーブルを挟んで男の向かいのソファーに座っていた少女は、暇を持て余していたためひたすらに男を観察していた。


「うん、給水は問題なく出来ていますね。今なら話せますか?」


 男は「あ、あ」と声を出した後、「はい」と返事をした。起き上がろうとする男を医者は制止し、横たわったままで答えるように言えば男はそれに従った。

 少女はその様子を見て少し感動していた。同時に、男が本調子を取り戻してから使用人として雇うことが出来るかどうかを考えていた。男は決して小柄な体格ではない。痩せてはいるが、骨格はむしろ大きめである。二十歳近く年下だろう少女相手にまともに取り合ってくれる性格なのか、暴力に訴えないかを見極める必要があった。今更になって、少女は真っ当な危機感を持って現状に向き合い始めたのである。


 医者は男の様子を見て会話に支障はないと判断したようだった。「では」と言っていくつか男に質問していく。

 最初はかすれた声でどもりがちだった男も、話していくうちに滑らかに発声できるようになった。低く響く声には気怠さが滲んでいるが、どうやら状態は深刻ではないようで、かなり回復していることがわかった。


 話す男の様子を観察しながら、「悪くない」と少女は思った。医者と視線を合わせようとして、いざ目が合うと反射的に逸らしてしまう。自信なさげで、医者の相槌あいづちに促されてやっと話し始める。しかし、話す内容は端的たんてきでわかりやすく、質問に的確に答えている。

 奥手で利口。それは少女が最も理想とする使用人の為人ひととなりだった。



「消化しやすいものから徐々に普通の食事へと移行していけば、特に通院することなく生活できるでしょう。しかし、念の為に精密検査を受けることをお勧めします」


 と一通り質問を終えた医者が男に言ったところ、「失礼ですけど」と少女が口を挟んだ。


「オニイサン、何も持っていませんでしたよね。私の家の前で座り込んでいたくらいですし、ちょっと事情があるとお見受けします。そんなオニイサンは健康保険証を持っているんでしょうか」

「健康、保険証……」


 男は呆然ぼうぜんとして少女を見つめた。いける、と少女は思った。彼は十中八九それを持っていない。


「はい、健康保険証です。ご存じですよね?」


 畳みかけるように問いかけると、男は視線をそらして気まずそうに答える。


「はい……持ってない、です。すみません」

「いえいえ。でも、困りましたね。ねえ、先生?」

「ええ。診察料がかかりますし、さらに初診料が上乗せされて、経口補水液等と特別出張の料金も加わるので……」

「けっこう高くなりますよね」

「はい。診察時間外の呼び出しなので、その分もさらに」

「それは困りましたねえ」


 ちらりと少女が男を見れば、幾分良くなっていた顔色がまた悪くなっていた。唇をみ、体が強張こわばっていることが傍目はためにもわかる。


「ねえ、オニイサン? お金、払えそうですか?」

「……無理、です。今一文無いちもんなしで、だから……その、何とか……」

「タダには出来ません。私は雇われの身ですし、出張内容の報告も既にしています」


 医者は少女の意図を察したようで話を合わせてくれていた。医者らしく温和な雰囲気は崩していない。しかし内心少女の強引さに呆れているのだろうと思いながらも、少女は味方を得たりと調子づいていく。

 男は追い詰められた表情で再び口を開いた。


「待ってもらうことは……」

「保険証は無いのに身分証は持ってるんですか?」

「あ、いや……ないです。持ってないです」

「どこの誰ともわからないのに、支払いを待つなんてこと出来るんでしょうか」

「難しいですね」


 すかさず指摘した少女に男はたじろいだ。さらに医者に退路を断たれた男は可哀想なほどに縮こまっている。

 ふふふ、と笑いそうになるのを少女は必死でこらえた。あまりにも思惑通りに事が進んでいた。調子に乗ると足元をすくわれるぞ、と自らを戒めながらも、少女は計画通りに会話を進めていくことにした。


「でもまあ、私が無理にオニイサンを先生に見せたわけですし、ここは私が代わりに払っておきましょう」

「あ、ありがとうございます! すみません、本当……この恩は必ず、何らかの形で……っ…………」


 救いを見つけた男は少女に礼を言う。しかし、興奮したせいか眩暈めまいがしたようで急に黙り込んでしまった。「無理はしないでくださいね」と医者が言うと、落ち着いたのか、男は「大丈夫です。ありがとうございます」と言った。


「健康体に戻るまでには時間がかかるでしょう。ついでにうちで休養していってくださいな。その後しばらく働いてもらって代金は埋め合わせする、という形で。悪くないでしょう?」

「そんな、何から何まで……本当に、良いんですか?」

「ええ。仮にも差し伸べてしまった手です。最後まで手を貸すのが道理でしょう」


 ありがとうございます、と男が繰り返し、少女が返事をするくだりが落ち着いたころを見計らって医者が口を開いた。


「では、話はまとまったようですね。請求書は後で送ります。また体調が悪くなったり、何か困ったことがあったりしたら連絡をください」

「はい。ありがとうございました」


 医者は少女に告げて椅子から立ち上がった。


 「ありがとうございました」と立ち去ろうとする医者に男が言うと、医者は振り向いて男を見下ろし、少女を一瞥いちべつしてから男に忠告した。


「あなた、お嬢さんに手を出したらタダでは済みませんよ。彼女は一人暮らしですが友人や仕事の関係者がよく会いに来ますし、彼らがいなくとも屋敷には防犯システムが整備されています。変な気を起こさないよう、念頭に置いておくとよいでしょう」


 柔和な表情のまま、しかしどこか冷ややかな視線で貫かれた男はやましい思いが無くともぎくりとした。

 医者は男に微笑みかけた後、少女に向けて言った。


「それでは今度こそ失礼します。見送りはいりませんよ」

「ありがとうございました」

「くれぐれもお気をつけて」

「はい。先生もお元気で」


 ドアが閉まると少女と男だけが取り残された。少女が男に向き直って言う。


「すみませんね。目をかけてもらってるんです。ちょっと過保護なくらいに」


 本当に信頼できる先生なんですよ、と言って微笑む少女を見て男はいくらか安心したようだった。


 することもなくなったので、少女は黙って男を見つめてみることにした。男は不思議そうに少女をうかがうような目で見た後、横たわっているソファーのそばにあるテーブルに視線を移した。少女が黙ると男も黙る。男からは強いて話そうとしない。そのことを確認した少女は満足したようにふうと息を吐いた。

 少女のめ息に男はびくりと震えて反応する。少女はそれを見て少し驚いた後、ふふふと笑った。


「そんなにびくびくしないでください。確かに知らない場所で不安でしょうけれど、わからないことがあったら教えますから。力を抜いて、リラックスですよ」

「……はい」

「まあ、それがすぐに出来たら苦労しないですよね。ところでお腹は空きませんか? もうお昼時を過ぎて大分経ちましたし、ご飯にしません?」

「でも、わざわざ作っていただくのも」

「安心してください。うちは家事ロボットを全面的に導入しているので……ほら、用意ができたみたいです」


 と言って少女はポケットから取り出した小型タブレットの画面を見せる。そこには「食事の用意ができました」というむねの通知があった。


「食事は別の部屋にあるので取ってきますね」


 少女はさっとソファーから立ち上がり、部屋から出て行ってしまった。その背中を目で追っていた男は思った。



「まだ、彼女の名前も知らない」と。


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