第3話 二人で食事を
少女は用具庫から取り出したワゴンを持ってダイニングに来た。そして、キッチンから送られた二人の食事や飲み物、カトラリーをワゴンに乗せて、再び男のいる部屋へと向かった。
男の身元がわからない以上、話を切り出すならそこからだろうと少女は考える。何故行き倒れていたのか。何故少しばかり人里離れたこの場所に来たのか。男は何者で、普段は何をしているのか。
男にたくらみはないように見えるが、
しかし、最近の世界情勢を考えると、今の状況もあり得ない話ではなくなってきていた。
少女の住む国とその周辺の国々は参加していないが、ある地域を中心に戦争が発生しており、範囲を拡大しつつある。一部の主要国さえ参加し始めた一般市民をも巻き込む戦争は、出国規制を潜り抜けて逃げ出す難民を出しているとも聞く。とはいえ、戦時中に出国できる人間は限られており、危険を
それでも、あの男が戦争から逃げてきたのであれば、少女が男の救世主として優位に事を進められるのではないだろうか。少女はそう考えた。
「昼食持ってきましたよ。開けますね」とドアを
「無理しないでください」
「いえ、このくらいなら大丈夫です」
「いやいや、何かあったら大変ですので……」
少女はクッションを持ってきて男の体が安定するように配置した。男はソファーに腰掛けているが、両側には肘置きのようにクッションが置かれている。倒れても問題ないようにとの計らいだ。
そして、少女はワゴンに乗せた二人分の食事と飲み物をテーブルに移動させた。男の分は男の目の前に置き、少女の分は向かいのソファーに近いところに置いた。
少女は男に向かい合うようにして座って男に話しかけた。
「野菜ペーストのアソートとコンソメスープです。食べられそうですか?」
「はい。あの、スプーンは……」
「ああ、こちらにあります。大きめと小さめがありますけれど……手が大きいですね。大きい方にしましょうか」
少女はワゴン上のカトラリー入れから大きめのスプーンを取って男に渡した。二人分のコップにそれぞれ水を注ぎ、男がゆっくりと食事を口に運ぶのを確認してから、少女は自分も食事を始めた。少女の昼食はパンに具材を挟んだもので、パンを少しトーストしているところに少女の好みが表れていた。
いつも通り口に合う食事を食べながら、使用人を手に入れた少女はご機嫌に語りだす。
「そういえば誰かと食事するのは久しぶりです。この前はマヤテトロ先生が遊びにきたときだから……十日前かな? オニイサンを見つけた時はどうなるかと思いましたが、大丈夫そうで良かったです。いやあ、なんだか楽しいですね! 家族ができたみたいな感じがして。あ、オニイサンの食事は多めに用意してありますけれど、食べられる分だけで大丈夫ですよ」
少女はそう言い終えると再びもぐもぐとパンを食べだした。そして、ふと男の名前をまだ聞いていないことを思い出すと、
「あの、それは……」
と男は少女に話しかける。男から話を切り出すのはこれが初めてだった。
「これですか? 私の昼食です。あ、オニイサンの分はありませんよ」
咀嚼していた分を飲み込んでから答え、パンを皿に置いて水を飲むと、少女はふうと満足げに
しかし、少女の返答は男の意図するところではなかったらしい。男は少女の様子を気にしながらも言葉を続けた。
「いえ、そうではなくて……それの名前、なんて言いますか?」
それ、と男が指差す先にはパンがあった。少女の食べかけの分と、切り分けてある手つかずの分だ。
少女はパンに視線を移した。そして、少し首をかしげてから男に視線を向け、男の真意を探ろうとした。
「サンドウィッチって答えてほしいんです? それともパン? トマト? あるいはチーズ?」
「……サンドウィッチ、です」
「オニイサンはまだ食べちゃダメですからね。先生が言っていたでしょう? 胃を慣らしていかないと」
答えを示しても男は納得しないようだった。少女は男が何を聞きたいのか分からなかった。少女は、男はこの国ではないところで、かつ
それならば、この質問は男の
「いや、あの……何というか」
と、男が困った顔をして再び口を開いたが、少女は男を遮るようにして質問した。
「話は変わりますが、オニイサンの名前は何ですか? ずっとオニイサンと呼ぶのもよそよそしいですし」
男ははっとしたような顔をして、自分の名前を答えようとした。きっと答えようとしたのだろう。しかし、一音目を発しようとした男の口はわずかに開いたまま固まった。そして、言葉を探すように口が動くと、「どうして」と小さく呟いた。
「言えませんか? では、どこから来られたんですか?」
男は視線をさまよわせ、言葉を発しようとした口の形のままに声を出さない。はっ、と息を漏らした男を見て少女は尋ねた。
「言えないようなところから、ですか?」
男は首を振って否定する。
「そうじゃ、なくて……言葉が出ないんです。わかっている、覚えている……はず、なのに。なのに、それを言葉に変換できない……なんで……」
「んー? どうしてでしょうねえ。問題なく話せているのに、言葉にできない単語があるなんて。精神的に負荷がかかるようなことがあって、関連したワードを出せなくなってしまった……とか? 心当たりあります?」
「ない、と思います。自分の名前も言えなくなるようなことは……無かったはずです」
不思議ですねえ、と少女は
「とりあえずご飯食べましょうよ。考えるのはその後。ね?」
少女がサンドウィッチにかぶりついたのを見て、男はまごつきながらもスプーンを手に取った。
男は
一方少女は早々に昼食を食べ終えた。そして食器をワゴンの上に戻し、食事で汚れた手を洗いに行ったついでにノートと筆記用具を持ってきた。ノートの紙に
男の食事は半分ほど無くなっていた。食事を始めてから三十分近くが経っている。そのスピードを見た少女は、完食しないにしても、きっと
医者が男を
男の第一印象は良くなかった。身なりを整えていないどころか汚れ切っていて、顔色も悪かったのだから仕方がない。しかし、顔色を除いては今も変わっていないにしろ、よく見ると男は悪くない容姿をしていると少女は認識していた。
何も絶世の美男であるとか、そうでなくても端正な顔つきだと評したわけではない。ただ、磨いても輝かないにしろ、見られる程度には整えられると判断したのだ。
鉛筆が紙を擦る音と男の咀嚼音だけが部屋に響いていた。窓の外からは木々が風に揺れ、
日が少しだけ傾いた。窓から数歩分ほど離れたソファーにも白い日差しが届き始めていた。
男の手が止まったことに気付いて少女は声を掛けた。
「食事はもういいですか?」
「……はい」
少女は食器をワゴンに乗せて、再度男に向き合うように腰掛けた。
「では、続きの話をしましょうか」
男が息を詰まらせた気配がした。彼が食事中に何か考えているそぶりを少女は感じ取っていた。何か彼にとって大切なことを、または問題となっていることを話そうとしている、と少女は思った。
少女は男が口を開くのをじっと待った。沈黙が部屋を満たしていた。
何分待ったかは分からない。しかし、会話というにはあまりに長い感覚を開けて、男は話し始めた。
「私は別の世界からここに来た……と、思うんです」
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