黄金の魚

 患者が診察室を出て行くのを見届けたのち、私はペットボトルのコーヒーに口をつけた。

 それから伸びをひとつすると、マイクのスイッチを押し、待合室で待っている患者の番号を口にした。

 その日の最後の患者は制服姿の女子高生であった。

 私は微笑を浮かべながら、彼女に椅子を勧めた。

 それから、彼女を私のところへ紹介した医師の診断書に目を通した。


「先月から空中を泳いでいる魚が見えるとのことですが、その魚はいまも見えていますか?」

 「はい」と女子高生は短く返事をした。

「五十センチぐらいの魚が部屋の中を泳いでいます。あっ、先生の体の中を横切りました」

「なるほど。いま、魚の泳いでいる場所を指さしてみてください」

 私が指示を出すと彼女が虚空を指さした。


「先月、絵の中から魚が飛び出してきたとのことですが?」

「はい。パウル・クレーの、黄金の魚という絵をご存じですか?」

 「ええ、知っていますよ」と言いながら、パソコンのキーボードをたたき、『パウル・クレー 黄金の魚』と検索したところ、ディスプレイに魚たちが青黒い背景に浮かんでいる絵が出てきた。

「この絵のレプリカが家にあるのですが、先月、ふと眺めていたら、魚たちが動き出して、絵の奥から魚が飛び出して来たんです。長細くて金色に輝く魚が」

 「なるほど」と言いながら、私は右手の親指を上唇にあてた。

「部屋を暗くしても見えますか?」

「はい。見えます。暗いところだとさらに輝きが強くなるので、寝るときはタオルを目にあてて、光をさえぎって寝ています」

「それは邪魔ですね。ほかに生活で困っていることは?」

「勉強中に気が散るのと、外を歩いているときに気を取られるぐらいです」

「外を歩いていて・・・・・・、それはすこし危ないですね」

 私の問いかけに女子高生は黙ってうなづいた。

「その魚を触ってみたことは?」

「いいえ。すばしっこくて、すぐに逃げてしまうんです」

 私はカルテに書き込む手をとめて、「わかりました。試したいことがあるので、すこしお待ちください」と席を立った。


 私は備品を収めている部屋から虫取り用の大きな網を持って来て、女子高生に渡した。

「これで捕まえてみてください」

 「できるかな」と言いながら、女子高生が私には何も見えない部屋の隅に、そっと近づいて網を動かした。

 次の瞬間、「捕れました、先生。網の中で大人しくしています」と、女子高生がすこし興奮気味に声をあげた。

 私は何も入っていない網を見ながら、「そうですか」とひとつ頷いた。


「この魚はどうすればいいですか?」

 たずねる女子高生を裏口から外へ出し、私はすぐ近くにある河川敷へ案内した。

 外は夕焼けで赤く染まっていた。

「川に逃がしてみてください」

 私が指示を出すと、女子高生は何も入っていない網を左右に振った。

 最初は空中を眺めていた彼女の視線が徐々に下がって行き、やがて水面に移った。

 か細い夕日を浴びて、河の水面がキラキラと輝いていた。

「どうですか?」

「水の中をゆったりと泳いでいます。あっ、水の奥に消えました」

 私は彼女の様子を注意深く観察しながら、「そうですか。それでは診察室に戻りましょう」と声をかけ、河川敷を後にした。

 病院へ向って歩いていると、河の方から魚のはねる音がしたが、私は振り向かなかった。

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