君の人生を聞かせてもらおうか

和泉茉樹

君の人生を聞かせてもらおうか

     ◆


 その時のことを私が語りだすとは、おそらく誰も予想していなかっただろう。

 いかなる尋問、いかなる拷問、薬物、暴力、恫喝、全てが通じないことを連中は理解し、私を記録役としたのだ。

 銃器、薬物、金塊、電子機器、そして人間。

 ありとあらゆるものが取引されるのを、私はつぶさに見てきた。

 この目で見て、耳で聞き、手で触れ、そうして頭の奥底、精神の奥の絶対に破られない金庫に、丁寧に、几帳面に、形を持たない帳簿として、並べておいたのだ。

 ある非合法組織の男は、金に目が眩んだ銃器メーカーの在庫管理係が横流ししたアサルトライフルを満載したトランクを眺め、そして私に言った。

 全部で三十丁。横流しをしたのは、「エルザ・アンド・フランクス」の在庫管理課のジャック・テイラー。我々は彼に五万ドルを渡した。

 私はそれを記憶にしまいこんだ。

 ある時はテロリストが、私の目の前で拷問をした。

 哀れなことにそのテロリストの標的にされたアメリカ人は、洗いざらい、自分の無害な半生を微に入り細に入り口にして、最後には悲鳴も上げられなくなり、先に十本の指とお別れし、次に両耳とお別れしてから、ついにこの世と永遠にお別れした。

 ある時は、見るからに立派な背広を着た、理知的な男が私に淡々と国内に潜む反体制派の情報を伝えた。

 都市に紛れ込み、経済に参加し、そしていずれは政府を、それに付随する機関を、停止あるいは麻痺させ、国家を混乱に陥れ、そして暴力と金、聞こえのいい言葉で、国民を扇動し、操縦し、国を新しい形に脱皮させる計画。

 男は言った。

 今から私がきみに聞かせる名前や個人情報は、誰も知らないのと同じことだ。彼らは何故か、様々な事故や事件で命を終える。関連性に気づいたときには、もはや彼らは骨抜きになっている。実にスマートかつダイナミックな計画だよ。

 私は男や女の名前を記憶した。写真さえ見せられた。

 またある時は、市民権を持っているかどうかも怪しい男が、私の前に次々と女を連れてくると、その女の名前と買取主、金額を私に記録した。

 女たちは実に、様々だった。背の高いもの、低いもの。痩せているもの、太っているもの。黒人、白人、アジア系、珍しいところではインディアンの生き残りのような女もいた。あるものは自傷行為の痕があり、あるものは虐待の痕跡があった。麻薬に溺れ、目がうつろで、腕には注射の跡があり、極端にやせ細っているものもいる。時には少年や青年さえも連れてこられた。

 買い手は決して姿を見せないが、名前は私の頭の中にある。彼らが人間をいくらで買っていったかもだ。あるいはそれは、少女の人生に、少年の人生に、いくらの値札がついたのか、とも言える。

 私がなぜ彼らに重宝されたのか。

 まず記憶力があった。しかしそれはあまり重要にはならないだろう。

 趣味でチェスを学んだことがあるが、それほどの腕前ではない。序盤の定跡を学ぶことはできるし、記憶を探れば終盤、いかにメイトへ突き進むことができるか、その道筋は見える。

 型にはまれば。

 しかしどうしても、中盤の構想力、計算力、想像力は私にはない。終盤でも、相手が悪手を指すと、その時には私も混乱した。混沌とした盤上を読み解く力が、私にはやはり欠けていた。

 読んだ本の内容は、確かにはっきりと覚えた。どんな物語でも一度読むだけで、ストーリーはもとより、異国の名前を持つ登場人物の名前、展開の中で明かされる彼らの背景などの設定も、正確に記憶できた。

 初等学校に入ったところで、私の記憶力は光を当てられた。賞賛の光。

 教師たちは感嘆し、神童と呼び、しかし別の側面で私の欠陥にもやがて気づいた。

 私に当てられた光は、同時に闇も浮き彫りにしたのだ。

 その闇、暗く、底なしの部分は、私が決して、記憶したことの一部を口にしないことによった。

 学校のテキストを読めば、記憶できる。教師は私に何かを暗唱させようとする。

 すると私は、ある部分に限って、決して口にしない。

 最初、私は「言えません」と答えた。教師はなぜ言えないかを最初は穏やかに、徐々に強く、最後には詰問で答えせようとしたが、私は「言えないのです」としか言えなかった。

 結局、私は部分的に超人的な記憶力を持つが、思考に欠陥のある少年、と見なされて幼少期を過ごした。

 私の中には、決して言えないものがあることを、私自身は理解していた。

 自分でもよくわからないが、それだけは言ってはいけない、と心の中の一部が、強く強く、その記憶を思考と精神の奥底に押しとどめ、決して口から言葉にしようとさせないのだ。文字にすることもできなかった。絵に描くことも。

 私の頭の中には、決して開くことのないページがあった。

 そのページは何かを書かれた後、ピタリと閉じられ、開かない。

 ただ私の記憶の一部ではある。私は覚えている。

 他人にはわからないだろうけれど、私は覚えていたのだ。

 そのうちに私は「覚えていません」と答えたり、まるでとんちんかんなことか、勘違いを疑われるような些細なズレのある答えをして、周囲からの確認をやり過ごす術を身につけた。

 そのうちに私の記憶力は、周囲からしても平凡なものとなり、神童という私はどこかへ消えていった。

 私に意味を見出したものと出会った場所は、大学時代のサークルだった。

 実に平凡な、聖書を読み込むだけのサークルだったが、極めて不信心なことに、一部の学生がサークルの運営費をちょろまかし、私的な会合の資金にしていた。

 私はそれに引き込まれ、帳簿をつけるように言われた。

 私は、帳簿など誰にでも見えるが、自分は頭の中に帳簿が作れるはずだ、と口にしていた。

 特に深い意味はない。

 あるとすれば、彼らの帳簿を私が握ることで、彼らのその不信仰を批判したかったかもしれない。

 彼らは何も考えず、やってみろ、と言った。

 私は記憶の奥に帳簿の中身を全部しまいこみ、実際の帳簿の冊子は焼き捨てた。

 知っているものも知らないものも、サークルの学生たちは私に金を手渡し、私はそれを頭の中の帳簿に記入し、金は実際の金庫に入れた。不信仰の学生は私の帳簿を元に相応の金をこっそりと手に入れ、酒を飲み、麻薬を買い、楽しく過ごした。

 私の中の帳簿からは、少しずつ金が別の帳面に移り、それは私の個人的な資産に変わった。そのまま私は大学を卒業するまで、会計係を勤め上げた。

 いつの間にか私はサークルの主人、それも表と裏の両方の主人となっていて、会計係を後輩に委ねる時には、ただ金庫を渡すだけだった。

 その会計係はうろんげに「帳簿はどこですか?」と言ったが、私は「存在しない」と答えた。

 私は大学時代にこうして巧妙に金をある程度、手に入れた。

 それ以上に意味を持ったのは、サークルでささやかな悪事を働いていたものの一部が、そのまま犯罪組織や、それに準ずる悪党と結びついていたがために、私の能力の存在は、そのまま彼らに伝わっていた。

 決して口を割らない、有能な記録装置。

 貧弱で、気弱で、どうとでもできる、いかにも頼りない記録装置。

 私はいくつかの組織で、最初は実験として、程度の軽い秘密を記録させられた。

 そしてそのうちのいくつかの悪党は、私を警察署の取調室へ放り込む試練を課した。

 取り調べを受け、数日をジメジメとした場所で過ごし、貧相な食事をし、最後には私は放免された。

 どう調べても、何も知らない。どう問い詰めても、何も言わない。

 嫌疑不十分。不起訴。

 こんなことを続ける男を雇い続ける企業はない。私は大学を卒業するのと同時に就職していた、零細の革靴メーカーを放り出された。いくつかのアルバイトと、いくつもの悪い評判。放り出され、短い仕事、また放り出される。

 そうしているうちに、闇の中における私の仕事は、少しずつハードになった。

 いよいよ抜け出すことができなくなり、私は悪徳という悪徳、犯罪という犯罪の裏側、舞台裏を記憶に刻みつけた。

 もう誰も私をオマワリに差し出そうとはしない。皮肉なことに、決して口外しないとわかってはいても、進んで危険を犯したい奴はいない。

 こうして私は長い間、いくつもの組織を渡り歩き、いくつもの組織の記録を続けた。

 暗殺者が襲ってくれば、どこか別の組織が守るということさえもあった。私は公的な組織の秘密にも接していたから、そのせいだろう。

 それでもいつ死んでもおかしくない、と思ったことも再三だったが、私は生き延びた。

 にも関わらず、やはりオマワリの世話になり、私はその施設の取調室で、経験十分で慣れている型通りの尋問を受け、取り調べを担当した警官は苦り切った顔で、苦しげに溜息を吐き、テーブルを叩くと身を乗り出した。

「あんたの経歴はわかっている。しかし証拠がない。そして自白もない」

「私はその件については、何も言えることがありません」

「何も知らないはずがないが、あんたは決して言わないようだな。本当ならここであんたの指を切り落としたり、腕をへし折ったり、歯を引き抜いたりして、それでも言わないのか、確認したいところだ」

 この警官の発言は大問題だったが、私は特に追及しなかった。

 その日のうちに、私はなぜか護送車に乗せられた。それには少なからず動揺した。今までなら釈放されるか、揺さぶりをかけるための長期間の拘留か、どちらかだった。

 私は外が見えない車内で、車が揺れるのに任せ、その隙に左右を固める警官をこっそりと確認した。

 どちらも無表情で、何を考えているかわからない。

 護送車は一時間ほど走り、停車した。私の姿を隠すつもりもないようで、外に出された時は太陽の日差しが眩しかった。

 どこかの学校だと一目でわかった。古びた建物と、形だけの生垣。地面はレンガが敷き詰められている。学生の姿はほとんどないが、どうやら何かの建物の裏手らしい。それでも何をしているかわからない若者が一人、ふらっと通りかかり、こちらに丸く見開いた目を向けていた。

 私は手錠もされていなかった。しかし両側には警官がいる。屈強で、正義の元の暴力を行使するのに微塵も躊躇わないタイプの警官だ。二人を前にすると、私を取り調べていた背広の警官は貧相にすら見える。

 今もすぐそばに立つ貧相なその彼は、憮然とタバコを取り出そうとし、「禁煙か」とつぶやいてそれを背広に戻した。

 そのまま私は建物の中に導かれ、シンとしたその建物の三階の部屋の一つに連れ込まれた。

 大量の書物が書棚から溢れ、床にも積まれている。デスクさえも書類と書籍がうずたかく積み重なり、雑然としていた。紙の匂い、インクの匂いが空気を支配している。

「その人?」

 デスクの向こうでパソコンに向かっていた男性が顔を上げ、挨拶もなくそういった。

「ええ、アルスター先生。この男です」

 ふぅん、と言いながらアルスターと呼ばれた男はパソコンに向き直り、しばらくそのままキーボードを叩いていた。

 私は警官二人に挟まれたまま、不機嫌そうな背広の警官と揃って立ち尽くし、待っていた。

 私は何かが始まりそうな予感がしたが、警官はどうだっただろう。

 私の予感は、明らかに不吉なものだった。

 アルスターがもう一度、顔を上げて、その辺の椅子に座って、と言った。椅子と言っても、椅子にも本が載っていた。背広の警官がその本をどかし、私はその椅子に座らせられた。三人の警官は立ったままだ。

 やっとアルスターがこちらへ来て、私の前のソファに腰を下ろした。その段になるまで、私はそこにソファがあるのに気付かなかった。本に沈んでいて、アルスターはソファを占領していた本を無理やりに端に寄せて腰掛けたのだ。

 彼が私の目を覗き込む。

「決して口にしない、頑固な容疑者には見えないな」

「私は何もしていません」

「何を覚えている?」

 不思議な質問だった。私はどう答えるべきか、迷った。それにアルスターがにこりと笑う。

「君は何を言えて、何を言えない?」

「言えないことなどありません」

「例えば、人身売買については言える?」

「そんな事実はありません」

 いつも通りのやり取り。遣り過ごす方法はいくらでもある。

 ふーん、とアルスターが頷き、ソファに背中を預ける。その衝撃で本の山が二つほど崩れ、床に転がり、広がった。しかしアルスターはそれを気にしない。

「人間の思考には、決して他人に口外しない領域があるというね」

 目の前の男がゆっくりと話す。

「例えば、恥ずかしい、という意識がある。公にできない過去、人格を疑われる悪行、愚かな失敗、そういうものだ。人間は誰もがそういうものを抱えて、じっと口を閉じている。秘密は秘密のままに」

「何が言いたいのですか?」

 思わずこちらから、そう言っていた。アルスターは頬杖をついて、斜めになった顔でこちらを見ている。

「きみは、何も言わないという。それは、後ろめたいからか?」

「後ろめたいことは何もありません」

「なら全てが話せるはずだ。しかしきみは話せないという」

「話せないことはありません。私は、その……」

 危うく、言えない、と言いそうになった。

 それは、ほとんど自分の罪を認めているようなものだ。

「話せないことがないなら、そちらの刑事の言うことに答えてみては?」

 警官がすかさず言った。

「アサルトライフルの密売に関わった、銃器メーカーの関係者の名前は?」

 ジャック・テイラー。

 私は知っている。

 しかしそれは決して、私の口から出ることのない領域に記憶されている。

 アルスターがこちらを見ている。

 深く、吸い込まれそうな瞳の色。

「言えないのかな?」

「いえ、私には、わかりません」

「言えるか、言えないか、まずはそれを言葉にしてみよう」

 言葉がうまく、出てこない。

「別の質問にしようか。銃器密売という言葉が示すところは分かるのに、何がわからない?」

「私には、何もわからない。何も、その……」

 少しずつ形になったな、とアルスターが微笑みのに、私はいつの間にか冷や汗をかいていた。

 この学者だろう男は、何度か一人でうなずいた。何に納得したのだろう。

「こういう質問はどうかな。君は、自分が人生の中で何をやってきたか、知っているのかな?」

 答えられない。

 私は私の人生を知っている。

 私は私の人生の中で見てきたことを記憶している。聞いたことも、触れたことも、記憶している。

 しかしいつの間にか大半が、秘密のページに書かれている。

 私は、私の人生のほとんどを、口にできない。

「答えられないかな?」

 どこか嬉しそうでもあるアルスターの言葉に、私は口を開閉し、息を吐き、吸い、混乱していた。

 何を口にしていいのか。

 何を口にしてはいけないのか。

 言葉が、思考が、もつれて、混沌としていく。

「きみの人生を聞かせてもらおうか」

 アルスターは穏やかで、しかし冷酷だった。

 私は目の前が暗くなるのを感じた。



(了)

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