第5話
真夜中。お手伝いは皆帰り、屋敷は本来の静けさを取り戻す。
『王様』…キートンはたくさんのプレゼントボックスを抱え、地下への階段を降りる…暗い地下道を進めば、咽せ返るほどの甘い香りが漂ってくる。
そして最奥の扉の前に立つ。
暗く薄汚れた地下に似つかわしくない…お菓子の家のビスケットを表現した夢のような扉。
キートンは強い甘い香りに吐き気を覚え、生唾を飲み下し、意を決して外側からの施錠を解く。
ガチャン、と重い音が響いた。
プレゼントボックスを抱え直し、メレンゲ菓子のようなドアノブを回す。
ぎいい、と扉が軋み、ゆっくりと開く。
溢れ出るケーキの香り、クッキーの香り、シロップの香り、はちみつの香り、キャラメルの香り…あらゆる甘さが混じり合った、凄絶な香りが部屋から流れ出る。
キートンはぐ、と呻きながらも、ゆっくりと中に入る…そして、静かに、低く声をかけた。
「…え、エリサ。待たせたな」
チャリ、と金属音が聞こえる。
チャリ、チャリ…ズル、ズル…金属と布を引きずる音がキートンへ近づく。
ギラギラとした派手なアイシングクッキーのような壁。フルーツキャンディのような灯り。クッキーやマカロン型のクッションは、所々からコットンキャンディのような綿がはみ出ている。
キートンの足元へ、鎖に繋がれた白髪の少女がべたりと縋りついた。
「遅いわ、パパ」
…糸を引くような甘い声で、エリサと呼ばれた少女、キートンの娘は、キートンの顔を見上げる。
だがその両目は包帯に覆われていた。
それでも彼女には見える。見えなくともわかる。砂糖猫から香る甘いにおいで探り当てる。
可愛いドレスに身を包み、大きな赤いリボンを頭に被り…どこから見ても重宝されているように見える娘は、あまりにも痩せ細り、やつれていた。袖や裾から覗く腕や足はプレッツェルスティックのように細く、その肌は生クリームのように白く、全身を引きずるようにしてなんとか動く。
そうして、キートンへにたりと笑みを見せた。
「パパ、待ってたわ。今日は何を持ってきてくれたの?」
「…ああ」
エリサは目が見えない…だがキートンは無理矢理引きつった笑みを浮かべ、プレゼントボックスを一度床に置き、一つ開封する。
取り出したのはテディベア…エリサの手に触れるように差し出す。
「お手伝いさんがエリサにって、作ってくれたんだ。これで、」
「こんなもの要らないのよ!」
エリサが金切声を上げ、テディベアを投げ捨てる…それから手探りでキートンに触れ、愛おしむように、強請るように、うってかわり愛らしく微笑む。
「ちがうわよね、パパ。ちがうでしょぉ? エリサが欲しいもの、わかってくるせに…意地悪しないで、はやく、ちょうだぁい?」
クスクスと不気味に笑うエリサの呼吸は荒く、にたあと笑う唇からはよだれが滴る。
…キートンは全身を強張らせ、唾を飲み下し、残りのプレゼントを開封する。
アップルパイ、シフォンケーキ、クロカンブッシュ…チーズケーキ。全て菓子だった。
溢れ出す甘い香りに、ああ、とエリサは奇声を上げた。止まらない流涎。舌を突き出し、下品に喘ぐ…手探りで苺のホールケーキに触れ、ぐしゃりとスポンジを握り、口に頬張る。
「ああ、ああ…甘いわ。甘い。ふふ、あは、ああ、あはは、ひはは!」
「エリサ…フォークを使ったらどうだ。パパが食べさせてあげようか」
「自分で食べられるわぁ。ひひ、あはは!」
ケタケタと奇怪に笑い、エリサはケーキを掴んでは頬張り、アップルパイに齧り付き、クロカンブッシュを握り潰して貪り…だがチーズケーキを一口食べると、少し顔を顰める。
「これ…甘くない」
「…エリサ、じゅうぶん甘いよ」
「甘くないって言ってるのよ! パパ、お砂糖、早く、もっと甘くしてよ‼︎」
金切声を上げるエリサはクロカンブッシュの残りを拳で叩き潰す。クリームが溢れ出て、床やエリサの手をベトベトに汚す。
キートンはその様子に怯み、躊躇いながらも懐から砂糖を入れた袋を取り出す…甘い香りに気付いたエリサは手探りでそれをひったくり、ひっくり返す…砂糖はチーズケーキの上へ全てぶち撒かれた。
エリサはその甘い香りを頼りに、大量の砂糖がかかったチーズケーキに顔を突っ込み、顔面を砂糖とチーズまみれにして頬張る。貪る。食らいつく。
「エリサ…」
「ああ、アハッ…ひひ、アッハハ。甘いわ。とても甘いわ。これがいいのよ。なんて幸せなの。アッハハ、ひひ、ひははっ!」
「エリサ…」
砂糖とチーズでベトベトに汚れ、舌を突き出し、ぐちゃぐちゃとケーキを貪り…その手はまた別の菓子を掴んで口に運ぶ。
どれだけ可愛く飾ってやっても、どれだけ甘い声を聞かされても、どれだけ愛していようとも…キートンは娘を見ては、嫌でも嫌悪を抱いてしまう。
狂っている。
この娘は狂ってしまった。
いつからだ。もう忘れた。
元々他の砂糖猫よりも甘い物への執着が強かったエリサは、ある時から異常なまでの甘味欲求に支配されるようになった。
はじめのうちは、三食に加えて間食の甘味を数回食べさせるだけで落ち着いていたが、次第に量は増え…味覚が鈍ったのか、適切な砂糖量では足りないと訴えるようになり。
今はほぼ一日中、過剰な砂糖と菓子を摂取しなければ癇癪を起こす程になった。
あまりにも食欲が強いため、自由にさせておけば家中の糖果を食らいつくし、外にまで甘味を求めに行こうとする。
近くの村からは『貴族の王様』などと勝手に呼ばれているキートンは、保身と共に、娘が他猫に被害を及ぼすことを恐れ、やむなく地下に閉じ込め、鎖に繋いだ。
愛の鞭などと言って、一日の食事量を減らしたが逆効果だった…今のエリサは壊れてしまっている。むしろその異常量の砂糖を摂取しなかったせいで、身体はやつれ、立つことも出来なくなった。
エリサは病気だ。恐らく過食症の類。
そんなの、最初に食欲が強くなったあの時からわかっていた。
だから薬を飲ませたのに。
今も続けて飲ませているのに。
身体中をクリームやチーズや砂糖まみれにして笑い転げる娘を見…キートンは恐る恐る声をかけた。
「エリサ…約束だ。今日は薬を飲んでくれ」
「は?」
愛らしく甘いエリサの声が一瞬で低くなる。
エリサは笑みを消し、袖で顔のクリームなどを拭い取り…見えない目でもキートンを睨むような仕草をした。
「…嫌よ」
「約束しただろう…お砂糖を我慢できなかった日は薬を飲むんだ」
「何で⁉︎ エリサはお砂糖を食べないと死んじゃうのよ。美味しくないものなんて食べたら、すぐに死んじゃうんだから。パパはエリサが嫌いなの? エリサを殺したいの⁉︎」
「エリサ…パパはエリサが大切だから、病気を治してあげたいんだよ。頼むから…ぐ、」
限界だった。
吐き気がする。
キートンだって菓子は好きだ。砂糖猫だから甘い物は好物だ。だがそれは常識の範囲の糖分に限る。
エリサが摂取する量の砂糖はあり得ない。いつかアタマの良い奴が言ったことを信じている。いくら砂糖猫でも、砂糖を過剰摂取すれば病気になるはずだ。これは致死量だ。えずくほど甘い…。
…目の見えない暗闇から父親の声が消えれば、エリサは首を傾げる。だがそこに砂糖猫の甘い香りがする。父親はそこに居る。
…だから、エリサは高慢にため息をつく。そこに居るのに黙り込んだ父親へ呆れた。
「…仕方ないわね、パパ。パパは意地悪だわ。本当に困ったパパね」
「…飲んでくれ。頼むから」
「うるさいわね、飲むって言ってるのよ!」
ヒステリックに叫ぶエリサがキートンへシフォンケーキの塊を投げつけた。
べちゃりと衣服に生クリームが付着すると、キートンは低く呻く…不快感は表情には出さない。娘の目が見えなくとも、出来る限り娘の前では不快感を堪える。
ポケットから小瓶を取り出し、その中からころりと、透き通る水色の飴玉をひとつ手のひらに転がした。
その香りが鼻をつくと、ああ、とエリサが不快感を声に出す。
「嫌。嫌だわ。嫌! パパ、お願いだからお砂糖をまぶしてちょうだい。大っ嫌い!」
「わかっているよ…」
そうは言うものの、持ってきた砂糖はエリサが全てぶち撒けてしまった…仕方がないので、キートンはカーペットにこぼれた砂糖を飴玉に付着させる。なるべくたくさん。エリサが下品に散らかした生クリームなども纏わせる。
心の底から嫌そうな顔をするエリサが、渋々と口を開ける…キートンは丁寧に飴玉を娘の口へ入れた。
途端、口を閉じたエリサは、思い切りガリリと飴玉を噛み潰す。味わわないように、必死に、ガリガリと、ガリガリ、ゴギ、ゴリ…そうしてすぐに飲み下し、口直しとばかりに残ったケーキを大量に口に放り込み咀嚼した。
…それでいい。噛み潰そうがどうしようが、吐き出さずに飲み込んだならそれでいい。じゅうぶんだった。
「偉いぞ、エリサ」
「パパ、いつまでエリサはお薬を飲まなきゃいけないの。エリサの病気はいつになったら治るの。ねえ?」
「いつか必ず治るから…それまで頑張るんだ。エリサ。良い子だから」
…この薬を与え続けてどのくらい経った。
むしろエリサの病状は悪化している。糖果への欲求は増すばかりだし、身体はどんどんやつれていく。目が見えなくなったのも、薬を与えた後の症状だった。
娘は病気だ。そうだとわかって医者を探したが、異常者の娘を世間に晒すことに怖気付き、キートンが頼っていたのは、社会から外れた、いわゆる闇医者。
彼らから貰ったこの薬は、この飴玉は…本当にこの娘に効いているのだろうか。
「ねえ、パパ」
「…何だ」
「エリサ、いつもいっぱい、いっぱい頑張っているわ。だから、次はご褒美をちょうだい?」
「…何が欲しいんだい」
「今までにないほどの、とぉっても甘い物! 甘いお菓子! 世界で一番甘いお菓子が欲しいわ!」
「世界で一番甘いお菓子か…この近くに売っているかな」
「それを食べさせてくれたら、エリサはパパの言うことを聞くわ。お薬もちゃぁんと飲んであげる。だから、ね。お願いよ?」
「…ああ。約束するよ」
どれだけわがままを言われようと。どれだけ醜くなろうと。どれだけ嫌悪を抱こうと。
それでも、唯一の家族で、愛しい娘だ。
この砂糖狂いの娘は母親に捨てられた。エリサを守ってやれるのは、父親である自分しか居ない。愛してやれるのは自分だけだ。
薬だって、与え続ければ…いつか必ず効果が出るはずだ。
責任を背負い。
愛を刻み。
信じ続けるしかない。
キートンは開けたプレゼントボックスを片付け、抱え、立ち上がる。
「…じゃあ、また明日な」
「…ええ。パパ」
甘い部屋。
お菓子の家を演出した部屋。
鎖に繋がれた娘。
まただいぶ痩せた。そろそろ新しい拘束具に替えなければ、すり抜けてしまいかねない。
キートンは、娘を閉じ込めた部屋から出る…その背にエリサが甘い声をかけた。
「パパ」
「…ん?」
「エリサって、どんな病気なの?」
…扉を閉める。
…どんな病気。
キートンは認めたくなかった。
本当はわかっていた。娘の身体を脅かしている病気が何なのか。わかっていた。わかっていたが…まさか自分の娘が。エリサが。
エリサの目は溶けた。
虹色の糖液となってどろどろと溢れ出た。
その症状を知っている。
シュガー。
「…っゔ、」
胃の中の物が逆流する。甘い菓子の味。ミルク。小麦。卵。バニラ。砂糖。
キートンは吐き気に焦り、エリサから逃れるように走り出した。
施錠は甘く、半端だった。
×
隠し事がある。
誰にでも、他者には言えない隠し事は、ひとつやふたつ…あるはずだ。
王様が自分の娘を隠すように。
ヴァレリアとセオドアが付き合っていることを、フレデリカには隠したかったように。
誰にでも。
案外、近くに隠し事はある。
知られてはならない。
××
小さな家には兄妹しか住んでいない。
彼らの親は、彼らがとても幼い頃に、彼らを捨てた。
孤児の兄妹。
その妹は、親がどんな猫だったかも知らないまま捨てられた。
兄は覚えている。
自分たちの親は、どろどろになって、自分たちを食べようとしたんだ。
だから、捨てられたと言えば少し違う。彼らは、おかしくなった親から逃げて、逃げて、ようやく出会ったスイートワーカーに助けてもらった。
それから小さな孤児院に入り、貧しくもまともな食事を貰い、偶におやつを貰いながら、温かく甘い場所で、幸せに過ごしていた。
なのに、いつからだ。
ある日貰った、とても美味しいとは思えない飴玉を食べた後だったか…孤児院で奇怪な病気が発生した。
まるで兄妹の親と同じように、身体がどろどろに溶け、異常にお腹が空き、お菓子を食べても満足しない…ついには孤児院の仲間に襲いかかる子供まで居た。
そして兄妹も感染した。
兄は片目が虹色に溶けた。
妹は喉が爛れ、声が出なくなった。
それでもまだ幸福だった。飢餓感に襲われることはなく、それ以上進行せずに済み…暴れ狂う子供たちを止めに現れたスイートワーカーに再度保護され、また別の孤児院に連れて行かれた。
兄妹は新しい孤児院にて、必死に自分たちの異常を隠した。片目は不慮の事故で失明したことにした。妹は生まれつき喋れないことにした。
決して自分たちが…砂糖猫が昔から脅かされている奇病、シュガーに感染したと知られないようにしていた。
そうして、兄が十と数年の歳を過ぎた頃に、妹を連れて孤児院を出…この小さな村にやってきた。
失踪した村長の娘姉妹の妹は、兄妹の話を聞けば、快く空き家に住ませてくれた。
その優しさに、つい兄妹は隠し事を打ち明けた…自分たちの身体が、少しだけシュガーに感染してしまっていること。
少女はその話を聞けば、不快な顔は一切せず、ふたりを受け入れた。
「だって、貴方たちが村に危害を加えるとは思えないもの。それ以上の進行はしていないのでしょう。なら大丈夫よ」
そして彼女は約束してくれた。
「貴方たちがシュガーだということはちゃんと秘密にするわ。まだその病気が、どんな感染経路なのかは、私も調べている途中だし…」
だったら僕たちが、君たちに感染させるとは思わないの?
「思わないわ」
どうして?
「言ったでしょ。貴方たちからは、嫌な予感がしないの。そうね、例えるなら…貴方たちからは、カラメルの香りがするわ。私が大好きな香り」
だからきっと、悪い猫じゃないと思うの。
…それはたぶん、朝食に食べたプディングの残り香だったのかもしれないが、そのおかげで、兄妹は村に住まわせてもらった。
今でも感謝している。
十と数年の歳にして、村長をつとめている少女、フレデリカには。
まだまだ彼女を頼りにしていない住民も多いが、兄妹は…デューイとテルシェは、フレデリカを心の底から信用している。今もこうして平穏な日常を送れているのは、フレデリカが、ふたりの秘密を守ってくれているからだ。
だから、フレデリカの優しさを裏切らないために、デューイもテルシェも、自分たちで隠し通さなければならない。
…デューイは洗面台の鏡と向かい合い、溶けた片目を確認する。
外した包帯は一日でベトベトだ。糖果を摂取すれば、片目から虹色の糖液が溢れ出る。包帯の内側や、押さえるガーゼは虹色に汚れ、少し取り替えるのが遅れていたならば、猫目につく場所で染み出していただろう。きっとその虹色の液体を見られたならば、一目でばれてしまう…シュガーだと。
デューイは流水を掬い、頬を伝う糖液を洗い流す…眼窩を直接洗うことは、何年経っても恐ろしくてできない。ひとまず溢れた糖液を拭い取れれば、またガーゼと包帯で隠せる。
…痛みはない。見えないだけ。
それ以上の症状はない。孤児院で暴れていた子供達のように、飢餓感を覚えることは今もなく、シュガーの進行は完全に止まっていると思えた。
それでも得体の知れない病だ。もしかしたらいつか、今すぐにでも、この融解が全身に及ぶかもしれない。他の砂糖猫に食らいつきたくなるかもしれない。
…毎日が恐ろしい。
この身体で生きていることが恐ろしい。
ばれてはいけない。
隠し通さなければいけない。
フレデリカを裏切ってはいけない。
自分たちは普通の、ただの、砂糖猫だ。
狂い、自分たちを食い殺そうとした、孤児院の子供たちとは違う。
あの親たちとは違う。
包帯を巻き直し、リビングに戻れば…妹のテルシェが菓子をテーブルに置き、声が出ないからこその満面の笑みで、デューイを呼んでいた。
デューイは胸の内の、苦く不快な感情を振り払い、テルシェに笑顔で答えた。
「ああ、ザッハトルテだ。嬉しいなあ!」
チョコレートは兄妹の大好物だった。
兄妹は微笑み合う。
笑っていれば幸せになれる。
笑っていれば、秘密は隠せる。
どれだけ不快でも、どれだけ恐ろしくても。
笑え。嫌でも。苦くても。苦しくても。
兄妹は笑って過ごす。
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