いいひと

樋口偽善

いいひと


気がついた時には全てが遅かった。




窓が夜風でがたがたと揺れる音を聞きながら、私はひとりで全てを悟ったのだ。


これまでの人生が風になって流れてくる様だ。


それは確かに存在するのだが、決して掴めない。



「お前みたいなやつがこの世にいるなんてな。きっと誰にでも愛されるぜ、お前は」


「素敵な人だね。君の様な子が息子だったらどんなに良かったか」


「あなたがいてくれて良かった。これからも私を守ってね」



うるさい!うるさい!うるさい!



耳を塞ぐよりも先に、私は自身の頭部を何度も何度も殴っていた。


数十秒の後、頭がふらついてきたところで私はそのままベッドにうつ伏せになった。



…醜い。


…汚い。


……卑怯者共め…。



下唇を強く噛んでしまい、口内に血生臭い風味が広がった。


失望、いや、言葉では形容しがたいもやもやした何かが、全身を包み込んでいた。




・・・・・・・・・・




22歳になった私は、何気ない日常を謳歌していた。


5月の時点で東京の広告代理店への就職が決まり、あとはゼミと卒業論文を残すのみ。


今日は文学研究会で知り合った友人の正樹と大学前の居酒屋に飲みに来ており、明後日は同じゼミに所属する恋人の泉と映画を見に行く約束をしていた。


“人生の勝ち組”とまではいかないまでも、現在の私はそれなりに恵まれているほうだと思う。



「そういや隆文さ、泉ちゃんは元気にしてる?」



泉は私と正樹の共通の知り合いである。


ただし知り合ったのは正樹のほうが先で、2人は高校が同じだったそうだ。


私はいつも通りだよ、と適当に返事をした。



「そうか、安心したよ。この前朝から大学に向かってる途中に電車の中でばったり会ってさ。その時の俺への対応がなんだかそっけなかったから心配してたんだよ」



私は気にも留めなかった。


あの子は普段から何を考えているのかよく分からない様な女なのだ。


恋人である私にさえ悩みを打ち明けることは滅多になかった。



「そうだ、慎太郎って就職先決まってるのか?あいつそれなりに行動力はあるけど、ここぞって時に頑張れない奴だからさ」



慎太郎も私と正樹の共通の知り合いで、彼も正樹と高校の同級生であった。私とはゼミを通じて知り合った。そして彼は、ゼミの教授の息子であった。


彼とはゼミで何度かグループワークを一緒にやったことがあるが、それ以上の関係には至っていない。


だから今どうなっているのかはよく分からない。


私は正直に彼のことはよく知らないと答えた。



「相変わらずだなぁ。ま、隆文も元気そうで安心したよ。お前って優しくていいやつだけど、自分のこと全然喋んねえしさ」



2時間ほど飲んでいい気分になった我々は、店を出た後もなんとなく遠回りをして喋りながら帰った。



「まあお前あれだぞ、泉ちゃんのこと大事にしてやれよ。ああいう子に限っていついなくなっちゃうか分かんねえぞ」



私には全くと言っていいほど不安がなかった。


泉とは大学1年生の頃から関係が続いており、お互い初めての恋人だ。


2人の性格上、互いの全てを知り尽くすほど語り合ったわけではない。


しかし、私は恋人としての関係はこの程度の距離感に留めておくのが丁度良いと感じていた。


長く一緒にいてもまだ知らないことがある。


だからこそ魅力的に見えるし、興味も湧くのだ。


私は顔を斜め下に向けながら、俺はあの子のために生きてるんだ。どんな苦労も厭わないよ。と呟いた。本心だった。


正樹は返事をしなかった。


聞こえていなかったのかな?と思いちらっと彼の方を見ると、突然勢いよく肩に手を置かれた。



「お前みたいなやつがこの世にいるなんてな。きっと誰にでも愛されるぜ、お前は」



そこまで褒められる様なこと言ったかな?なんて思いながら、我々は相変わらず遠回りをしながら自宅を目指した。




・・・・・・・・・・




映画を見終わった我々はその近辺にあるタリーズコーヒーに入り、私はブレンドコーヒー、泉はストレートティーを注文した。


久しぶりに2人で出かけたこともあり、映画の感想を早々と語った我々は互いに近況を伝えあった。



「7月頭になんとか内定にこぎつけたの。冷凍食品メーカーの営業職。まあ、地元の小さい会社なんだけどね」



どこに入るかよりも何をするかが重要なんだよ。とさり気なくフォローした。


しかし、私の心はあまり穏やかではなかった。


泉は地元を離れる気は無い様だ。


東京勤務の企業もいくつかエントリーしていたようだったので、一緒に上京できるかとひそかに期待していたのだが。



「今月末はゼミ内で最後のグループ発表だね。来学期は卒論尽くしだし、なんだかんだでゆっくりできないな」



そうだ。泉と一緒に大学に通う日々も、あと1年足らずで終わるのだ。


4年生の前期の集大成として、私のゼミでは4グループに分かれて研究を行い、その成果を発表することになっている。


我々は一緒のグループではない。


一緒に何かを頑張れる最後の機会だったのだが、教授がランダムで決めたのだから仕方がない。



「慎太郎と一緒のグループなんだけどさ、隆文からもちゃんとやれって言っといてよ。あいつもう就活は終わってるんだし、真面目にやらなきゃパパに怒られるよって」



あいつとはあんまり親しくないんだよな。なんて返事をしようとして、一昨日に正樹と飲んだ時も同じことを言ったことをふと思い出した。


同時に、正樹が電車で泉と偶然会った時に反応がそっけなかったと言っていたことも思い出された。


ゼミの話ばかりしていてもつまらないので、私はこのことについて本人に聞いてみた。


泉は元々大きい目を少しばかり見開いた後、「別に、なにもない」と言った。


なんだかばつが悪そうな彼女の様子を不審に思った私は、ふいにある疑問を抱いた。


たしか正樹は、朝に大学に向かう電車で泉と会ったと言っていた。


今思えば、泉が朝から大学に向かう電車に乗っているのは不自然だ。


泉の実家は大学から電車で数駅ほどの場所にあるにも関わらず、彼女は大学付近のアパートでひとり暮らしをしている。


夜勤のバイトなどをしているわけでもないし、家族とあまり仲が良くない泉がただの平日にわざわざ実家に帰るとも思えない。


私はこれについても彼女に聞いてみたのだが、相変わらず「なにもない」と繰り返すばかりではっきりと答えようとはしなかった。


まあいいか、何か言いにくい理由でもあるのだろう。


しばらくゆったりとした時間を過ごした我々は、外が暗くなってきたところで店を移して夕食を食べた。




・・・・・・・・・・




ゼミの集まりがある日、教室に入ると泉のグループがなんだかざわついていた。


その中には教授もいて、眉間に皺を寄せながら腕を組んで唸っていた。


自分のグループの輪に入る前にどうしたのかと彼らに尋ねると、どうやら慎太郎が全然ワークに参加していないということだった。


今日もビリヤードかどこかに行ってしまったのか顔を見せておらず、父である教授の言うことも聞かないようだった。



「地元の良い企業から内定が出て気が緩んでいるんだろう。息子がすまない。帰ってきつく叱っておく」


「いえ、先生に責任は…。それよりも、彼に任せていた資料が手元にないのが…」



泉が困っているのを見た私は思わず、自分が代わりにやろうかと言った。



「え、そんな、悪いよ。隆文だってやることがあるんだし」


「うん。君は自分の班の研究に尽力すればいい。これは息子の仕事だ」



教授はふーっとため息をつき、改めて私の顔を見た。



「素敵な人だね。君の様な子が息子だったらどんなに良かったか」




・・・・・・・・・・




ゼミの集まりが解散し、私は泉と一緒に自宅へ帰った。


今日は2人でながしそうめんをすると約束していたのだ。


台所で麦茶の準備をしていると、部屋から泉の唸り声が聞こえてきた。


どうしたのかと聞いてみたところ、慎太郎から連絡があったというのだ。



「留年してる先輩にバイト頼まれちゃったから俺の担当してる資料やっといてくれって…。あいついい加減にも程があるでしょ。先生本当にちゃんと躾してるの?」



珍しく泉が怒りを露わにしていた。


私には一度も見せたことが無いような顔をして。


私は咄嗟に口にした。


その資料、俺が作るよ。って。


泉はまたもや遠慮したが、私のグループは比較的真面目で優秀な者が多く研究も順調だったので、彼女を手伝うぐらいの余裕はあった。


私は泉の頭を撫で、俺に任せろよ。と言った。


泉は私の目を見た後、一瞬目を逸らしたかと思うとまた視線を合わせてこう口にした。



「あなたがいてくれてよかった。これからも私を守ってね」



当然だ。とばかりに私は大きく頷いた。




・・・・・・・・・・




まずい、思いの外時間がかかりそうだ。


翌日、私は慎太郎が担当するはずだった資料の作成に取り掛かったのだが、予想以上に量が膨大でなかなか終わりそうにない。


なんせ前回の分に加えて次の週までに彼がやるはずだったものも請け負ったのだ。


泉があれだけ遠慮したのも納得がいく。


しかし、これからも守ってくれと言われたんだ。


私が助けにならなければ。


私は数日間寝る間も惜しんで作業に没頭した。




・・・・・・・・・・




ゼミの集まりの日がやって来た。


私はなんとか慎太郎の分の資料を完成させ、事前に泉に手渡しておいた。


しかし、肝心の自分たちの資料を作り終えることができなかった。


私はグループメンバーから非難された。


実は以前にも似たような失敗をしていたので、彼らは呆れているようだった。


彼女に優しくするのは結構だが、まずは自分がやるべきことを優先しろ、と。至極正論だ。



「お前がいつも泉ちゃんに助け舟を出してるのを見てた時から嫌な予感がしてたんだ。お前はたしかにいいひとだよ。でもさ、いいひとになるのも然るべきタイミングってのがあるんだよ。わかるだろ?」



私は何も言えなかった。


ふいに泉達のグループに目をやると、なんとそこには慎太郎がいた。


教授は満足そうな顔で彼らの資料に目を通している。


私の中で、何かにヒビが入ったのを感じた。




・・・・・・・・・・




今日は大学の卒業式だ。


久しぶりに足を踏み入れたキャンパス内には、色とりどりの袴に身を包んだ女子生徒達と統一感のあるスーツを着た男子生徒で溢れていた。


私はまずゼミのメンバーと集まり、学生最後の思い出に浸っていた。


そんな中、俺は泉に感謝の気持ちを伝えたくてそわそわしていた。


巷では、卒業式当日に彼氏が彼女へ花束を渡す。なんてものが流行っていると聞くが、甲斐性無しな私にはそんな洒落た真似はできない。


しかし大学時代の大半を共に過ごした彼女に改めて想いを伝えたかった。


4月からは勤務地が異なるため遠距離になってしまうが、これからも一緒に歩いて行こう。


そう伝えたかった。


私はタイミングを見計らい、泉を人気の少ない場所へと呼び寄せた。



「…どうしたの?隆文」



泉と会うのは少しばかり久しぶりであった。


卒論に手こずっていたらしいので、私から会おうと誘うことは遠慮していたのだ。


私は先程考えていた言葉をありのまま彼女に伝えて、彼女を抱きしめようとした。


しかし、それは叶わなかった。


泉はそれを拒んだのだ。


その後は呆然としていてあまり覚えていないが、なんとなくこの様なことを言われた。



「私、本当に大切にしたい人が誰なのか気づいてしまった。いや、ずっと前から気づいてた。あなたはいいひとだけれど、それだけなの。今日まで守ってくれてありがとう。東京でも頑張ってね」



気がつくと目の前には誰もいなかった。


少し遠くに目をやると、泉はゼミの集まりの輪に戻って慎太郎たちと楽しそうに話していた。


私はどうすることもできないまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。


すると、ポケットの中のスマホが震えた。



「もしもし隆文?そろそろ文学研究会で集まりたいんだけど、もうゼミの集まり終わった?」



私は何か救いを求めるようにその場を離れ、正樹から指定された場所に向かった。




・・・・・・・・・・




「よう隆文、久しぶりじゃん。お前ちょっと痩せたんじゃね?」



上手く返事ができない。


そんな私の様子を察したのか、正樹は私に小声で話しかけてきた。



「…なんかあった?こんな日に暗い顔すんなよ。まだみんな来なさそうだし、その…俺で良ければ話聞くよ」



私は正直にあったことをありのまま伝えた。


正樹は黙り込んで何か考えるような仕草をした後、口を開いた。



「あのさ、そのことなんだけど、俺わかってたんだよね、こうなること」



意味が分からなかった。私は目を丸くした。



「これは随分前の話だけど、朝に電車で泉ちゃんとばったり会って、なんかそっけなかったって話したことあるだろ?」



覚えていた。あれはたしか7月頃だっただろうか。


泉と映画を見に行った時にそのことについて聞いてみたが、たしか何もないって言っていたような。



「実はそれちょっとだけ嘘なんだ。朝に電車で会ったのは本当なんだけど、別にそっけなくはなかった。むしろ向こうから話しかけてきたんだ。そしてあることを相談された」



泉が正樹に相談を…。


俺には一度だってそんなことはなかったのに。



「お前は絶対に知らなかったと思うけど、実は泉ちゃんは高校時代に慎太郎と付き合ってたんだよ。ただ泉ちゃんは恋愛があまり得意じゃなかったから、経験豊富な慎太郎は愛想を尽かして別れちゃったんだけど…。でも別れた後になって、泉ちゃんは自分が慎太郎を満足させられなかったことをひどく悔やんだ。だから彼女は誓ったんだ。大学に進学したら優しい彼氏を作って恋愛に慣れて、慎太郎にふさわしい女性になるんだって」



私の理解が追い付いていないことなど気にもせず、正樹は話し続けた。



「そこで出会ったのが隆文だったってわけだ。お前はいいひとだし、泉と同じく恋愛経験がないから恋愛慣れにはうってつけの相手だった。そしてお前と付き合って2年ほど経った頃、慎太郎と同じゼミに属することになった。泉の想いは高校時代から変わっていなかったから、週1回会うようになったことで彼女の想いはさらに強まったんだ。あの日にあの子が電車に乗っていたのは、考えたくないだろうけど慎太郎の家に前日泊まっていたからだよ」



正樹は電車の中で泉と話した内容について語り始めた。


泉は正樹に対して、このまま慎太郎を想い続けていいのだろうかと相談してきたそうだ。


だから私には何も言ってこなかったのだ。



「俺なんて答えたらいいかわかんなくてさ、泉ちゃんの問題なんだから自分で決めるべきだよって言っちゃったんだ。あの…お前は優しいから誰にでも愛されるだろうし、すぐに新しい恋人ぐらい作れるだろうと思って…」



私は言葉を失った。


無言で立ち上がり、後ろから何度も名前を呼ばれたのも無視してふらふらと家に帰った。




・・・・・・・・・・




自宅で一人考え込んでいた私は、遂にすべてを悟った。


私は泉に利用されていたのだ。


そしてそれが慎太郎に近づくきっかけとなったのだ。


始まりは前期の集大成として行われたゼミのグループ発表。


泉は私の前で慎太郎をいい加減な人間に仕立て上げ、私が彼の代わりに資料を作るよう仕向けた。


私の家でながしそうめんをした日、泉は慎太郎から連絡がきたと言っていたが、今思えば実際に連絡がきているスマホの画面は見ていない。


私なら信じて助けてくれると思ったんだろう。守ってくれると思ったんだろう。


そう、私の優しさに漬け込んで…。


そしてそれらの資料は慎太郎が作ったということにし、教授に見せた。


どうりで前期の成績が公開された後、あいつがインスタで「ゼミの評定Sだった」って騒いでたわけだ。


あの教授も結局息子を特別扱いしてSをつけたのだろうか。私の評定はBだった。


しかし、慎太郎がいい加減な男であることに間違いはない。


実際私が教授に褒められたあの日、彼は無断で欠席していたのだから。


しかしそんな彼だからこそ、自分が楽できるよう助け舟を出してくれた泉を気に入ったのだろう。


今日ゼミの集まりで2人が楽しそうに話していたのを見る限り、もう復縁したのだろうか。


周りの人間はそんな彼らを祝福するのだろうか。


ああ、とため息の混じった声が思わず漏れてしまった。


結局私はみんなにとって「いいひと」であるが、スポットライトを浴びる人間にはなれなかった。


世の中には様々な美談があるが、その多くは「いいひと」の存在があってこそ成り立っているのだろう。


しかも、そんな「いいひと」の優しい行いは評価されるとは限らないし、一歩間違えたら非難の対象になってしまう。


では、私は何故「いいひと」であろうとしたんだ?


私はその時、この世の心理に辿り着いた気がした。



「俺はただ…愛してほしかった…」



頭の中ではみんなからの「いいひとだ」という言葉がいつまでも響いていた。

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