第29話 犬之島へ

 弘が研究所から出ると、朝日の中、幸はバイクに跨り待っていた。

 「ツーリングには持って来いの天気だぞ」

 親指を突っ立てた弘は、ヘルメットのシールドを閉めると、既に開始させているナビ7のナビゲーション通りに、先頭に立ってバイクを走らせた。

 かなりの距離を走って、犬之島行きの港に近づいたとき、平日にも関わらず物々しい雰囲気に、幸たちは胸騒ぎがした。

 港から少し離れた駐車場には、機材を積んだ車や報道車などが多く止めてあり、交通整理までしている。そんな中を掻い潜るようにして、幸たちは小型トラックの陰にバイクを止め、ヘルメットを脱いだ。

 「弘。段取り役温羅者に、渡し船の手配を依頼して」

 「了解」

 すぐに取り掛かった弘を横目に、幸はリュックから飛び出た兎兎を連れ立って、ゆっくりと港へ向かった。

 駐車場から車道に出た後、路地に入ると、その小道から港まで、レスキュー隊や救急隊、取材陣、疲弊しきった者たちでごった返していた。

 停泊している渡し船付近では、応急処置をされる者や呆然とそこにへたり込んでいる者、興奮冷めやらない者が大勢いた。その者たちの多くは浴衣姿で、軽傷を負っている。

 幸はこの事態を推測すらできず、ただ目を見開いて眺めていた。

 「彼らは、犬之島から逃げてきた者たちだ。幸い死者は出なかったが、重症者はいたということだ」

 いつの間にかそばに来ていた弘が、記者から聞いた情報を、幸に耳打ちした。

 「ついさっき、犬之島に住んでいる民や観光客の全員避難が完了したということだ。犬之島にはもう誰もいない」

 「そう。で、何があったの?」

 幸は急かした。

 「犬之島で宿泊をしていた観光客が、まるでアトラクションでもしてきたという口振りで、記者に喋っているのを耳にした。それによると、机や椅子、自転車、コップ、玩具、筆記用具などのモノが、生き物になったように動きだし、暴れてヒトを襲ったということだ。そんで、その彼は、応戦して何個もやっつけたらしい。身振り手振りが大袈裟で、得意気だったぞ」

 弘は愉快そうにつけ足した。それを受けて幸も口元を緩めたが、真剣な表情になる。

 「この奇妙な事件も、未知の元素が関わっているといえるわね。でも、犬之島に加速器があるとしたら、今頃になって起こるはずは……」

 突如、幸は肩を叩かれ振り向いた。

 「大橋新聞の記者か?」

 無愛想に訊いてきたのは、日に焼けた浅黒い肌に深い皺が刻まれた白髪の翁だった。

 「そうです」

 幸に代って弘が返事をすると、無言で翁は東の方を指差して歩き出した。

 「段取り役温羅者の手配だ。犬之島まで乗せてくれる」

 弘が幸の耳元に囁いた。

 「兎兎」

 呼び掛けた幸は、兎兎がいないのに気づいた。雑踏を掻き分けるように目で捜していくと、兎兎が幼子に弄ばれていた。おもちゃのように、叩かれたり長い耳を引っ張られたりしている。だが、兎兎はじっと堪えて身を委ねていた。幼子を癒やしているのだ。

 迎えに行った幸は、幼子が怪我一つしていないのを見て取った。

 「兎兎」

 幸は焦燥の顔つきをして呼んだ。幼子から兎兎を返してもらうには、仕方ない遣り方だった。

 気づいた若いお母さんが、幼子から兎兎を引き離した。案の定、幼子は泣き出した。だが、お母さんは兎兎を抱きあげると幸に渡した。

 兎兎を抱きしめて頬ずった幸は、涙目になった。これは演技をしているのではなく、本当にそうなったのだ。それは、破れた浴衣の袖から覗くお母さんの両腕が傷まみれで、まだ生々しい血が出ていたからだ。それが意味するところは、お母さんが幼子を抱きかかえ、楯となり守り切ったということだ。

 幸は待っている弘と翁の元に駆けつけた。兎兎を地面におろすと、翁を先頭に、海岸沿いの防波堤の横を歩き、停泊している小型漁船に乗り込んだ。

 無口な翁が操縦する小型漁船は、犬之島ではなく他島に行くかのように、大きく迂回した。そんな凪を進む船内で、幸は甘い香りを嗅ぎ取り、左太ももを見た。バイテク蔓草から桃色の小花が咲いている。

 「情報役温羅者からだ。依頼していた言語に関する情報が届いている」

 弘は研究室にあるパソコン宛に届いたデータを、幸のバイテク蔓草に転送するようにプログラムしている。

 「やはり、かなりの量だな」

 弘が言うように、小花は咲き続け香りも発散し続けている。その間、小型漁船は進み続け、犬之島港には七分もあれば着くところだが、十九分もかけて、本州からは見えない位置にある港へ到着した。そこは島民専用の港で、見渡せば島民の家が建ち並んでいる。

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