第19話 上杉勝也 一歩ずつ
手術から二ヶ月は絶対安静であった。
そしてギプスを外して、状態を確認する。
治療自体は上手くいっていた。
だがそれは元のようになったのとイコールではない。
リハビリを続ければ普通に、日常生活に支障をきたさない程度には動くようになる。
だがピッチャーとして、エースとして、そして不世出の剛速球投手として、復活できるのか。
「それは分からないけど、無理をしてもダメというのは確かだね」
そう言われた上杉は、素直にリハビリを開始した。
ギプスは外したものの、今ではテーピングにガチガチに固めている。
力を入れすぎるのも厳禁で、運動と言うよりは動かす程度の段階から始まる。
500gの重さの物を、軽く動かす程度。
まだどんどんと筋力が落ちていくのが分かる。
それでも上杉はあせらない。
上杉は天才かもしれないが、努力を怠ったことはない。
人間というのはたいがい、どうしようもないクズ以外はある程度の努力をしている。
そしてその努力が報われることをこそ、才能と言うのだろう。
軽いゴムボールを投げる、5mのキャッチボール。
それを芝生の上で妻と行おうとする上杉は、ようやく0にまで戻ってきた。
「いやいやいや、奥様は安静にしておいてください!」
執事などというものではないが、上杉家に代々仕えている秘書、あるいは使用人の一族から、一人が付き添いとしてアメリカには来ている。
「お腹に三人目がいるんですから!」
「でもお医者様は軽い運動はした方がいいって」
「そりゃ散歩とかでしょう! 若殿とのキャッチボールは軽い運動じゃありません!」
「夫婦の交流を咎めるとは、無粋な家人だ」
「いやいやいや! 私間違ってませんよね!」
そして明日美からグラブを借りて、へろへろの下手投げでボールを投げる、運動部経験0の直江女史(28歳独身)である。
病院の中庭にあるベンチに座り、明日美はその様子を見ていた。
自然と腹部を抑えてしまうのは、胎内の我が子をいとおしむ母親の情か。
夫のためとはいえ、物心のつくかつかないかの上の二人を、夫の実家に預けたままなのは、心が痛む。
上の子は、そろそろ色々と分かってくる頃だ。
その子に、夫の素晴らしい姿を見せたいと思う。
何せ自分が恋したのは、最強のピッチャーなのだから。
野球選手の選手寿命は短い。
平均して28歳と言うが、一軍で活躍できる選手のみに絞れば、もう少し長くなる
それでも最盛期は30代の前半までで、まだ正しく価値の分からない間しか、父親の姿を見ることはない。
もちろんプレイ自体は、後からいくらでも映像で見ることが出来る。
だが同時代性ということを思えば、やはりリアルタイムで経験することが一番なのだ。
そして今日もリハビリを終える。
昨日よりも、1cmでも、投げる距離が長くなればいい。
そう思いながら投げる上杉だが、単純な球速自体は、もう元のようには戻らないだろうと思っていた。
マサチューセッツ総合病院はボストンにあり、このボストンにも伝統あるMLBの球団がある。
ボストン・デッドソックス。資金繰りも悪くなく、地区的にはニューヨーク・ラッキーズの最大のライバルで、この10年以内にも複数回のワールドチャンピオンになっている。
そんなチームがあるのだから、野球の人気はもちろん、それなりに高い。
だが今年のボストンの野球人気を熱狂させているのは、デッドソックスの活躍ではない。
上杉がテレビで見る試合。それはネット配信されたものだが、ニューヨーク同士のサブウェイシリーズの中継だ。
そう、ラッキーズとメトロズ。大介のいるチームの試合。
ここまで意識しまいとしてきたが、自然と耳に入ってくる。
それほどアメリカの野球への文化は根深いし、そして同じようなことは日本でもあったのだ。
上杉がプロ入りしたときは、彼自身が震源であった。
野球界のみならず、社会全体を動かすほどの個人のパワー。
上杉が自らの投手生命を賭けてまでも、戦った大介が、今はニューヨークにいる。
既にベッドはただの寝台であり、病室にトレーニング機器を持ち込んだりして、上杉はVIP待遇で毎日を治療しながらリハビリしている。
焦ってはいけないと思っても、さすがに上杉にとっても特別な相手だ。
同じピッチャー同士の投げあいなどをしても、直史などには感じない感覚。
むしろエース対決なら、真田や武史との方が、そういったライバル感覚を覚える。
だが、やはり大介は特別なのだ。
上杉の背中から、闘気が感じられる。
もちろん明日美も、それをどうこうしようとは思わない。
上杉のこの気迫は肉体に満ち、またあの限界知らずのピッチングを見せてくれるだろう。
リハビリではもう、普通に投げるだけならば投げられるようになっている。
ただ球速はまだ140km/h程度。
それでも立派なものなのだが、上杉という超人にはまだ足りない。
画面を睨む上杉は、歯を食いしばっている。
決して大介を恨んでなどはいない。むしろ大介のことを、己にとっての好敵手、友とさえ思っている。
だからこそ、もう一度戦いたい。
画面の中で、大介はこの試合二本目のホームランを打つ。
42号ホームラン。
この時期にこのホームラン数というのは、まさに頭がおかしい。
上杉は笑みを浮かべていた。
ひどく攻撃的な、それでいて雄雄しくたくましい笑みを。
「ワシは、もう一度、あいつと対戦するぞ」
上杉はそう告げて、明日美に微笑む。
明日美もそれに微笑を返し――。
「ん?」
「ん? どうした?」
「ん~……産まれる」
座っていた椅子が、破水した体液で濡れていく。
「メディック! メディーック!」
上杉は珍しく焦ったが、ここは病院なのである。
そしてこの日上杉家に、待望の女の子が……産まれるのは12時を過ぎた翌日になってからのことであった。
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