第10話 優勝へのピース
一回の攻撃が終わった直後、ベンチの雰囲気は最悪だった。ノーアウト満塁という大チャンスを潰したからもあるが、なにより、成沢という天才の実力を垣間見てしまったからだった。
そんな中、ただ一人、能美だけは違った。
(やっぱりすごいや。成沢君は)
相変わらず目を輝かせて、向こうのベンチに座っている成沢を見つめる。その瞳には羨望と敬意の念が込められていた。
「まだ一回だ。落ち込むのは早いぞ。この回を守れば、いくらでもチャンスはある」
古家が選手たちに活を入れる。重い腰が持ち上げられたのを見ると、能美に向かって声をかける。
「しっかり投げてこい」
能美は小さくうなずいた。
成沢の残した余韻がまだ収まらない中、能美がマウンドに立った。新倉が歩み寄り、ミットを口にあてて話しかける。
「とりあえず、いつものように低めに投げろ。高めは確実にもっていかれるからな。まぁ、お前に限ってコントロールミスはないとは思うが」
能美は黙って、ただ小さく首を縦に振るだけだった。いつもよりさらに口数の少ない能美を不審に思いながらも、新倉は守備位置についた。
タイタンズの一番打者、村上が左打席に入ったのを確認した主審が、プレイの合図をかける。プロ三年目の村上は若手注目株の選手だ。去年は主に代走出場が多かったが、今年はレギュラーはほぼ確実とまで言われている。
(とりあえず、初球は様子見だな)
村上に対し、新倉の要求したコースは低めのストレート。
まずはカウントを取るつもりだった。しかし、能美の投げたボールは新倉の構えたコースではなく、大きく高めにはずれた。かろうじてミットに収まったボールを、新倉がいぶかしげな表情で見つめる。
(ちっ、いきなりどうしたってんだ)
二球目。新倉はもう一度同じコースにミットを構える。しかし、またも新倉の意思に反して、真ん中に甘く入ったボールはセンター前にはじき返された。
「タイム!」
新倉はタイムを取りマウンドに駆け寄ると、ミット越しに小声で怒鳴る。
「おい! いったいどうしちまったんだ!」
「す、すいません……」
能美は小さな体をさらに縮こまらせて頭を下げた。
「とにかく、構えたところに投げろ。お前からコントロールをとったらなにも残らねぇからな。あと、一塁ランナーの足も警戒しとけ」
舌打ちを残して新倉は戻っていく。しかし、今の能美にはその舌打ちさえ耳に届いていなかった。聞こえてくるのは、三六〇度、能美を取り囲むように襲ってくる津波のような観客の声。音の波が、とてつもない閉塞感を能美に与える。足は小刻みに震え、左腕は思うように振れない。早い呼吸が断続的に口から漏れる。
集中力を欠いた能美は気がつかなかった。一塁ランナーの村上が大きなリードを取っていることを。
(おい、ランナー刺せるぞ!)
新倉のけん制球のサインにも気づかず、能美は足を上げる。新倉が二塁に送球するが、村上は悠々と盗塁を決めた。新倉が能美をにらむ。しかし、能美は呆然と二塁を見ているだけだった。
この後も、いつもの抜群のコントロールが影も形もなくなった能美は、二番、三番に連続四球を与えてしまう。四球自体はキャンプ中の練習試合でもでることはあったが、それはギリギリのコースをついた結果の四球だった。だが、この二つの四球は明らかにそれまでのものとは異質だ。ワンバウンドしたり、すっぽ抜けたりと完全なボール球であった。
「四番、センター、松木、背番号、五四」
ノーアウト満塁。先ほどのタイタンズとまったく同じ場面に登場したのは、去年の二軍の本塁打王、松木。豪快な素振りを横目で見た新倉が、内野手をマウンドに集める。
「おい、いったいいつになったら俺の要求通りに投げるんだ」
「まあまあ、新倉さんもそんな怖い顔しないで」
怒りと不満を露にしている新倉を、駒井がなだめる。新倉は能美の顔から視線を外さず、小声だが、語気を強めて言う。
「次は長打力のある松木だ。今のお前のコントロールじゃ、一、二点は覚悟しとけ」
「すいません……」
「次、ストライクが入らないようなら、監督にお前を降ろすように直訴するからな」
そう捨て台詞を残して、新倉は内野を解散させる。しかし、その中で三塁手の村野だけがその場を離れず、能美に声をかけた。
「だれもお前のことなんか見てないって」
「え……」
「今、観客が注目してんのは成沢一人だ。お前が緊張したり、気負ったりしても仕方ないだろ。今は自分のピッチングに集中しろ」
村野は左手のグローブを能美の頭に置く。帽子のつばで半分隠れた能美の視界の向こうには、村野の笑顔が見えた。
「悔いは残したくないんだろ?」
そう言って、村野は三塁ベースに戻っていく。その姿を見ていると、能美の体からすっと力が抜けていく気がした。
――そうだ。村野さんの言うとおり、なに一人で舞い上がっていたんだろう。成沢君の凄いピッチングを見せられて、そして同じマウンドに立てるのが嬉しくて……自分でも知らないうちに体に余計な力が入っていた。
津波のような観客の声はウソのようにピタリと止み、代わりに凪が辺りを包む。ぼやけていた新倉のミットの輪郭がはっきりと目に映った。
能美らしい、きれいなフォームから放たれたボールは、新倉の構えたコースに寸分違わず収まった。
「ストライク!」
今日初めて投げた能美本来のボール。あっという間に松木をツーストライクに追い込んだ。
(なんだ、やりゃあできるじゃねえか)
新倉が安心したように能美を見やる。一球外した後、ミットを外角低めに構える。
(松木は去年、アウトローの打率が二割一分だった。内野ゴロでゲッツー狙い)
新倉の指示通りのコースへ能美の投げたボールが走る。
(よし! 最高のアウトローだ)
しかし、ボールは乾いた音を立てて右翼手の柳の頭を超えていった。
走者一掃のタイムリーツーベース。三点を失い、なおもノーアウト二塁。
「能美! しっかり投げろ!」
新倉の怒声が響く。直後、能美の耳にまた雑音が混じり始める。コントロールが乱れ、二つの四球。この回、二度目のノーアウト満塁のピンチを迎えてしまった。
「監督、もう能美は交代させるべきです!」
ベンチの中では清和が古家に能美の交代を訴えかける。古家は数秒黙り込んだ後、ゆっくりと一歩をグラウンドに進める。
「待ってください、監督」
それを止めたのは今日、自らベンチ入りを志願した東城だった。
「能美は、まだ交代させちゃいけない」
「なに言ってんだ東城! 能美を潰す気か!?」
「あいつはまだ誰とも勝負しちゃいない!」
ベンチに響く東城の大声。いつも冷静な東城からは想像もできない姿だった。
「このまま一つのアウトも取らずに降板したって、あいつに得なことはなに一つない。それどころか、次回の登板からも、自分のボールに疑念を持ったままマウンドに立つことになる。それじゃ結果はなにも変わらないんです。ここは、どんな形であれ、一つでいいからアウトを取らなくちゃいけないんです」
「東城、お前どうしてそこまで」
「清和さん、俺はブルペンであいつの投球を見たとき、身震いがしたんです。あいつは成沢にも負けない才能を秘めている。今のあいつに欠けているのは、打者への闘志、気迫――勝負に対する強い精神力なんです。それがあいつに備われば、見ることができるかもしれない。俺たちシャインズがリーグ優勝した姿を」
ベンチメンバー全員が、マウンド上で内野陣に囲まれた小柄な能美に視線を向ける。誰もが、優勝の二文字を能美とダブらせて見ていた。
「じゃあ、どうしろっていうんだ? このままだと、あいつは自滅するぞ」
「代えないといけないのは、むしろキャッチャーのほうです」
「新倉をか?」
東城はうなずく。
「松木に打たれた四球目、あれは明らかにアウトローを狙われていた。その証拠に、一、二球目の得意なインコースにはまったく反応していなかったのに、三球目の外に外したボール球に体がわずかに反応を示した」
「だから打たれたのか」
清和の呟きに、今度は東城が首を横に振った。
「いえ、能美のコントロールなら、あのコースはカットするのが関の山でしょう。去年までの松木なら、ね」
「去年まで、ってことは、今の松木はアウトローを苦にしてないってことか?」
「ええ。今日の打撃練習を見ていても、松木は外の球をライト方向に強く打ち返していました。そういった、打者の小さな変化に気がつかないといけないのが、キャッチャーの条件。データはあくまで、その下地でしかないんです。それなのに新倉のリードはデータに頼り過ぎている。しかも、その責任を能美に押し付け、結果、能美は枷をはめられた投球を強いられることになった」
能美と新倉、このバッテリーの相性は、例えるなら水と油。能美の持ち味を生かせない限り、東城の言う通り新倉を交代させなくてはいけない。しかし、運の悪いことに、控えキャッチャーの村田は試合直前に突き指をしてしまって、ベンチに入っていなかった。
ベンチが必死に策を考える中、古家が主審のもとへ歩き出した。
「監督、もうキャッチャーは――」
「大丈夫ですよ、清和さん。監督はわかってるはずです。誰が能美のキャッチャーに一番適しているかが」
ベンチから身を乗り出す清和を東城が手で制止させる。古家が主審との会話を済ませ、ベンチに引き返すと、すぐにアナウンスが聞こえてきた。
「シャインズ、守備位置の交代をお知らせします。キャッチャーの新倉がサードに、サードの村野がキャッチャーに――」
両軍のベンチ、そしてフィールドのシャインズナインが驚いたように古家を見る。東城は予想通りと言わんばかりの表情で笑っていた。
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