第9話 王者の風格
二月二八日。今日から約一ヶ月間にわたり、春季非公式戦、いわゆるオープン戦が開幕する。オープン戦はレギュラーシーズン開幕に向けての最後の調整の場だ。各球団が二〇試合前後を戦い、今年の戦力状況を見定める。序盤は若手中心でメンバーが組まれるため、二軍選手にとっては、いかにそこでアピールできるかが問われる、大切な試合である。
シャインズのオープン戦初戦の相手は、三年連続日本一の常勝球団、タイタンズ。古家は球場に到着すると、すぐにベンチ入りメンバー二五人をミーティングルームに集めた。
「今日からオープン戦が開幕する。キャンプで蓄えた力を存分に使ってくれ」
古家の話に真剣に耳を傾ける、能美を初めとした二軍選手たち。一方、その後方の机に座っている一軍選手の一部は、心ここにあらず、といった感じだった。眠そうに目をこする人間、あくびをかみ殺している人間、二日酔いで頭を抱えている人間――適当にやっていれば、自分は一軍に残れると思っている選手ばかりだった。
古家はそんな選手たちを一瞥して、心の中で小さくため息をつくと、話を続ける。
「今日のタイタンズの先発投手だが、去年の新人王、右の市丸(いちまる)だ。決め球の高速スライダーは厄介だが、直球は甘いコースにくることが多々ある。追い込まれる前に仕掛けていけ」
全員が返事をしたことを確認すると、古家はメンバー表をポケットから取り出した。
「では、これから今日のオープン戦の先発メンバーを発表する。まず、先発投手は能美だ」
「は、はい!」
能美は緊張した面持ちで返事をする。能美の先発は、前日に古家が能美に直接告げていた。
次いで古家は、野手陣のメンバー発表を行っていく。
「一番センター、伊田。二番セカンド、駒井。三番サード、村野――」
古家の口から次々とメンバーが発表されていく。それは、二軍のレギュラーメンバーがそっくりそのまま入った打順であった。最後に、九番ショートの田中が告げられると、古家は前に向き直る。
「活躍、期待しているからな」
古家は最後にそう言い残すと、選手たちを解散させた。
◆
「おいおい、どうなってるんだ」
三塁側ベンチの前でストレッチをしていた柳が、驚いたように視線を上げる。その声に反応したのは村野だった。
「どうした、柳」
「あ、村野さん。見てくださいよ観客席」
村野は柳と同じ方向に視線を投げる。そこにはファンがすでに球場を埋め尽くしている光景が、村野の視界いっぱいに広がっていた。
「まだ試合も始まってないのに、ここまで観客が集まるのは異常でしょ?」
柳の言うとおり、いくら人気球団のタイタンズとはいえ、オープン戦初日、そのうえ平日の昼間に球場のほとんどを埋め尽くしてしまうほどの観客が入るのは稀なことだ。しかも大都市の球場ではなく、地方球場ということも考えると、この数は異常事態としか言いようがなかった。
驚きで目を丸くしている柳をよそに、村野には思い当たる節があった。右から左にゆっくりと首を動かしながら、グラウンドを凝視する。左翼線に視界が移ったところで、村野は柳の肩を叩いた。
「たぶん、原因はアレだな」
村野があごで示した場所に視線を移した柳は、一瞬の間の後、納得したように『あー』とうなずいた。視界の中央に捉えたのは、外野でキャッチボールをしている大物ルーキー、成沢涼の姿だった。
夏の甲子園決勝での完全試合、ドラフト史上初の全球団一位指名と話題に事欠かない怪物は、その端正なルックスも相まって、野球ファンならずとも一度は球場で生の姿を見たいと思わせるのだろう。心なしか、若い女性の姿が多い気もする。
「理由はそれだけじゃないぞ」
二人の話に割り込んだのは、メンバー表の交換を済ませて戻ってきた古家だった。まるで二人の考えを見透かしたように続ける。
「成沢の情報は入団して以来、外に漏れることはほとんどなかった。ブルペンでの状況から紅白戦にいたるまで、球団側が完璧にガードしていたからな。おかげでマスコミも、他球団の首脳陣もお手上げだったんだ」
古家の話を聞き、そういえばテレビやスポーツ紙でも、あれだけ世間を騒がせた成沢の名前を見たことがほとんどなかったのを思い出す。その反動が、今日のオープン戦に表れたのだろう。オープン戦なら、制約を受けずに成沢を見ることができるからだ。
勝負の世界では、情報を外部に漏らして得なことはなに一つない。だが、情報にあふれた昨今では、それを守ることも難しいのが現実だ。恐るべきは、球団側がそんな困難な行動を起こしてでも守りたかった、成沢の実力か。
「もしかして、今日の先発は成沢とか?」
柳が村野に尋ねる。村野の代わりに、古家がメンバー表をポケットから取り出して答える。
「いや、先発は予想通り市丸だった。攻め方は、今日のミーティングの通りだ」
ふと、古家は先ほどのメンバー表交換の場面を思い出す。ユニフォームに身を包んだタイタンズの監督氷室が、いつも通りの穏やかな口調で『お手柔らかに、お願いします』という恒例の挨拶をした後、氷室の現役時代と同じ背番号一八が、少しずつ小さくなっていく場面だった。
◆
試合開始五分前、超満員でざわめく球場の中、ウグイス嬢の透き通った声が球場全体を包んでいく。
「大変長らくお待たせ致しました。ただいまより、両チームのスターティングメンバーを発表致します……」
選手一人ひとりの名前に、盛り上がるファン。ひときわ拍手を受けたのは、タイタンズの先発、市丸だった。最初は先発が成沢ではないことに、ファンは落胆の色を見せていたが、それでも昨年の新人王の登板はファンの心をつかむのには十分だった。
「プレイボール!!」
午後一時ちょうど、主審の合図とともにシャインズ対タイタンズのオープン戦初戦が始まった。
先攻、シャインズの一番打者は伊田。その一球目、キャンプで行った打撃練習の成果がいきなり表れる。苦手な内角にきた直球を、うまくひじをたたんでライト前にはじき返した。これでノーアウト一塁。
次の打者、駒井が右打席に入る。バントが得意な駒井だが、古家は『打て』と指示をだした。
いきなり初球を打たれ、リズムに乗り損ねた市丸。駒井に投げた初球は真ん中よりの甘いコースに入ってくる。乾いた音を立てて、打球は二塁ベース上を抜けていった。
市丸はわずか二球でノーアウト一二塁のピンチ。これでリズムを完全に崩した市丸の悪い流れは止まらない。続く三番、村野への必要以上の警戒がたたり、四球を与えてしまう。これでいきなりノーアウト満塁になった。
「四番、指名打者、清和、背番号、三〇」
この大チャンスで、打席には主砲の清和、一軍昇格への想いは二軍選手の中でも最も強い。この場面、なんとかものにしたいはずだ。
「タイム」
突然のタイムのコールに、シャインズベンチからどよめきが起きる。向こうのベンチから、氷室がゆっくりと主審に向かって足を進める。
二言、三言、主審と言葉を交わした後、氷室は同じ歩みでベンチに帰っていった。
(いったい、なんだったんだ?)
四球で出塁した一塁ランナーの村野が氷室の横顔に視線を向ける。その刹那、悪寒のような寒気がゾッと背筋をはう。氷室の顔には冷ややかな笑顔が貼りついていた。
「タイタンズ、ピッチャーの交代をお知らせいたします……」
シャインズベンチ、さらに観客席から起こる驚きの声。いくらノーアウト満塁だからといって、まさか先発投手をこの場面で降ろすなんて、誰も予想していないことだった。みなが聞き耳を立てて、アナウンスの声を待つ。
「ピッチャー、市丸に代わりまして、成沢、背番号、一」
水を打ったように、球場全体が静まり返る。その数秒後、今度は地鳴りのような大歓声と拍手が球場の上空を支配した。群集は我先にとフェンスに駆け寄り、用意されたテレビカメラすべてがグラウンドの一点を捉える。野太い男の声援よりも、若い女性の黄色い歓声が目立って聞こえる。それはちょうど、ハリウッドスターが空港へ到着したときの様子に似ていた。
「成沢君だ……」
能美はベンチの中からマウンドに立った成沢の姿を見つめる。その瞳は、元同級生に向けられるものではなく、一人の野球選手を見るように輝いていた。
投球練習を終えた成沢を見て、清和が打席に入りなおす。通常なら、ここは様子見のために初球は待ちだろう。相手バッテリーもそれを読んで、ストライクを取りにくるはずだ。しかし、清和はその初球を狙っていた。
(初球、ストレートならフルスイングだ)
成沢の少ない情報を、頭の中の引き出しから探り出す。一番最近の記憶は、去年の夏の甲子園大会。成沢のストレートの最高時速は一五二キロだった。まだ調整の進んでいないオープン戦の初戦なら、ストレートは一四〇キロ前半くらいか。
成沢が右手に持ったロージンバッグを地面に落とす。白煙越しに見えた成沢の顔は笑っていた。このピンチを抑えてみせるという、絶対的な自信がその表情から読み取れる。
清和は一瞬、成沢が持つ独特の威圧感に飲み込まれそうになる。プロ生活一八年の大ベテランさえ圧倒するその風格。そういう意味でも、成沢は正真正銘の『怪物』であった。
球場中が成沢の第一球に注目する中、サイン交換を済ませた成沢は息を一つ吐き出すと、なんと大きく振りかぶった。
(ワインドアップ?)
満塁のこの場面で、セットポジションではなく投球モーションの大きなワインドアップ。リスクよりも投げやすさをバッテリーは選択したのだろう。
頭上に振り上げられた両手が、ゆっくりと三塁方向に始動する。そのフォームに合わせて、清和も体重を後方に移動させた。
(来い!)
狙いはストレート一本。その清和の狙いは見事にはまった。一球見てくることを予想した、真ん中低めのカウントを取りに来たストレート。清和はバットを振り切った。
しかし、清和のバットは空を切り、代わりにドスッという重い音が後方から聞こえてきた。
「ストライク!」
主審のコールが高らかに響きわたる。同時に、観客、選手までも巻き込んだどよめきと歓声が、バックスクリーンに向けられた。
――153km――
バックスクリーンの電光掲示板に、白字で表示された数字。清和は呆然とその数字を見つめていた。まだ初戦だというのに、調整登板どころか、自分の最高球速を更新してきた。これが怪物、成沢涼か。
目の前で、天才を片鱗をまざまざと見せ付けられた清和は、すっかり最初の勢いを失っていた。成沢の投げたたった一球は、清和の気力さえ奪っていったのだ。もはや、清和はバットを持った人形。
そんな清和を打ち取るのは成沢にとって造作もないことだ。遊び球なし、三球オールストレートで、清和を三振に打ち取った。この三振で、シャインズに傾きかけていた試合の流れはタイタンズに――いや、成沢に引き戻された。続く五番・柳、六番・新倉からも三振を奪う。これで三者連続三振。しかも全球ストレートという剛腕を見せつけ、熱気と歓声が渦巻く中、悠々とベンチに引き返した。
シャインズベンチの脱力した表情と、成沢の背中を見比べた古家。氷室の言葉が記憶の底からゆっくりとよみがえる。
――お手柔らかに、お願いします――
いきなりお手柔らかではない作戦に打って出たのは、氷室のほうであった。古家の視界は、ベンチの端で寒々とした笑顔を顔にたたえている、氷室を捉えていた。
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