第8話 氷のエース

二月二一日。三週間にわたったシャインズ二軍の春季キャンプも、今日で打ち上げられようとしていた。最終日はあいにくの雨。選手たちは最後の練習を屋内で行った後、足利の号令で練習場の中央に集まった。


「え〜、今回はケガ人もでず、みんなが集中して取り組んだおかげで、例年以上に充実したキャンプができた思う」


半円状に整列した選手たちの前で、足利がゆっくりと話し始める。


「練習試合でも、なかなかの好成績やったしな」


足利の考案した、能美をバッティングピッチャーにしたフリーバッティングの効果は練習試合を通じ、徐々に形になってきていた。最初こそ、その効果は現れなかったものの、持続的に練習を続けるうちに、打撃力は目にわかるほど向上した。それを物語ったのが、三振の減少である。特に三振三羽烏の柳、清和、伊田は今まで空振りしていたコースをカットする技術が身に付いていた。さらに、一球一球を大切にすることで、各選手のバッティングに対する姿勢にも変化が見られ、柔軟にボールに対応できるようにもなったのだった。


「野手陣ももちろんやが、投手陣もよかったで。今回の練習を見とると、こっから何人か開幕一軍もあるかもしれんな」


投手陣の中でも、新人の能美と梅河は好調であった。能美はその抜群のコントロールを武器に、練習試合では内野ゴロを打たせるピッチングが目立った。どんなに球威がなくても、低めに制球されたボールを打つのは難しい。梅河も、直球を主体に、大きく曲がるスライダーで三振を奪ったり、シュートで詰まらせてゴロを打たせたりと、非常に器用なピッチングを見せ、開幕一軍に猛アピールをしていた。


「ほな、最後は恒例の一本締めで終わろか」


足利が両手を前に出す。それに釣られるように、選手やコーチも両手を構えた。


「今年も選手諸君の活躍を祈って……ヨォ〜」


『パン!』という破裂音が一斉に室内練習場に木霊した。これでキャンプも完全に終了。後は休養を挟んで二八日からのオープン戦が待っている。


「あー、レギュラーの野手八人、それと唐木と能美と梅河、ちょっと残っとけ」


ホテルに戻ろうとした選手たちを足利が呼び止める。呼ばれた選手全員が集まったところで、足利の細い目がもっと細くなった。


「お前らはさっそく明日から一軍のキャンプに合流してもらうで」


「こんな大人数、大丈夫なんですか?」


伊田が尋ねる。


「一軍(うえ)からのお呼びや。イキのいい選手をよこしてくれってな。入れ替え試合はあるゆうたけど、けちなことは言わん。この機会をしっかりものにせぇ」


そう言うと足利は、はげた頭をなでながら練習場から出て行った。


     ◆


二日後、二軍選手十一人が一軍のキャンプ地、宮崎の球場に到着した。到着してすぐに、投手コーチの指示を受け、能美と梅河の二人はブルペンへ向かった。

四人が同時に投げられるブルペンでは、ちょうど奥の二つが空いていた。能美は一番奥のマウンドへ小走りで向かう。


「おい新人、そこは東城さん専用だぞ」


能美がマウンドへ足を踏み入れようとすると、シャインズ先発投手の一人、森口(もりぐち)が二つ横のマウンドから声をかけた。


「え、でも、コーチが……」


「でもじゃねぇよ。新人は他のところが空くまで我慢してろ!」


そう怒鳴って、森口は投球を再開した。その横では梅河が淡々と投球を開始している。能美は誰もいないまっさらなマウンドを、ぼーっと見つめることしかできないでいた。


「どうした、投げないのか?」


急に能美の背後から聞こえた声。能美が驚いて振り返ると、シャインズのエース、東城光(とうじょうひかる)が腕組みをしながら能美を見下ろしていた。


(本物の東城さんだ……)


能美はさらに呆然とした表情をしたまま、東城の顔を見る。

東城は弱小球団のシャインズにおいて、五年連続で二桁勝利をマークしているエースであり、チームの顔である。それだけでなく、勝利数、防御率、勝率といった投手の各成績でも、毎年上位に名前が出てくる球界を代表する選手の一人でもあった。そんな選手が自分の目の前にいると思うと、能美は言葉が出てこなかった。


「東城さん専用のマウンドで投げようとしてたから、俺が止めたんですよ」


能美を現実に引き戻したのは森口の声だった。森口は得意そうに笑っている。その姿はまるで、殿様に敵を討ち取ったことを誇らしげに報告している足軽兵のようだ。


「そんなこと、俺は一言も言った覚えはないが? 勝手な勘違いで、あまり新人を困らせるな、森口」


そんな足軽兵、森口を殿様、東城が一蹴する。森口は肩をすくめ、小さく『すいません』と謝った。


「すまなかったな。えっと……」


「能美です! 能美心です!」


「そうか。能美、迷惑かけたな。お詫びといってはなんだが、お前の投球を見てやる。ついでに、そこのやつもな」


そう言って、東城は梅河を示す。梅河は帽子のつばに手をやって、軽く会釈した。

能美がキャッチャーとキャッチボールをしている間、東城は梅河を品定めするように見ていた。ボールがミットに収まるたびに、東城が『ほぅ』や『へぇ』と感心するように呟いている。それに応じるように、梅河の投球にも熱が入る。普段あまり感情を表に出さない梅河も、球界を代表する選手に見てもらっているという、緊張や興奮が投球に表れているのだろう。


「なかなかいいじゃないか。変化球もキレてるし、直球のコントロールも悪くない。ただ、セットポジションのときに、左肩の開きが若干早くなっている。そこを意識して投げたらいい」


「……ありがとうございます」


梅河は表情を変えなかったが、能美にはその顔がどこか嬉しげに見えた。


「よし! じゃあ、次は能美だ」


「よ、よろしくお願いします!」


梅河とは違い、能美は体全体を使って大きく一礼する。高鳴る胸を抑えてマウンドに立つと、第一球を投じた。


「あっ!」


能美が小さく声を上げる。能美の投げたボールは、バッターボックスのはるか手前でワンバウンドしてキャッチャーのミットに収まった。

能美を一瞬襲う、時間が止まったような感覚。それが去ったあとには恥ずかしさしか残らなかった。


「ははは! まぁ、緊張するのは仕方ない。ほら、深呼吸、深呼吸」


東城が能美の背中を軽く叩く。能美はそれに後押しされるように、目を閉じて数回、深い呼吸を重ねる。緊張で固まっていた筋肉が弛緩していく感じがした。


「どうだ、もう大丈夫か?」


「はい!」


能美は再びキャッチャーのミットを見つめ、右足を上げる。仕切りなおしの二球目は、糸でも通したかのように、ミットに吸い込まれた。

それからしばらく能美の投球を見ている東城は、梅河のときとは違い、黙ってその姿を見つめていた。ときどき何かを考えるようにあごに手をやったり、目を細めてミットを凝視していたりする姿も見られたが、能美が投げている間はほとんど無言であった。


「よし、いいぞ」


四〇球ほど見たところで、東城が能美に声をかけた。能美はおずおずと『どうでしたか?』と尋ねる。それに対して、東城は深い息を一つ吐いてから答える。


「正直に言って、俺はここまでコントロールのいい選手を今まで見たことがない。確かに球速はないが、それを補って余りあるほどのコントロールだ。これなら、そこらへんのバッターなら簡単には打てないだろう」


東城の口から出た言葉に、能美は心の底から震え始める。こんな大選手が自分のことを認めてくれているということに、能美の体はじわじわと熱を持ち始めていた。

そんな能美の瞳を、東城がまっすぐ見つめながら話を続ける。


「だがな、お前には欠けているものがある」


「やっぱり、球速ですか……?」


能美の答えに、東城は首を横に振る。


「確かに球速も大事だ。しかし、俺が言っているのはそれ以前の問題。お前が、真にピッチャーであるための、大切な条件だよ」


そう言って東城は、森口がブルペンを抜けたのを確認すると、そこへ向かってキャッチボールを始めた。残された能美は、東城の言葉を頭の中で反芻したまま、またマウンドに立つのだった。


     ◆


ブルペンでの投球を終えた能美は、先に終えた梅河の後ろを追うようにブルペンを後にする。その扉の手前で、能美は東城にお礼を言い忘れたことを思い出し、振り返った。

しかし、そこで能美は言葉を詰まらせてしまった。投球をしている東城の姿を目の当たりにしてしまったからだ。

先ほどまでの柔らかい表情とは一転して、相手を刺すような冷ややかな目つき。近づけば、氷の刃で身を切られてしまいそうな、そんな冷たく、鋭利な威圧感。

能美は軽く頭を下げて、ブルペンを後にした。


「東城さん、さっきあの新人に言ってた欠けてるものって、なんですか?」


東城のボールを受けていたキャッチャーの伊藤が、投球を終えた東城に尋ねた。東城は視線を宙に泳がせる。


「次のオープン戦……」


「は?」


「次のオープン戦は、あいつの投手としての――いや、プロ野球選手としての分岐点だろうな」


まったく的外れな東城の答えに、伊藤は困惑の表情をつくる。東城はそれを見ると、一握りの笑顔を残して、ブルペンを出ていった。

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