第7話 始動

翌朝、二軍のレギュラー野手八人に、ルーキーの唐木を入れた九人が、三グループに分けられ、フリーバッティングが行われようとしていた。この練習では、『打席に立てるのは一日に二グループまで』『一人に対して投げられるのは二〇球前後』というルールを作った。これは能美の連投する疲労のことを考慮したためだけではなく、限られた球数が一球に対する意識を上げ、集中して苦手なコースを克服するため、という足利の意図もあった。


「じゃあ、まずは外角中心に投げてくれ」


右打席に入ったが清和が、マウンドの能美に向かって注文する。風に乗って消えてしまいそうな、能美の『はい』という小さな返事が、かろうじて清和の耳に届いた。

能美の投げた球は要求通り、外角に吸い込まれていく。五球程度見たところで、バッティングケージの後ろで見ていた次の打者、柳が感嘆したように口笛を吹いた。


「やるなー、全球清和さんの要求通りのコースだ」


横で素振りをしていた伊田も釣られるように口を開く。


「キャッチャーのミットがまったく動いてない。すっげえコントロール」


シャインズの三振三羽烏、清和、柳、伊田のAグループは足利から特にこのフリーバッティングをしておくように言われていた。もともとパワーのある清和と柳、俊足の伊田がボールに当てる技術をつければ、課題の得点力は飛躍的に向上するとにらんだのだ。そのため、この三選手には通常の倍近い打撃メニューが組み込まれていた。

乾いた音と一緒に、清和が最後に打った球が外野フェンスを越えていく。その軌跡を目で追いながら清和がケージから出てきた。


「まあまあだったな」


「まだまだの間違いやないか?」


いつの間にか柳と伊田の背後に立っていた足利が、軽快な笑いとともに得意の毒をはく。


「今はまだ能美が同じようなところに投げてくれて、それにヤマを張ってるから打てるんや。慣れてきたら、今度は直球をストライクゾーンにちりばめる。最終的に変化球も交ぜて打ってもらうで。それを打って初めて、『まあまあ』や」


そう言うと、足利はまた笑いながらベンチの奥に消えていった。


「ほんっと、食えねぇ監督だね〜……」


「まぁ、監督の言うことも一理あるだろ。よっしゃ! 能美、次は俺だ!」


豪快な叫び声とともに柳が打席に立つ。その後、叫び声と風切り音が何度もグラウンドに響き渡った。


次にやってきたのは新倉、峰、村野のBグループだ。まずは新倉が右打席に入った。


「低めぎりぎりに投げろ」


能美の球を実際に受けた選手だからこそできる要求だった。言われたとおり、能美は二〇球すべてを低めに投げた。それを淡々と新倉は打ち返す。柵越えが二本、安打性のあたりが五本という結果だった。


「俺、こんなにコントロールのいい選手見たことないですよ、村野さん」


峰が素振りの手を止めて村野に言う。しかし、村野は視線も動かさずに『そうだな』とだけ答えた。

新倉が打席を外したのを見て、今度は峰が左打席に入る。峰は『左打者は左投手が苦手』という球界の格言のようなものを完全に無視している打者だ。去年の左投手に対する打率は、実に三割五分三厘。敵の先発が左の場合、上位打線を任せられることもある。しかし、右投手にめっぽう弱く、打率は二割一分八厘というありさまだった。

昨日の試合で、能美から三振したものの、本来は得意とする左投手だ。しかも球種とコースが決まっているため、峰のバットからは立て続けに快音が聞こえた。柵越えはなかったが、半分以上がヒットコースへと飛んでいた。


「絶好調だな」


「いやー、まだまだですよ」


村野は戻ってきた峰の肩をポンポンと叩く。峰は照れくさそうに笑った。

今日最後の打者、村野が軽く素振りをしてから右打席に入る。そして、注文を待っている能美に向かって、


「この早い時期に、お前もあんまり無理しないほうがいいよな。俺は一〇球くらいでいいから、好きなところに投げろ」


「え、いいんですか……?」


「俺は全部苦手なんだよ」


そう言って、苦笑いしながら村野はバットを構える。実際のところ、無理をしたくないのは村野のほうだった。

能美は外角、内角と交互に投球する。それに村野も気づいていたが、気持ちが入っていないせいか、いい当たりがでないまま、とうとう最後の球が投げられた。

内角低めのストレートにバットを合わせる。しかし、少しタイミングが早かったせいか打球は前に飛ばず、村野の左足に当たった。


「っ……!」


「村野さん!?」


慌ててマウンドの能美が村野の元に駆け寄り、まるで壊れたラジカセみたいに『すいません!』と連呼し、頭を下げた。それはもう一生分謝るのではないかと思うくらいに。

能美に責任はないが、こう何度も謝られると、こちらが申し訳ない気分になってくる。


「気にするな。こんなことよくあることだ。それに打球もそんなに速くなかったし、骨には当たってないから、たいしたことない」


村野は峰から受け取ったコールドスプレーを左足に吹きかけながら、心配そうに見つめる能美の頭に手を乗せた。


「いい球だった」


村野に褒められた能美の口から出てきたのは、感謝の言葉ではなく、やっぱり『すいません』という謝罪だった。


     ◆


昼食を終えた村野は、球場の外でタバコを吸っていた。こうやって、静かな場所で誰にも邪魔されずに一服できるこの一時が、自分が厳しいプロ野球の世界に身を置いていることを忘れさせてくれる。

吐き出した紫煙越しに流れていく雲と同じように、ゆったりとした時間が村野の周りに流れていた。


(ピリリリ……)


その静寂を裂くように、ポケットの中の携帯電話が鳴りだす。液晶画面に映された名前を見て、村野の顔が少し緩んだ。


「もしもし? 優子か?」


『あなた? 体調は大丈夫?』


「俺は大丈夫だ。そっちはどうだ? 正樹と純也は?』


『二人とも元気すぎて困っちゃうくらいよ。あ、正樹に代わろうか?』


「ああ」


電話の向こうから、ドタドタとあわただしい足音が聞こえてくる。すぐに、正樹の元気な声が聞こえてきた。


『もしもし? パパ? お仕事がんばってね。僕も大きくなったら、パパみたいな野球選手になるから』


「そうか。ありがとうな、パパ、がんばるから。正樹もママに迷惑かけちゃだめだぞ」


『うん!』


正樹の返事に、村野の顔がほころぶ。次の瞬間には、電話の主は優子に戻っていた。


『正樹ったら、帰ってくるといつも外でおもちゃのバット振ってるの。あなたも負けないようにがんばらないとね』


「ああ。……いつもすまないな。お前だけに面倒を押し付けたりして」


『私のことは気にしないで。あなたが野球に集中してくれればいいんだから。今年こそは、一軍に入れるようにがんばってね』


そう言って、優子は電話を切った。

家族には、今季での解雇が決まっているということは言っていなかった。最後の最後まで、家族にとっては自慢の父親でいたいという、変なプライドが邪魔をした。それに、その事実を伝えれば、家族に気を遣わせてしまうかもしれない。そんなことだけはさせたくないと、村野が思ったからだった。

タバコの先の灰が落ちる。優子と正樹の声がまだ鼓膜に貼りついていた。


「あのぅ……」


その上から聞こえる遠慮がちの声。振り返ると、能美が伏し目がちに立っていた。


「何かようか? 能美」


「えっと、今日の自打球のことが心配で……」


「ほんとに律儀なやつだな。大丈夫だって言っただろ。ほら、この通り」


村野はそう言って、自打球を受けたほうの足を大げさに動かして見せる。それを見た能美はほっと胸をなでおろしたようだった。


「あの、ところで村野さん。さっき話されてたのは息子さんですか?」


「そうだが、それがどうした?」


「いえ、とても楽しそうに話されてるなぁ、って思っただけです。だって、村野さん、あんまり元気がないように見えたから。昨日、監督から入れ替え戦の話しを聞いて、他の先輩方はみんな嬉しそうだったのに、村野さんだけ、なんだか違って見えたんです」


足でタバコをもみ消しながら、村野は苦笑いを浮かべた。三六歳の男が、その半分しか生きていない十八歳の少年に、こうも簡単に心のうちを見透かされてしまう。こんなことだから、野球選手として大成しないわけだ、と。


「そんなことねぇよ。俺はいつでもこんな感じだからな。それに、どんな親だって子供の前じゃ嬉しくなるだろ。子供が小さいときは特にな。お前の親父だって、昔はそうだったろ?」


村野の言葉に、能美は少し視線を外して答える。


「覚えてないんです。あんまり、父さんとの思い出はつくれなかったから……」


その意味を察したのか、村野は『すまん』と呟いた。

少し間をおいてから、能美が口を開く。


「父さんとの思い出でたった一つ覚えてるのは、甲子園に連れて行ってもらったことです。そこで、野球の楽しさを知って、野球を始めて、こうしてプロにもなれた……。僕には才能はないし、正直プロでやっていく自身もないけど、それでも悔いは残したくないんです。自分の好きなことだし、それに、父さんが僕に残してくれたものだから……」


村野は静かに、能美の横顔を見ていた。弱々しそうに見えていたその顔が、今はなんともたくましく感じられた。

うねりをあげた浜風が、無言の二人の間を吹きぬける。それを合図に、能美が慌てたように頭を下げた。


「す、すいません。なんだか余計なことしゃべっちゃいました。じゃあ、失礼します」


小さな背中が、軽快な足音を立てて球場の中に消えていく。村野はその背中を見送ると、再び視線を空に向けた。

鼓膜に貼りついていた優子と正樹の声が、今では能美の声にすりかわっていた。


「悔いは残したくない、か」


村野は二本目のタバコにつけようとしていた火を止めた。そして、空に向かって大きな背伸びを一度する。視界には飛行機雲が一本、青空を横断するように長くたなびいていた。

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