第6話 迷い

結局、南雲の予感通り能美は二回の表も三振一つを含み、打者三人を凡打に抑えて降板した。

試合のほうは、能美を初めとするルーキーの活躍が目立った紅軍が、三対二で勝利した。能美の後を引き継いだ梅河は、二回を投げて一安打無失点。唐木も長打一本を含む二安打一打点の活躍を見せ、勝利に貢献した。


「はぁ……」


ため息と一緒に、村野の座っている安ベッドが『キィッ』と音を立てる。初日の練習メニューを終えた選手たちは、二時間ほど前に二軍宿泊施設に到着していた。

目覚しい活躍を見せた新人選手とは対照的に、中堅、ベテランの選手たちは課題を残した。

野手陣で言えば、村野は二打数無安打、清和は代打で三振。投手陣は四球を連発したが、そのチャンスを活かせない打線のチグハグさも目立った。全体では五点を取っているが、実際はそれ以上のチャンスはあったのだ。キャンプ初日だからしょうがないと言われればそれまでなのだが。

村野はもう一度ため息を吐く。そして、慌てて口をおさえた。

どうも最近ため息が多くていけない。これも歳のせいか――そう心の中で自嘲した。

新人の活躍を見せ付けられた選手たちの練習は、足利の公言通りハードなものとなった。どうやら今日の試合、選手にとっては発奮の起爆剤になったようだ。特に、今季をラストチャンスと村野に話した清和は、三振がよほど悔しかったのか、残りの練習時間をすべてバッティングに費やした。清和以外の選手も、自分の課題をしっかり修正しようと努力していた。

ただ、この村野だけは違った。なにをしてもやる気が出ない、集中できない。試合で二打席凡退したことも、ノックのときにいつもは捕れる打球を後逸したことも、特別なにも感じなかった。


(結果を残しても残さなくても、来年のことは決まってるんだ。今はケガだけはしないように気をるだけでいい)


そう自分に言い訳するが、チームメイトに対する申し訳なさが影を引くように後ろをついてきた。


「そんなに暗い顔して、どうしたんですか? 村野さん」


村野がさっきから何度もため息を吐いているのを気にしたのか、同室の選手が声をかけた。


「まあ、強いて理由をあげるなら、お前がさっきから何十分も鏡の前にいるせいかな」


「それは仕方ないですよ。これはボクの日課ですから」


男は再び鏡の前に顔を持ってくる。肩まで伸びた長い茶髪にすらっとした細身の体型、顔も整っている俗に言う『イケメン』というやつだ。初対面の人間には、この男がプロ野球選手だなんて夢にも思わないだろう。いや、二年間チームメイトととしてやってきた村野でさえ、今だにこの男が野球選手だなんて信じられない。


(なんでこいつと同室になっちまったかなぁ……。あの狐監督がクジで部屋割り決めるからこうなるんだ)


男の欠点を二つあげるとするならば、筋金入りのナルシストという部分。そして、本人も気にしている、その端正な容姿とは不釣合いな名前であった。


「田中太郎……」


村野が呟く。それと呼応するように、鏡を見ていた男の背中がビクッと反応した。


「ん、どうした?」


「いえ、なんでもないです……」


村野のちょっとした不満と悪戯心を含んだ“口”撃に、平静を装おうとした田中だったが、鏡に映った口元がヒクヒクと痙攣しているのを村野は見逃さなかった。

田中は二軍の遊撃手で、去年の失策はわずかに二つという、守備だけなら球界でもトップクラスの選手だ。一方、打撃はからっきしだめで、去年の打率は二割にも満たなかった。しかし、そのことをまったく気にしていないことから、足利からは『守備と自分にしか興味がない男』と呼ばれていた。


「ちょっとタバコでも吸ってくる」


タバコをくわえた村野が扉のノブに手をかけるよりも早く、その向こうからノックが聞こえた。扉を開けると伊田が顔を出した。


「どうした、伊田?」


「あ、村野さん。監督が二軍のレギュラーメンバー全員下の階に呼べって」


「監督か。それをお前がわざわざ?」


「はい。俺の部屋からなら下に行きながら全員の部屋に寄れるからって、監督が。まぁ、いちいち内線かけるのがめんどくさかったんじゃないッスか?」


村野はやれやれとくわえていたタバコをケースに戻すと、まだ鏡の中を覗き込んでいる田中に声をかけた。田中は手鏡を持ってこようとしていたが、村野に注意されて渋々部屋を出た。

しばらくして、部屋割りが書かれた紙を見ながら伊田が一つの部屋の前で足を止めた。


「能美の部屋はここだったよな」


「なんだ、能美も呼ばれたのか?」


村野の問いに、伊田は『そうッス』とうなずいて、扉をノックした。しかし、中から返事はなく、扉が開く気配も感じられない。伊田が何度やっても同じことだった。


「あれ、おかしいな」


紙をもう一度見返した伊田が『あ』と小さく声をあげ、頭を抱えた。


「どうした?」


「能美と同室のやつ、柳(やなぎ)でした」


その名前を聞いた村野と田中は、伊田と同じように頭を抱える。『あいつか』三人ともそう言いたげな表情だった。


「とりあえず、伊田と田中は他の選手集めとけ。俺はあいつらを呼びに行く」


村野はそう言って、陰鬱な気持ちですすけた階段を降りていった。


     ◆


辺りはすでに闇に落ちていた。これといって目立つ建物もなく、民家や小さな商店の明かりがポツポツと点いているだけである。通常なら、キャンプ地になるような所は、選手が練習終わりなどに立ち寄る施設や、キャンプを見に来るファンたちの宿泊施設が立ち並び、夜でもにぎやかなはずだが、この辺りは田舎のほうなのだろう。そんな気配はまったくなかった。


「まぁ、弱小球団の、しかも二軍のキャンプ地だからな。しょうがないか」


地上よりもはるかに輝いているであろう空を見ながら、村野は呟いた。

歩いて五分ほどしたところで、村野は足を止めた。狭い小道にむりやり押し込んだような小さな居酒屋。人魂のように淡く光る提灯が軒にぶら下がり、赤いのれんに書かれた『おき屋』の白字をかろうじて照らしていた。この明かりがなければ、通行人はこの店の存在すら気づかないだろう。

立て付けの悪い扉をこじあけて中に入ると、外観に負けず劣らずこじんまりとした店内が見えた。四人がけの座敷が三つ、その通路を挟んだ向かい側が七席程度しかないカウンター席。客は片手で数えるくらい少ない。こんなことでよくやってこれたな、と村野は感心した。


「いたな……」


あちこち探す必要もなく、すぐに目標の人物にたどり着いた。座敷の一番奥の席、座敷を隔てている仕切りじゃ足りないほど、大きな図体と場違いな金髪頭。そして、その体格に見合った豪快な笑い声。紛れもなく二軍の右翼手、柳龍二(やなぎりゅうじ)だった。案の定、向かい側には能美がちょこんと正座していた。


「今日はいいピッチングだったじゃないか! さあ、飲め飲め!」


「い、いえ、まだ僕、未成年ですし……」


「大丈夫だって! 俺もお前くらいの歳には飲んでたんだから!」


「そういう問題じゃ……」


狭い店内に響き渡る声。別に酔っているといわけではない。しらふでもああなのだ。村野は柳に近づくと、後ろから肩を叩いた。


「そのへんで勘弁してやれ。こいつも困ってるだろ」


「あ! 村野さん。どうです、村野さんも一杯やりますか? 新人の前途を祝して」


「そんなこと言って、自分が飲みたいだけだろ」


村野は柳が突き出したジョッキを手でどけた。よく見ると机の上にも数本の空のビール瓶や、皿が並べられていた。ほとんどは柳が注文したものだろうが。


「とにかく、二人ともホテルに戻って来い、監督がお呼びだ」


「監督がですか? わかりました。おやっさーん! お勘定ここに置いとくから」


柳はゴーヤチャンプルーの残りをかきこんでから座敷を降りる。そして、村野と能美の前をずんずんと歩いていった。


「すまんな、能美」


居酒屋の扉を出たところで、村野が能美に言った。


「あいつは気に入った選手がいると、すぐに飲みに連れて行きたがるんだ。今日みたいに、お前が未成年だとわかっていてもな。今度誘われたら、きちんと断れよ」


能美は村野の言葉に苦笑いを浮かべながらうなずいた。


     ◆


ホテルに戻ると、三人は二階にある一番奥の足利の部屋に向かう。部屋の中ではすでに呼ばれた選手たちが集まっていた。

全員が集合したことを確認すると、足利はおもむろにしゃべり始める。


「全員集まったようやな。ほな、まずこれを見て欲しい」


そう言うと、足利は何枚も綴じられた用紙を一人ひとりに配った。紙には前半は今年各球団に入団した新人投手の名前、後半には球界を代表する投手の名前が、投球スタイルや得意球などが添えられて事細かに記されていた。


「ところで、去年のウチのチーム打率を知っとるやつ、おるか?」


配り終えたのを確認して、足利が尋ねるが、その問いに誰も答えられないのを見て、頭を横に振った。


「二割二分三厘。リーグ最下位の数字や。しかも、三振数トップスリーを独占っちゅうおまけつきで」


そう言われて該当する三選手、柳、清和、伊田がばつが悪そうに渋面をつくった。それ以外の選手は足利の意図がわからず、黙って次の言葉を待っていた。


「そんなチームが、今そこに名前がのっとる選手を打てるわけない。特に、投手に関して言えば今年は例年以上の当たり年で、成沢を筆頭にどいつもこいつもええ投手ばっかりや。このままやったら、去年よりも打率が下がることは目に見えとる」


手元の紙をぱらぱらとめくりながら足利は話を続ける。


「そこでや、今年はチーム打撃の向上に全力を注ぐ。打って勝つ野球をするんや。そのために必要になるのは、能美、お前や」


一番後ろの端のほうで話を聞いていた能美に全員の視線が集まる。突然の指名に、声が裏返った。


「え、僕ですか?」


紅白戦の投手に指名されたときと同じような能美の反応。慌てて紙を落としそうになる。


「今日の紅白戦、気づいたやつもおるやろうが、能美のコントロールはほとんど神業に近い。そこで能美にはフリーバッティングの投手として、各選手の苦手なコースにとことん投げ込んでもらう。一厘でも打率を上げるためや。どや、できるか?」


「え、まぁ、高校のときもずっとバッティングピッチャーだったんで、大丈夫だと思います……」


蚊の鳴くような能美の返事に、足利は満足したように微笑んだ。それを見ていた選手の一人、峰が紙を示しながら口を開く。


「監督の言いたいことはわかりました。けど、この資料って必要あるんですか? 二軍選手ならまだしも、一軍の選手の名前が書いてあるし、この新人たちだって、即戦力で開幕一軍になりそうなやつばかりだ。違う選手のデータを集めたほうがよかったんじゃ……」


「確かに峰の言うとおりや。せやから、ここからがもう一つ大事な話になってくる」


さっきまでの笑顔が急に影を潜め、いつになく真剣な足利の表情に、選手たちは異様な気配を感じた。足利は一つ咳払いをして、


「監督の計画ではな、オールスター戦の後、一軍対二軍の選手で試合をするらしい。そこで活躍した選手は一軍昇格、つまり入れ替え戦みたいなもんやな」


足利の言葉に驚き、部屋の中は一瞬静まり返った。同時に、みながこの資料の意味を理解した。これは、一軍昇格を見据えた資料なのだと。足利は入れ替え戦に本気で勝とうとしているのだと。

静まり返った部屋に、一気に活気が訪れる。アピールできる千載一遇のチャンス。ほとんどの選手の目に闘志がみなぎっていた。


「せやから、お前らにはがんばってほしいんや。このまま二軍でくすぶっとるような選手やないしな」


それだけ言うと足利は解散の号令を出し、選手たちは各自の部屋に戻っていった。

明日からの練習と、入れ替え戦に向けて気合十分な選手たちの後ろで、村野だけはどうも素直に喜べなかった。そんな村野の背中を、能美は心配そうに見ていた。

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