第5話 18分割

「ぼ、僕ですか?」


「そうや、お前や。わかったら、そんなところでぼさっとせんで、ブルペン行ってキャッチボールでもして来い」


足利は引き続きメンバー発表を行っていく。

突然の先発指名に挙動不審にさらに拍車がかかる能美の足元に、人影がぬっと現れた。振り返ると、目つきの悪い男が能美を見下ろしている。


「ほら、行くぞ」


低く重量感のある声。紅軍の捕手であり、二軍の正捕手、新倉充(にいくらみつる)はブルペンへと歩き出した。


「で、お前何が投げられる?」


外野フェンス脇にあるブルペンでキャッチボールをしながら、キャッチャーマスク越しに新倉が尋ねる。キャッチャーの防具一式を身にまとった新倉は、さきほどよりも大きく見えた。


「え、何って……?」


「球種だよ、きゅ・う・しゅ! わからないとサイン決められねぇだろ」


新倉からの返球が少し強くなる。オドオドとした能美の態度に明らかに苛立っているようだ。気の強い新倉としては、こういう人間とは虫が合わないのも無理はない。


「えっと、カーブとスライダーです」


「それじゃあ指一本がカーブ、二本がスライダー、それ以外はストレートだ。まずはストレートから投げろ」


そう言って、新倉は腰をおろして青いミットを構えた。それを見て、能美は胸の辺りにグローブを置く。いわゆるセットポジションだ。

ミットめがけて投げるのは何ヶ月ぶりだろう。そんなことが頭をよぎる。夏の甲子園大会で一度だけ、甲子園のマウンドの土を踏んだのが最後だった。練習のため、バッティングピッチャーとしてではあったが、それでもあの感触は今でも足の裏に残っている。思えば、あのときの自分はそれだけで満足だった。人生最後のマウンドを、甲子園という憧れの地で終えることができるのだから。

それが今、自分は再びマウンドの上に立っている。しかも、プロとしてだ。戸惑いは感じる。それでも、また大好きな野球をするチャンスに恵まれたことに、それ以上の喜びを感じた。

上げた右足をそのまま前方へ踏み出す。左腕を振り下ろす。放たれたボールは新倉の構えるミットに吸い込まれた。


(こいつ……)


その一瞬、マスクの中の新倉は眉をひそめた。


「今の球、本気で投げたか?」


「は、はい、一応……」


(マジかよ……一二〇キロそこそこしか出てないぞ)


プロならば、球速は最低でも一四〇キロ前後が普通である。そういった球の遅い選手は、変則的なフォームからの投球で打者のタイミングを狂わすか、変化球に磨きをかけ、球種を増やしたりでもしなければ、プロの世界で生きていくのは難しいのだ。

しかし、能美のフォームはいたって普通のオーバースロー。球種も二つだけ。新倉は、なぜこんな選手がドラフトで指名されたのだろうと、困惑の色を隠せない。


「次は変化球だ」


そう言われて能美が投げたカーブは斜めに放物線を描いてミットに収まる。球速一〇〇キロ前後。カーブと言うよりはスローカーブだ。スライダーも言わずもがなであった。


(こいつ、ほんとに大丈夫なのか? 二軍とはいえ、この調子だとメッタ打ちにされるぞ)


脳裏には、白軍の打線につかまった能美が、肩を落としてベンチへ引き返す光景がちらつく。大量失点は投手の責任である場合が多いが、捕手のリードもその責任を問われる可能性はある。しかも、新倉は打撃面はいいのだが、捕手としてはややそのリードに難があり、一軍昇格を何度も逃してきた。監督やコーチの目も、投手と同じくらい向くはずだ。


(冗談じゃない! こんな高校生以下のピッチャーが打たれた責任まで、俺がとれるかよ!)


内心苛立ちを覚えながら、淡々と能美の球を受ける。しかし、不思議なことにその苛立ちは徐々に違和感に変わっていった。しかも、それは球がミットに収まるたびに増幅していく。


(まさかとは思うが……)


新倉は能美にカーブ、スライダー、ストレートを一つずつ要求した。能美もそれに答えて球を投げる。最後のストレートを取った瞬間、新倉の違和感は確信に変わると同時に、背中を蛇のように這っていった。

そのとき、コーチが試合開始を知らせるためブルペンにやって来た。


「おい、そろそろ始めるぞ」


「あ、わかりました。……えっと、ありがとうございました」


「ちょっと待て!」


深々とお辞儀してから、グラウンドに向かう能美を新倉は呼び止めた。


     ◆


紅軍の選手たちが各守備位置についていく。古家はバックネット裏からその様子を眺めていた。その横にはべっこう縁の眼鏡をかけた白髪の老人が、傍らに黒い杖を置き、席に座っていた。シャインズのベテランスカウト、南雲(なぐも)である。


「今日はすいませんな。私のようなおいぼれのわがままをきいてもらって」


「いえ、南雲さんには新人時代からお世話になっていますし、これくらいのことはさせてください」


今日の紅白戦、監督の一存だと選手には言ったが、実際に計画したのはこの南雲であった。自分をプロ野球の世界に導いてくれた南雲を父親のように慕っている古家は、この申し出を快く引き受けた。しかし、その真意は古家にはわからなかった。


「どうですかな、古家監督の目から見て、能美君は」


風に揺れる柳を思わせるゆるりとした口調。つかみどころのないように感じさせるその風貌。南雲の座っている座席が縁側に見えてくる。


「正直、南雲さんが強くあの選手を推した理由がまだわかりません。投球練習を見ている限りでは、球威もない、変化球も特別キレているわけでもない。いいところを探せと言われれば、コントロールがまあまあ、といったところですかね」


「ホッホッホ、そうですか」


それを聞くと、南雲は目を細め満足げに笑った。そしてその声は主審の『プレイボール』の合図によってかき消された。

一回の表、左打席に入った白軍の一番打者に対して、能美は真ん中低めにストレートを投げる。主審のコールはストライク。さすがに打者は初級から手は出さない。いや、驚いて出せなかったというのが正しいだろうか。


(今のストレートか? 遅かったけどストレートでいいんだよな……)


白軍の一番・センター、プロ三年目の伊田典明(いだのりあき)は、あまりに遅い能美のストレートに一瞬困惑の表情を見せた。しかし、すぐに気持ちを切り替える。


(遅いってことは当てやすいってことだ。三振しなきゃ俺の足が活かせる)


昨シーズン、伊田の三振数はチーム三位の数字だった。そのため、チーム内でもトップクラスの俊足でありながら、その足を思ったように活かせていなかったのだ。

能美の二球目、これも低めにストレート。伊田はこれをカットする。これでカウントはツーナッシングになった。


(新倉のリードだと三球勝負はない。外に一球外してくる)


伊田の予想通りに、能美の三球目は外角低めの若干ボール気味のストレート。伊田はしめたとばかりに、バットを止めた。


「ストライク! バッターアウト!」


「ウソ!?」


主審の右手が高々と上がる。能美の投げた球はストライクゾーンをギリギリかすめ取っていた。

伊田は唖然とした顔をしながら自軍のベンチに引き返す。すぐに足利の高らかなな笑い声と得意の毒舌が聞こえてきた。

続いて二番・セカンド、伊田と同期入団の駒井孝(こまいたかし)が右打席に入った。駒井も二軍ではレギュラーメンバーの一人である。典型的な二番バッターでバントは上手いが、自己犠牲の精神が強く、消極的なバッティングが目立つため、一軍入りは見送られている。

能美の一球目、ここで初めて使ったカーブは低めに見事に決まった。


(遅すぎる……)


球速一〇〇キロにも満たないスローカーブ。日ごろから一四〇キロ前後の球を打っている人間には、さらに遅く感じることだろう。

能美の二球目も、なんとカーブ。しかも、打者のひざ頭、内角低めのストライクゾーンを通過する。これで駒井もツーストライクに追い込まれた。


(三球続けてカーブはないだろう)


駒井はそう考え、ストレートに的を絞る。しかし、三球目も外角にカーブ。バランスを崩された駒井のバットはピクリとも動かなかった。


「ストライク! バッターアウト!」


二者連続三振。両軍のベンチからどよめきが起こった。

前の二人の打席を見ていたプロ十年目の左翼手、峰晶(みねあきら)はある仮定を持ってから左打席に入った。


(前の二人には三球続けて同じ球を放ってる。俺にもそう攻めてくる可能性が高い)


バットを高く構える独特のフォーム。プロ十年目の『味』が伝わってくる。

そこに能美が投げ込んだのは小さく曲がるスライダー。カーブよりは球速はあるものの、それでも一一〇キロ程度だ。その球が二球続けてストライクになった瞬間、峰は仮定を確信に変えた。


(次は打つ!)


三球目、峰の予想通りスライダーが低めに曲がる。


(来た!)


バットを振り下ろす――が、その手は途中で止まってしまった。


「ストライク! バッターアウト!」


三者連続三振。峰は小さく舌打ちをしてからベンチに引き上げた。

打つ自身はあった。たいして球も速くない、球種も読んだ、なにより自分の得意とする左投手。しかし、その自信の上を行ったのは、皮肉にもプロ十年目の経験だった。

あの一瞬、『この球はボールになるのではないか』という躊躇が頭の中を駆け抜けた。そうなれば、引っ掛けてセカンドゴロ――。そう思ってバットを止めたのだ。しかし、結果はストライク。球は図ったように外角低めに消えていった。


「ナイスピッチング!」


「あ、ありがとうございます……」


チームメイトからのハイタッチに恥ずかしそうに頭を下げて答える能美。その姿を、古家は信じられないといった表情で見ていた。いくら二軍とはいえ、三人ともレギュラーメンバーだ。その選手たちを弱冠十八歳の、しかも無名の選手が三者三振に切って取った。それはもちろん驚くべきことだ。しかし、それ以上に、古家が悪寒に似た寒気を覚えるワケがあった。


「お気づきになりましたかな?」


南雲が古家の気持ちを見透かしたかのように尋ねた。


「信じられない……なんというコントロールだ」


能美の投手としての最大の武器、それは打者の腰を浮かすような剛速球でもなければ、幻惑させることができるキレのある変化球でもない。キャッチャーのミットに向かい、直球・変化球関係なく、寸分の狂いもなく投げることのできる、その正確無比なコントロールこそ、能美の武器だった。

それを裏付けたのがさっきの投球だ。能美は打者に対して、一球目は真ん中低め、二球目は内角低め、そして三球目はギリギリ外角低めに投げた。それはブルペンを出る前に新倉と決めたことだった。並みの投手なら到底できる芸当ではない。しかし、能美はそれをいとも簡単にやってのけ、その結果が三者連続三振。古家は思わず息をのんだ。


「白陽高校がなぜ甲子園春夏連覇を達成できたか、監督はわかりますか?」


突然の南雲の質問に、古家はわれに帰った。


「それは、成沢という絶対的エースが存在したからでは?」


「半分正解ですね」


「半分?」


南雲はその顔には似つかわしくない、いたずらっ子の様な笑いを浮かべて、続ける。


「ええ。投手力だけならば成沢君一人で十分でしょう。しかし、それだけで通用するほど高校野球は甘くない。そこで必要なのが打撃、つまりは攻撃力。白陽高校は成沢君の影に隠れがちですが、県大会から甲子園の決勝まで、一試合の平均得点が一〇点という破壊力も持ち合わせていたんです。それを支えたのが、あの能美君なんですよ」


「あの選手が?」


古家はグラウンドに再び目をやる。能美は次のイニングに備えてベンチの近くでキャッチボールをしていた。


「能美君は高校三年間、ずっとバッティングピッチャーをやっていたんですよ。その超人的なコントロールで打者の苦手なところに投げ込む、すると打者はだんだんと苦手なコースを克服できるようになる……。これが白陽高校のもう一つの強さの秘密です。残念なことに、その彼が公式戦で投げることはありませんでしたがね」


「南雲さん、どうしてそこまで知っているんですか?」


「成沢君を見に行った帰り道で、橋の下で壁当てをしている彼を見つけたんです。壁はちょうど高校生の平均的なストライクゾーンと同じ形に塗装が剥がれていました。特に、低めと四隅のコースは完全にね。それで彼に興味がわいて、後日、高校の監督に尋ねたんです」


南雲の話に耳を傾けていた古家は愕然とした表情を見せる。いったいどれだけの球を投げ込めば、そこまでのコントロールを身につけることができるのだろう。それこそ何千、何万、いや、それ以上だ。とにかく気の遠くなるような球数を投げ込まなければいけない。


(だが、あれはもはや努力だけで身につくコントロールではない。これはあいつの才能か……)


そのとき、おもむろに『では、これで』と言って南雲が立ち上がった。


「もう帰られるんですか?」


「今日は能美君を見に来ただけですから。おそらく、この後のバッターも彼をとらえるのは難しいでしょうな」


「そうですか。なら、入り口まで送っていきますよ」


「いえいえ、お気遣いなく。監督は、若い力の発掘に尽力してください。シャインズ優勝のためにね」


優勝――その二文字が、沖縄の暖かな風と一緒に古家の体を通り抜けていった。

ここ数年、そんなことは不可能だという想いが体をガンのように蝕んでいた。指導方針がかみ合わないコーチ陣。個人成績にこだわる選手たち。実力ではなく、年俸の高い選手を一軍にあげなければ損だ、という球団幹部の考え――。さまざまな要因が螺旋のように絡み合い、古家の就任当初のような、チーム全体で優勝に向かうという熱い想いを圧殺した。いつしか、自分自身もその泥の中で安寧と息をし、来年の契約のことを考えていた。

だが、今はどうだ。たった一人の選手を見ただけで、胸がこんなに高鳴ってくる。それだけではない。体中の血が沸騰したように熱くなり、あのころの自分を取り戻そうとしているのがわかった。


「あ、そうそう。監督に二つほど言っておかなくてはいけないことがありました」


通路の中ほどに行ったところで、南雲が振り返った。


「かつて精密機械とまで言われたコントロールの持ち主をご存知ですか?」


「ええ、たしか元アストロズの大川さんですよね」


「そうです。一般にコントロールが並外れてよい投手は、ストライクゾーンを九分割できると言われていますが、実際にそんな選手はいません。大川選手も、好調なときで六分割が最高だと言っていました」


「じゃあ、能美は九分割できると?」


その問いに、南雲は首を横に振った。


「彼はそれ以上、九分割したコースをさらに二分割。つまり一八分割までコントロールすることができるんですよ」


「一八分割!?」


南雲は嬉しそうに笑っているが、その驚異的な――いや、そんな言葉じゃ説明できないほど恐ろしい数字に、古家の血の気は引いた。


「それと最後に、監督は彼を一軍枠の有力候補と考えているかもしれませんが、それはやめておいたほうがいい……。今の彼には、投手として足りないものがある」


「それは、なんですか?」


「私の口からは言えません。こういうのは、自分で探して克服するからこそ価値があるんです」


南雲は振り返ると、そう言って通路の奥に消えていく。グラウンドでは、能美が早くも二回のマウンドへ登っていく姿が見えた。

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