第3話 おもかげ
会見が終わり家に帰ると、能美はカバンを放り投げ、リビングに仰向けになって倒れた。夢の中にいるような、そんな気分だった。
自分がプロに? ありえない。高校時代に公式戦に登板したことがない自分が、ドラフトで指名される理由がわからない。
寝たままの姿勢から首だけ動かして周りを確認する。沢村あたりが大きな立て札に『ドッキリ!』なんて文字を書いて現れるのを期待したが、そんな気配もまったくなかった。
「プロでやっていく自信なんかないよ……」
天井に向けて盛大にため息を吐き出す。白陽高校の野球部は、プロ選手をだしたいがために、指名されるのに必要な『プロ志望届』を部員全員に書かせる。まさに下手な鉄砲うちもなんとやら、だ。
能美自身、自分がプロに指名されるなんて、そのときばかりは夢にも思っていなかったので、書くことに対して抵抗はなかった。しかし、それがこのような結果を招こうとは……。
「はぁ〜」
能美は体を起こすと、隣の部屋に入った。
部屋の隅で足を止める。そこには簡素な仏壇があった。
十年前、突然の事故でこの世を去ってしまった父親の仏壇だった。
「父さん、僕どうしたらいいんだろう」
写真立てに収まった、父の笑顔に向かって語りかける。もちろん、返事は返ってこなかった。
「ただいまー」
玄関のほうで声が聞こえ、次いで扉の閉まる音。能美の母親、千恵子(ちえこ)が帰ってきた。
「シンただいま。今日はスーパーが特売日だったから、ごちそうつくるわね。期待してて」
千恵子は両手に抱えた買い物袋を見せながら、笑顔で台所へ向かっていく。その背中に向かって、能美は小さな声で呼び止めた。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
「ん、どうしたの?」
千恵子が振り返ると、能美は重い口を開き始めた。
「あのね、今日プロ野球のドラフト会議があったんだ」
「そういえばそうだったわね。あ、成沢君どうだったの?」
「タイタンズに一位指名だった」
「へーすごいじゃない。あのタイタンズにねぇ」
「それでね、僕も指名されたんだ……その……シャインズに……」
一瞬の沈黙。それを破ったのは、千恵子の両手から落ちた買い物袋の音だった。
「それ、ほんと?」
能美はうなずくと、テレビのスイッチを点ける。チャンネルを回すと、今日のドラフトの様子を流している番組で手を止めた。
映っているのは『タイタンズ入団ほぼ確定 怪物投手・成沢涼』と、でかでかと書かれているテロップと、成沢の会見の様子だった。
そして次の瞬間、映像は変わり、能美が成沢の横で会見をしている姿が流れた。成沢より時間は短く、ほとんどおまけのような感じではあったが、千恵子の視線はテレビ画面に釘付けにされていた。千恵子は無言で画面を見つめていたが、映像がCMに切り替わると、声をあげて喜んだ。
「シン! すごいじゃない! プロ野球選手になるなんて。これって夢じゃないよね? 夢じゃないよね?」
「か、母さん、痛いって。つねるんなら自分の頬をつねってよ」
「あ、ごめん」
千恵子は慌てて手を離す。能美は赤くなった頬をさすりながらテレビを消した。
「これは今日は豪華な夕食つくらないといけないわ! 早く支度しないと」
「ちょっと待って」
急いで台所に向かおうとした千恵子を、能美は制止させる。千恵子は首をかしげた。
「どうしたの、さっきから変よ?」
「僕、プロには行かずに、このまま大学に進学しようと思ってるんだ……」
絞り出すように吐き出した言葉。うつむいて話す息子に向かい合うようにして、千恵子はゆっくりその場に座った。
「どうして? こんなチャンス、もうないかもしれないのに」
「母さんを楽させたいから……」
さっきよりも小さな呟きだったが、千恵子にはそれが重く響いた。
「僕ね、医者になろうと思ってるんだ。先生も、今のままだったら国立の大学も十分狙えるって言ってくれた。父さんが死んでから、母さんずっと一人で僕を育ててくれたでしょ? だから、その分親孝行したいんだよ」
千恵子は黙って息子の目を見つめている。
「そりゃあ、プロになれば最初のうちは、契約金とかである程度のお金はもらえる。けど、僕がプロで通用するわけないよ……。すぐに解雇されるに決まってる。だったら、大学にいって、必死に勉強して、医者になったほうが、生活も安定するんじゃないかな……って」
それだけ言い終えると、能美は肩を震わせて嗚咽を漏らし始めた。
能美の話したことは全て本心からくるものだ。父親がいなくなってから、女手一つで、ここまで自分を育ててくれたことは、一生をかけても孝行しきれるものではない。朝早くから働き、夜遅くに帰って来る母の背中を見て、何度も唇をかみ締めたのを今でも覚えている。
もし、自分がいなかったら、と考えたときがある。もしそうだったなら、母さんはここまで働きづめの生活ではなかっただろう。好きなことも今よりもできるだろうし、自分に気を遣うこともなく再婚もできたはずだ。
自分は母親を苦しめているのではないか? 自分だけが好きな野球をして、そのせいでろくにバイトもできなくて、母親を追い込んでいるのではないか?
そう考えたとき、能美は決意した。大学に進学して、医者になる。そして、たくさんお金を稼いで、母親に楽をしてもらおう。欲しい物はなんでも買ってあげよう、と。
だから、野球を続けるのは高校まで。進学したら、すべてを勉強につぎ込もうと思っていた。
それなのに、どうしてこんなにも涙がでるのだろう。もうきっぱりとけじめをつけたはずなのに、どうして……。
「ふふふ……あはははは!」
重く苦しい静寂を打ち破ったのは千恵子の笑い声だった。思わぬ出来事に、能美は眉をひそめる。
「ごめんごめん。でも、まだまだ十八歳のワカゾウが『生活の安定』なんて言ってるのがおかしくてね」
「でも、今のままじゃ母さんに辛い思いをさせるかもしれない。僕のせいで我慢したことだっていろいろあったでしょ?」
千恵子は『ふぅ』と一息つき、微笑みながら話す。
「確かに、我慢したことはない、なんてことは言えない。……けどね、これだけは胸を張って言える。私は、今まで一度も辛かったことなんてないよ」
千恵子は右手で能美の頭をくしゃくしゃとなでた。細くて温かい手だった。
「……そんなのウソだよ。僕がいなかったら、母さんはもっといい生活がおくれたはずなのに」
「こら! そんなこと言わない!」
千恵子は、今度は頭に乗せていた右手で能美の額を小突いた。
「……もし、シンがいなかったら、私は父さんの跡を追ってたと思うわ。あの人がシンを残してくれたから、私はこうして生きることができた。それに、シンはたくさんの幸せを私にくれてるのよ。特に野球をしてるときに」
「野球をしてるとき……?」
「野球をしてるときのシンはね、自分じゃわからないかもしれないけど、とっても輝いてるの。目がキラキラ光って、口元も微妙に上がってる。本当に野球が大好きなんだな、っていうのがわかるの。親ってね、そういうときのわが子を見ると、どうしようもなく嬉しくなるのよ。あぁ、この子を産んでほんとによかった、ってとっても幸せな気分になれるの」
千恵子は立ち上がると、背後に掛けてあったエプロンを着ながら、なおも話を続ける。
「そりゃあ、医者になってたくさんの命を助けるっていうのも、一つの立派な生き方だと思う。だけどね、プロ野球選手になってたくさんの人を喜ばせるのも、きっと同じくらいの価値があると思うの」
「でも、僕はプロなんかじゃ――」
「一つ、いいこと教えてあげる」
エプロンに着替え終わった千恵子が、能美のほうに向き直った。
「昔ね、こんなことを教えてくれた人がいたの。『可能性が高いものなら誰にだってできる。けど、可能性の低いことに挑戦することで、人間は真に強くなっていくし、そこでの失敗は失敗とは呼ばない。臆病になって、挑戦しようともしないのに、自分の未来を嘆いていることが、本当の意味で失敗なんだ』って。その人は、どんな困難なことにも立ち向かっていく人だった。周りから見て無理なことでも、ずっと前だけを見続けて挑戦していた。その人の顔は、今のシンみたいに輝いてたよ」
「母さん……」
能美は涙を拭い、母の顔を見上げた。小さなリビングにあまるほどの大きな笑顔だった。
「でも、結局決めるのはシン自身だからね。私は反対はしないよ」
能美はそのまま台所へ消える母の背中に向かって、
「決めたよ。僕、プロになる。どれだけやれるかわからないけど、悔いのないところまでやってみる。やっぱり、野球が好きだから」
背中は何も語らず、台所へ消えていった。
◆
夜中。家事を一通り終えると、シンが寝ているのを確認して、千恵子はそっと仏壇の前に座った。
「あなた。これでよかったのよね。私には、シンから大好きな野球を取り上げることなんてできないもの。多分、あなたが生きてても、今の私と同じ事をいったでしょうね」
千恵子は写真立てを手に取ると、それに向かって笑いかけた。
「さっきのあの子の顔、昔のあなたにそっくりだったわ。だからそっちで見守っててね、あの子の大きな挑戦を」
暗い部屋の中、カーテンの隙間から差し込んだ月明かりだけが、写真の中の笑顔を照らし出していた。
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