第2話 天才と凡人

白陽市立白陽高校、3−Aの教室で、能美はいつものように数学の授業を受けていた。

問題を解き終え、ふと窓の外を見ると、グローブとプラスチックのバットを持った少年が、校門の向こうを走っていくのが見えた。

青色の野球帽を被った少年は、すぐに塀の陰に消えていったが、その一瞬だけでも少年の心の躍動感は十分に見て取れた。

おそらく目的地はその先の空き地だろう。能美も何度もそこで遊ぶ子供たちを見た。

鬼ごっこ、かくれんぼ、缶蹴り、サッカー……いろんな遊びを、たくさんの子供たちが楽しんでいた。

それでも、能美が唯一足を止めてみるのは、やっぱり野球だった。幼い頃、野球好きだった父親が連れて行ってくれたのは、高校野球の聖地、甲子園だった。それが最初の野球との出会いだった。

真夏の太陽の下、アルプススタンドから響く応援の声、太鼓の音、鼓膜を直接刺激するような観客の声援、音の波に揺れる銀傘ぎんさん……すべてが、幼い少年にとって巨大だった。

その中央で、泥だらけになりながら、夢中で白球を追いかける球児たちを、幼い能美少年は目を輝かせながら見ていた。

細かいルールなどはわからない。白い球を棒で打ち、それを捕る、ということしか、今は認識できない。それなのに、なんでこんなにも胸が高鳴るのだろう。こんなにも体に力が入るのだろう。そこにはすっかい野球のとりこになってしまった少年の姿があった。

そして帰る間際、少年は青々としたつたで覆われた球場を振り返り、誓いを立てた。


――自分もいつか、この球場で野球をする――


と。


あれから十数年、少年は再び甲子園球場に立っていた。

しかし、それはグラウンドにではなく、あのときと同じ、スタンドだった。

名門野球部に入ったのはいいが、レギュラーとして公式戦に出ることはなく、三年最後の試合でもこうして応援することしかできない。

あの日のように、燃えるような太陽が、じりじりと肌を焦がしていくのを感じながら、能美はただ一点、マウンドを見つめていた。

グローブが頭上高く振りあがり、背番号『1』が躍動する――白陽高校のエース、成沢涼の投げたボールは乾いた音を立ててキャッチャーのミットに収まった。

空気を裂くようなサイレンの音。今までで一番大きな歓声。同時に、グラウンドの白陽ナインがマウンドへ駆け寄った。

天に突き上げられた何本もの人差し指を見て、能美は身震いした。

それは、春夏甲子園連覇の偉業に対してでも、成沢が決勝で二〇奪三振したことでも、決勝初の完全試合をしたことでもない。

自分と同年代の青年たちが、ここまで人を感動させることができるのだという事実に、能美は心から拍手を送り、また野球の素晴らしさをかみ締めているのだった。


(キーコーンカーンコーン)


終業のチャイムの音で能美は現実に戻された。

テスト用紙を回収する。列の一番前の空席、成沢の席で能美は足を止めた。


(今頃ドラフト会見してるのかな……)


能美は用紙を教卓の上に置き、時計をちらりと見た。

会見は学校の体育館で行われる。昼休みに何台ものテレビカメラや記者たちが入っていくのを見かけた。

成沢はプロに入れるならどこでもいい、と言っていたから、プロ入りはまず間違いないだろう。

多くのカメラやフラッシュに囲まれながら、凛とした表情で会見をしている成沢が脳裏に浮かんだ。

自分のクラスメートがプロ野球選手になることに、思わず笑みがこぼれる。


(今のうちにサインでももらっとこうかな)


二人は特に仲がいいというわけではない。同じクラスメートでも、かたや高校野球史上、稀に見る怪物投手。かたや万年補欠の凡投手。能美のほうが引け目を感じ、会話をすることはあまりなかった。


「テストどうだった? シン」


背後から声が聞こえた。振り返ると、能美の数少ない友人の一人、沢村がいた。


「まあまあかな」


「そっか〜。俺はぜんぜんダメだったわ。これじゃあ受験やべえよ。いいよなー成沢は。そんな心配しなくていいんだから。高校卒業したらすぐにプロ。俺らみたいな万年補欠にはうらやましすぎるぜ」


沢村は口を尖らせてそう言った。


「でもすごいよね。うちのクラスからプロ野球選手がでるなんて」


「まあうちの高校からは二、三人は毎年なるらしいからな。でも、成沢みたいな天才はそうそういないだろうな」


そのときだった。突然教室の扉が勢いよく開いたかと思うと、担任の教師が息を荒げて入ってきた。あたりを見回すと、能美のほうを向いて叫ぶ。


「ドラフト指名されたぞ!」


「へー何位だったんですか?」


横にいた沢村が尋ねる。


「一位だ!」


「一位か。やっぱり成沢君はすごい――」


「違う、能美、お前が指名されたんだよ!」


能美の話しを遮って入ってきた担任の言葉に、教室が静まり返る。

当の本人も驚いて目を皿のように丸くし、固まっていた。


「せ、先生、冗談はやめてくださいよ」


「冗談なんかじゃない! シャインズがドラフト一位でお前を指名したんだよ! ほら、体育館行くぞ」


担任は呆然としている能美の腕を引っ張り、走り出した。あっという間に体育館に着くと、大勢の視線が能美に集まった。みなが、このまったく無名の高校生に、違った意味で興味があるようだ。

わけもわからぬまま、成沢の横に座らせた能美は口を半開きにして小動物のようにあたりをキョロキョロと見回していた。


『能美君。シャインズにドラフト指名された今の気持ちはどうですか?』


記者の一人が質問する。能美は震える右手でマイクをつかむ。


「え、えっと……その……なにが、なんだかわからない、です……」


マイクでやっと拾えるほど小さな声だった。

その後の質問はほとんど覚えていない。驚きと混乱で空っぽになった頭では、いちいち考えて質問に答えるほどの余裕などなかった。

ただ一つ覚えていることは、会見の最後、記者からのリクエストで、成沢と握手をしたことだ。

目のくらむようなフラッシュの中、成沢の言った『お互いプロでがんばろうな』という言葉が、能美の頭の中で何度もリフレインするのだった。

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