H 異世界転生したら、美人ハーレムができてウハウハな件

 異世界転生。それは、日本人の夢であり、この殺伐とした現代社会に残された最後の希望である。その世界では転生者と呼ばれる存在は、一部の例外を除き、

ほとんどがチートといわれる強大な能力を授かり、魔物や悪党が跋扈する世界でありながら、それらに命を脅かされるということはほぼない。その世界では彼ら彼女らが最強であり、絶対無敵の存在なのだ。また、転生者は問答無用で異性にモテるという点も見逃せない。この世界の異性とは、転生者に股を広げるだけの存在であり、その惚れっぷりたるや、最早どこに惚れたのかがわからない程の即落ちぶりである。そんな出来過ぎの世界に転生を夢見て、今日も社会人たちは死んだ魚の目をして、パソコンのキーボードを叩いているのだ。




 行き交う人々の足音が、ひっきりなしに鳴り続ける。喧噪に包まれたこの場所で、ひときわ大きな怒声が響き渡る。その瞬間、人々の話し合う声が一瞬止まる。

そして足を止めてその方向を見るが、すぐに納得したような表情をして、元の状態に戻っていく。何故なら、その光景がよく目にするものだったからだ。


「シェルフィ! これはどういうことだよ!」


そういうのは、席に座った金髪の男性。目つきが悪いのが特徴で、腰に剣を携えている。彼の声の先にいるのは、彼の目の前に座っている、黒髪の女性であった。


「どういうことも何も……見たまんまですけど……」


目を逸らしながらそういう彼女は、横に座っている人物を見る。彼女の視線の先には、金髪で目が青色の女がいた。彼女は隣にいる黒髪の女性の腕にしがみついており、まるで恋人のように寄り添っている。

そんな様子を見て、金髪の男はわなわなと体を震わせると、今日一番の声で叫んだ。


「てめぇ、人が狙ってた女盗ってんじゃねぇよ!」




 男は、お前ら二人でよろしくやってろ、と捨て台詞を残して行ってしまった。

残ったのは、黒髪の女と、彼女の腕に引っ付いている金髪の女性だけだ。

黒髪の女性は、困った様に隣の彼女を見る。


「そ、そろそろ放してくれません?」


その声が聞こえているのかいないのか。彼女は、その腕から離れそうになかった。

近くの男がこちらを面白いものを見る目でにやにやとしていた。


「おいおい、シェルフィ。お前また女たぶらかしたのかよ。ホントすげえな。

俺に方法教えてほしいぜ。」


「そんなこと言われても……私はただ普通にしていただけなんですけど……」


男の言葉にそう返す彼女、シェルフィは、酒場の天井を仰ぎ見る。


(どうしてこんなことに……)




 既にお気づきではあると思うが、シェルフィは、本来この世界にはいないはずの人間である。そして、この世界に迷い込んだ特異な存在。実際は、女神と呼ばれる不審者に送り込まれたのだが、何も知らない世界に勝手に放り出されたのだ。最早迷い込んだと同義であろう。そんな彼女は、転生前は冴えない一般人だった。

齢二十半ばの彼女は、鍼灸師として生計を立てていた。大変なことも多々あったが、人並みに充実した人生だったように思える。恋はしたことはあったが、お付き合いをしたことはない。彼女は女性に恋心を抱く女性であった。そういう女性が集まる場所があるのは知っていたが、人付き合いが苦手な彼女はなんだか尻込みしてしまい、結局行けずじまいであった。そんな彼女だったが、ある日突然異世界に転生してしまった。朝の訪れと思って起きれば、そこは不思議な空間。

女神と呼ばれる存在が、目の前に座っており自分が誰なのか、そして彼女が異世界へ行くということを説明してくれた。そして、異世界へ転生するにあたって、

何か強力な能力を授けてくれることになった。だが、異世界が何なのかよくわかっていなかった自分は、こんなことを言ってしまった。


「老いない体、すべすべな肌をください」


今考えるととんだ阿呆だ。だが、異世界というものがどういう世界なのかをきちんと説明してくれなかった彼女にも非があると思うが。

彼女は困ったような顔をした後、納得したような顔をして頷いた。


「わかったわ。老いない体はちょっと無理だけど、すべすべな肌にはしてあげるわ」


こっちは召喚されたんだぞ。乙女のささやかな要求くらい、快諾してくれてもいいだろう。と、それぐらい言ってやりたい気持ちがないわけでもなかったが、相手は女神らしい。後が怖かったので言えなかった。

そうして、異世界に召喚された。




 実際に召喚されて思ったのは、現実とは全く違うということだ。いや、この世界もれっきとした現実なのだからその表現はおかしいが、とにかく、彼女が元いた世界とは全くの別物であった。時代的には中世……あたりであろうか。だが、異様に

綺麗な町、妙な詠唱をする人間、そして何より、モンスターと呼ばれる怪物の存在が、ここが完全なる異世界であることを物語っていた。

流石に困り果ててしまった彼女であったが、身に着けていた服から一冊の本を見つけた。その表紙には、『異世界での楽しい過ごし方』と書いてある。著者名は、

女神であった。賑わう町の真ん中で、小一時間ぺらぺらと本をめくっていた彼女だったが、読み終わると本を閉じて空を仰ぐ。今更だが、とんでもない世界にきてしまったのだと、改めて理解した。

本の内容だが、一番初めに女神からの謝罪があり、どうやらてっきり異世界を知っているものだと思ったから、説明を怠ってしまったらしい。お詫びに、この本に

異世界での生活の仕方、その他諸々が記してあった。そこで特に彼女の目を引いたものは、『チートスキル』と『モテモテ』の欄であった。

『チートスキル』とは、どうやら異世界に転生させられる人間には必ずといっていいほど付与される能力であり、転生者が選べる場合や、勝手に付けられるものもあるのだという。そして、彼女に与えられた能力とは――

能力名:『スベスベ』


「……うん?」


はて、なんだこの能力は。一瞬思考が明後日の方向にいっていた彼女だが、すぐに気づく。これは、自分自身が言ったことだ。老いない体、すべすべな肌をくださいと言い、老いない体はあえなく却下されてしまったがすべすべな肌は受け入れてくれた。――まさか。


「これが、私のチートスキルってやつ?」


間違いない。絶対そうである。更にその後に続く文章には、あの時には彼女が異世界を知っているのかと思っていたため、てっきりそういうチートが欲しいのだと勘違いしていたそうだ。そして、異世界に送ってすぐに、彼女が異世界の事をほとんど知らないという発想に行き着き、慌ててこの本を送ったとのことであった。

あんな一瞬のうちにこの本を書いたのだろうか。それともこの世界に転生されるまでの時間がこちらの感覚では一瞬だったが、女神の世界では長い時間であったなどという、時間のねじれのようなものがあるのだろうか。

だが、そんな思考を振り払い、次の『モテモテ』の欄に目を通す。そこには、こんなことが書いてあった。


『転生者は、すべからくこの世界に愛される存在であり、その世界でのいかなる

不都合なことも彼らに降りかかる事は許されない。彼らはこの世界で食料に困ることはなく、夜に寝首を掻かれる心配もなく、恋に破れる事はない。

その絶対的な力によってこの世界のあらゆる困難を打ち破り、その人にとっての全ての恋愛対象から愛される。そのような生活を送れることが、転生者には約束されているのだ』


とのことだった。

どういうことだ? というのが、率直な感想であった。能力の部分はまだ分かった。しかし、もてるというのが、どういうことなのかがイマイチ分からなかった。

かなり謎が増えたが、取り敢えずはこの本の誘導に従ってみることにした。

右も左もわからぬこの状況で、女一人で動くのは危険だからだ。

本を見る。ひとまずスキルの欄に目を戻した。そして、スキル『スベスベ』がどういうものなのかが書いてありそうな欄を見つけた。読み進めると、このスキルは、自分が呼吸をするように使える、彼女だけの固有能力らしい。効果の方は、使ってみてのお楽しみだそうだ。だが、あなたが思っているより万能よ。困ったら使ってみてね。と、書いてあった。どう万能なのか見当もつかなかったが、取り敢えずはここから動くことにした。女神の書によれば、一番最初はギルドと呼ばれるものに行くべきだそうだ。ギルド。日本で暮らしていた彼女にとってはあまり聞かない

名称だった。ギルドというと、中世ヨーロッパあたりの商人ギルド、みたいなものであろうか。今は懐かしき学生時代、世界史の授業でやったような。そんなような知識しかなかった。

本の導きに誘われて、例のギルドとやらに行ってみれば、そこはたくさんの人物でごった返していた。数々の男性、女性。鎧を着込んだ大男から、いわゆる魔法使いと呼ばれるような服を着た女性など、様々な人がいた。本当にこの世界で生きていけるのであろうか。大丈夫であろうか。不安が頭をよぎるなか、彼女は本に目を落とした。




 冒険者。そういう職業がこの世界にはあるらしい。依頼を受け、それをこなして報酬をもらうことで生計を立てている人。そして、その依頼の掲示、報酬の受け渡しなどを取り持つ組織。それが冒険者ギルドらしい。そしてその依頼とは専ら危険な怪物の退治である。それらをこなし、報酬を得る。どうしてこんな世界まで来て、そんな待遇で働かなければならないのだろうか。一抹どころでない不安を抱えつつ、受付らしき場所へと向かう。応対してくれたのは、綺麗なお姉さんであった。


「ようこそ、冒険者ギルドへ! 今日はどうされましたか?」


「い、いえ。今日は冒険者登録をしに来ました……」


予想以上の愛想の良さに驚きながら、本の通りにする。すると受付のお姉さんは、花が咲くような笑顔を見せると、


「まあ! それでは、まず、この書類にご記入下さい」


横に移動され、何やら書類を手渡される。どうやらここに必要事項を記入すればいいらしい。それにしても、凄まじい笑顔だ。常になにがしかのストレスを抱えている、悩める日本人にはできない笑顔だ。ふと視線を感じ、目線を動かす。かなり広いギルド内だが、そこにいる男たちがの視線が、受付の人に注がれていた。その顔は、でれっとした何ともなさけないものである。もしかすると、ここの受付嬢というものはある種アイドル的な存在としての役割も持っているのかもしれない。そんな彼らの視線を感じながら書類を書き終える。それを受付嬢に手渡せば、何やら石のようなものを目の前に置いた。だが、これに対しても既に予習済みである。これは『ステータス』と呼ばれるものを測定するためのものであり、このステータスによって冒険者というものは格付けされるそうだ。

取り敢えずやらないことには始まらないので、石の上に手をかざす。するとその石が淡い光を放ち、しばらくすると収まった。


「ふむふむ。成る程。シェルフィさんは、パワーがとても高いです。そして、魔力もまずまずです。それ以外はあまり高くないですが……うん。これはかなりいいですよ!」


その発言に、周りからおぉ、という声が聞こえる。どうやら感心したらしい。

当の本人はというと、イマイチピンと来ていなかった。そもそもステータスとは何なのだろうか。単に値が高くても、戦いのセンスや工夫などでいくらでもそんなもの覆せるのではないか、とも思ったが、郷に入っては郷に従えともいう。この世界では、これが常識なのだろう。冒険者ライセンスというものを貰う。見ると、どうやら

自分はCランクかららしい。これが良い事なのかはよくわからなかったが、周りの反応からして、良いのだろうと結論付けた。

ひとまず冒険者ギルドから出ようと思い、出口へ足を進めると、一人の男がこちらに向かってきた。


「姉ちゃん、随分といいステータスじゃないか。どうだ? 俺たちのパーティーに入るのは」


本人はにこやかに接しているつもりなのだろうが、裏がありそうな表情をしているこの男は、パーティーと言った。また新しい単語だが、これも予習済みだ。

パーティーというのは、同じ職業の人間がお互いを助け合い、より大きな報酬の

依頼を達成するために作るグループのことであり、基本的には自由に作れる。

だが、何だか胡散臭いこの男には彼女は今のところ嫌悪感しか感じなかった。

表情もそうだが、初対面の人に敬語もなしに馴れ馴れしく話しかける彼が、気に食わなかったのである。無視して歩いていこうとすると、いきなり強い力でもって腕を引っ張られた。


「おい、聞いてんのか」


何ということだろう。想像よりも遥かに野蛮な男だったようだ。苛立ちと恐怖が

ないまぜになった心で、その男の手を振り払おうとした。


「聞いてんのか、この――――」


男の姿が消え、轟音が響く。その方向を見やれば、その男が壁に叩き付けられていた。周りのざわめく声が聞こえる。


「おい……すげえな。酔っているとはいえあのジャックが投げ飛ばされたぞ」


「ああ……しかも手を軽く払っただけで」


「パワーが凄いって聞いてなかったのかよ……全くあのバカは」


彼らが口にする内容で、ようやく自分が彼を投げたことに気づく。

どうやら、自分はとんでもない怪力を持っているらしい。ざわめきを耳にしながら、彼女は思うのであった。


(どうか、平穏な日々をください)




 そして、冒頭の時間に戻る。

しばらくこの世界で暮らした彼女だが、この世界にはまだ慣れることはなかった。

まず、冒険者パーティーだが、入ってみようと思い、実際に入ってみたりもしたが、上手くいくことは今のところなかった。理由は分かっていた。どうやら、彼女は女性によくモテるらしい。どういう訳か、彼女が接した女性の多くが彼女にゾッコンになる。そこに、パーティーというものが、本来の目的とは違うものに使われているという問題が絡んでくる。その目的というのは、男女の出会いである。

冒険者の男性というのは、女性といい関係になりたいという思いがあることが少なくない。そんな彼らにとって、合法的に多くの時間を一緒に過ごせるパーティーというものは魅力的なシステムであった。そんなわけで、気になる女の子をパーティーに勧誘して関係を持とうという動きが、多くの場所で見られる。

すると、彼女の存在はどうだろうか、例えば男二人、女二人のパーティーがあるとする。当然二人の男たちは、それぞれの好みの女性をパーティーに迎え入れた。だが、

その中の一人がシェルフィであったらどうだろうか。そう、こうなるのだ。


「シェルフィ。邪魔な人もいなくなったことだし、二人でデートに行かない?」


「えっ、うん。デートって、何処に行くの?」


「ふふっ。内緒」


これこそ冒頭の状態であり、この腕にくっついて離れない彼女を狙っていた男が、思惑通りにいかなかった結果がこの状況であるのだ。

嬉しそうに金髪を揺らす彼女を見る。耳が尖っているまだ幼さが残る女性。

エルフという種族らしい。エルフは卓越した弓の使い手が多い。その狙撃能力は、冒険者の間でも重宝されていた。そして何より、とても可愛かった。

この世界の住人の女性は、美しい人が多かった。それは悪い事ではないし、彼女からすれば、可愛い女の子、美人の女性にモテることは、かねてからの願いであった。嬉しいことだったが、急に来られてしまうと動揺してしまう。

だが不思議なことに、彼女の顔や外見は転生前と同じなのだ。女性にしては高い背と、後ろで結んだ長い黒髪。自分で言うのもなんだが、そこそこの美人であると思っている。転生前では、女性に想いを寄せられることなどなかった。密かに想いを向けられていた可能性はなくはないが、それにしたってこの光景は異常である。

だから彼女は、あの本に書いてあった、異世界に転生したものはモテるというのは本当だということを認めざるを得なかった。


「じゃあ、取り敢えず店出ようか」


彼女にそう促す。彼女の名前はエリイであった。二人で店を出て、歩き出す。行く場所は、冒険者のたまり場。ギルドである。

目的地につき、依頼を見る。するとエリイが一枚の依頼書を指さす。


「これ、これにしましょう。狩る魔物もそこまで多くないし」


「わかった。これにしよう」


受付で依頼を受注する。デートはどうしたの? と思っているかもしれないが、

これがデートである。狩る魔物があまり強くなく、期限も先の依頼はこうして暫しデートついでにこなされることはよくある事である。命の危険に直面することも多々ある冒険者がこんなことでいいのかと彼女も最初は思ったが、ある程度気を付けていれば、安全な依頼で死ぬことはほぼない。無論ないとは言い切れないが、それはドライブデートで事故で死ぬ可能性を考えるようなものである。

そういう訳で、デートに出かけることにした。




 広い平原。豊かな自然は、日本では見られないものであり、これを見るために

冒険に行っているという気持ちさえある。彼女らは今その平原で、一匹の魔物と

向かい合っていた。牛のような外見だが、体は大量の筋肉で盛り上がり、目は血走っている。角は長く先が尖っており、あれで刺されればひとたまりもないだろう。

シェルフィは低く姿勢を落とし、力を溜めた。少しの沈黙。そして。

豪快な鳴き声と共に、頭を振り回しながら魔物が突っ込んできた。凄まじい速度で近づいてくる。角が彼女に当たりそうになった瞬間。


「スリップスケート、展開」


彼女が何かを唱える。すると、彼女の姿が消えた。貫くべき標的を逃した魔物は、見失ったそれを見つけるため、突進を止め、身を返そうとした。だが、

突如足元がおぼつかなくなり、魔物はその場に転げ落ちた。突然のことに驚いた

魔物だが、すぐに起き上がろうとする。――が。

また倒れる。再び起き上がろうとするが、それをするたびに魔物は地面に転ぶ。

何度やっても起き上がれないそれは、まるで氷上にいるようであった。

魔物が無様に転んでいる横に彼女はいた。そして、その動きは魔物とは真逆であった。地面を滑るように優雅に移動する彼女。摩擦など知ったことではないといったように地面を移動するその様子は、スケート選手が氷上を優雅に踊っている光景を思い起こさせた。


「まさか、すべすべっていう言葉だけでここまで意味を広げるなんて」


感嘆したようにそういう彼女。そう、これこそが彼女が授かったチートスキルであり、その効果は『彼女の指定したものをスベスベにする』というものである。

文字に起こすと何とも微妙な能力に聞こえるが、これがなかなかに応用がきいて強いのだ。魔物にとっては歩くことすらままならない床も、彼女にとっては縦横無尽に移動できる。複雑な軌道を描いて魔物に接近すると、拳を構え、


「終わり!」


力一杯腹にねじこんだ。魔物は地面の上を勢いよく滑っていき、数十メートルほどいったあたりで木に激突し、そのまま動かなくなった。魔物が動かなくなったのを確認した後、彼女はもう一本、彼女の後ろに生えている木の方を向き、


「もう出てきても大丈夫だよ! 怖い魔物はやっつけたから」


そういうと、木の陰から一人の少女が出てきた。水色の髪、小さな体。白い特徴的な服を着ていることから、治療師ということが分かる。

恐る恐るといった様子で出てきた彼女は、シェルフィの元へ走ってくると、ぺこりと頭を下げた。


「あの、こんなへっぽこ治療師を助けて下さって、ありがとうございます」


「いいのいいの。困ったときは、助け合い。でしょ?」


シェルフィは、ほとんどの人が守っていない、ギルドの張り紙に書いてあった教訓を言った。するとその子は花が咲くような笑顔になった。可愛らしい子だな、と思い、思わず抱きしめてしまう。すると、遠くから自分の名を呼ぶ声がする。


「シェルフィ、あっちの魔物は倒したわ……ちょっと、何知らない女とくっついているのよ!」


そう叫んでこちらに駆けてきたエリイが、二人の間に割って入り、引き離そうとしている。騒がしい声が、真昼の空に消えていった。




 シェルフィによって助けられた彼女の名は、リーリアといった。平原で魔物に

おびえていたのを助けたのだが、どうしてあそこに一人で行ったのかと聞くと、

友達が患った病を治すため、薬草を取りに行った帰りであったという。

そうしてひとしきり話し終えた後、何やらもじもじとした様子でリーリアは何かを言おうとしている。何度か躊躇した後、


「あ、あの。シェルフィさんって、パーティーに入ってますか? あの、その、

今から友人の病気を治すので、その後に……私もそのパーティーに入れてください!」


そう言ったのだ。シェルフィはまだパーティーに入っていない。というか、

ついさっきパーティーが崩壊したばかりだ。そこで、シェルフィは閃いたとばかりに手を叩くと、


「そうだ! 私とエリイ、リーリアでパーティーを作らない?」


そういうと、リーリアは嬉しそうに頷いた。一方エリイはどこか思うところがあるようだったが、パーティーの参加を決意したようだった。彼女が言うには、

『パーティーにはいい思いがないもので……」だそうだ。まあ、自分もあまりいいイメージを持っていなかったから仕方ないだろう。そう思いシェルフィは冒険者ギルドに、パーティーの申請をしに行った。


「んぎぎ……私とシェルフィで二人っきりのラブラブパーティーを作る予定だったのに……あの小さいのに遅れをとってしまった……不覚」




 いつものように扉を開ける。がやがやと騒がしい声が少しだけ収まる。が、すぐに元に戻った。依頼を受けにギルドへ入ると、騒がしい音から辛うじて聞き取れるものもあった。


「おい、あれが女が女を侍らせてるって噂のパーティーか……」


「俺あれに混ざりてえなぁ……」


「やめとけ。前それやろうとしたやつが、あの金髪エルフに何されたか忘れたのか」


数々の話は、全て自分に関してのことだった。エリイが一体自分のあずかり知らぬところで何をしたのかが気になったが、知らなくてもいいこともあると思いなおし、そのまま通り過ぎた。

今回の依頼は、村の近くにいるモンスターの退治である。リーリアと戦いを共にするのは初めてであり、あまり難しくないものを選んだ。


「あの、私頑張るので……よろしくお願いします」


「うん。頑張ろうね」


リーリアのそう返す。何だか幼さが残っているというか、守ってあげたくなるような女の子である。なんだかエリイからの視線を感じる気がするが、気にしないようにして、ギルドを後にした。




 村の人に確認すると、どうやらそいつは黒い体をしているらしい。目撃者は遠くからしか見ておらず、近くで見たものは帰ってこなかったので、詳細な外見は分からないのだという。周りを見渡しながらしばらく歩いていると、すぐに分かった。黒い体の巨大なトカゲ。そう言い表すのが最も適切であろうか。ぬらりとした赤い舌が、時折口からはみ出るのが生理的な気持ち悪さを助長した。後ろの二人に目配せすると、すぐに臨戦態勢をとる。

トカゲはこちらに気づくと、思いのほか素早い動きで接近してきた。だが。


「スリップスケート、展開」


トカゲの足元がツルツルと滑り、慌てたように足をばたつかせるが、抵抗むなしくひっくり返った。


「エリイ、お願い!」


「はい、任せてください! エレメントアロー、ファイヤ!」


エリイの弓から矢が放たれ、それは赤い炎を伴って勢いよく飛んでいく。

トカゲは身をよじって回避を試みるが、滑る床によってままならない。そして、矢が体の中央に刺さるとともに、矢が纏っていた炎が大きくなる。


「グギャアアアアアアアア!!!!」


肉が焼ける音とともに断末魔を上げるトカゲ。そして回り込むように床を滑り、

腹めがけて突っ込む。と。


「シェルフィ、危ない!」


突如トカゲがこちらを向くと、口から赤い何かが飛んでくる。それはシェルフィの体に巻き付き、ぎっちりと締め上げた。


「ぐっっっ!! 舌⁉」


口から出した太い舌でシェルフィを捕まえると、舌が縮み、その大きく開けた口へと勢いよく引きずられていく。踏ん張って耐えようとするが、自分が生み出した滑る床によって踏ん張れない。


「エレメントアロー、ウィンド!」


風を纏った矢が凄まじいスピードで背中に刺さるが、トカゲはそれを一瞥するだけで、まずはお前だ、と言わんばかりに口を更に開いた。

シェルフィは床の滑りを解除した。そして地面を踏みしめ、舌を何とかしようとするが、腕ごと締め上げられているので力が上手く入らない。そうしている間にも、舌の力はどんどんと強くなっている。トカゲは勝利を確信したように目を細めた。


「こんな所で食われてたまるかっての。――スリップボディ」


彼女のその言葉と共に、身をよじって舌から逃げ出そうとする。トカゲはそうはさせまいと舌を締め上げる。だが。するりと、彼女の体が舌を抜け出した。トカゲは慌ててもう一度舌を素早く絡める。それすら彼女は身を軽く動かすだけで脱出する。


「自分の体もスベスベにできるなんて、思わなかったでしょ」


笑いながらそういうシェルフィ。そして、舌を両手でしっかりとつかむと、思いっきり引っ張る。今度はトカゲが踏ん張る番だ。だが、舌に比べ本体の方はそこまで力がないのか、ずりずりと引きずられる。


「スリップスケート」


そう言うと、トカゲは踏ん張れなくなり、彼女の方へ引き寄せられていく。そのまま彼女は、舌をより強く掴むと、渾身の力を込めて振り回し始めた。地面の上を滑るように回されていたトカゲだが、その体が徐々に宙に浮き始めた。しばらくぶんぶんと振り回し、腕を放す。トカゲは空に解き放たれ、放物線を描いて地面に落下した。そしてそのまま、動かなくなった。

離れた所から、リーリアが駆け寄ってきた。


「すごかったです! あんな大きい魔物を投げ飛ばしちゃうなんて」


「あはは。ありがとう」


腕をぶんぶんと振りながらそう言うリーリア。その可愛らしさに思わず微笑んでしまう。


「シェルフィ、体は大丈夫ですか!」


弓を抱えてエリイがそう尋ねる。


「大丈夫。体の頑丈さには自信があるから」


そう言って、腕に力こぶを作ってみせる。今の自分は、下手な男よりも怪力なのだ。自分よりも見上げるほど高い男性にも腕っぷしは劣らないのだから、

ステータスというものは不思議なものだ。ちなみにパワーの他にも魔力も高いと言われていたが、魔法は彼女には使いこなせなかった。どういうことかというと、

魔力が多い事と魔法が使える事は別であり、魔力は単に魔法を使うためのエネルギーに過ぎない。魔力が多いということは、魔法を多く使えるということだ。

色々な魔法を使うには、複雑な魔法を生み出す訓練、そして何より生まれ持った

才能が必要なのだ。だが、大規模な魔法、例えば隕石を降らすなどの魔法を使うには、それ相応の魔力が必要になる。つまり魔術師において『強い』というのは、

複雑怪奇な魔法を扱う才能があるのが前提に、より多くの魔力を持っている、ということなのである。だから、魔力の才能などこれっぽちもなかったシェルフィにとって、大量の魔力など宝の持ち腐れということだ。

全く体は傷んでいなかったが、一応ということでリーリアに治療してもらうことになった。リーリアはシェルフィの体に手を当て、何かを唱えると、シェルフィは

自身の体が暖かな光に包まれるのを感じた。やがて光が収まると、体が幾分軽くなったようだった。


「ありがとう、楽になったよ」


「い、いえ。戦闘では役に立てませんから」


そんなことないよ、と言おうとしたその時。何か大きいものが、視界をよぎった気がした。そちらを見れば。


「な、何ですかあれは……」


視界の先にいたのは、巨大な、狼。のようなもの、だった。シェルフィが知る狼とは比べ物にならない程の大きさであり、その体は黒い体毛で覆われている。

その大狼は、血のような真っ赤な目でこちらを睨みつける。四本の足首全てに足枷がついており、それについた鎖は程よい長さで断ち切られている。狼が足を動かす度に、ジャラジャラと鎖が無機質な音をたてる。

尋常でない。そう直感した。ただならぬオーラ、そして、あれだけの巨体ながら、

あんな近くにくるまで、この三人の誰もその存在に気づけなかったこと。

それらを総合して、自分たちよりも上だと悟る。

じわり、じわりと狼はこちらに歩を進めてくる。唸り声をあげながら。

次の瞬間、狼がこちらに駆けてきたのとほぼ同時に、シェルフィはリーリアを抱えて走り出した。もう一方の手で、エリイの手を握って。

滑るように、地面を疾走する。自分は滑らかに動けるが、相手はまともに走れないはず。そう思い後ろを見れば、


「嘘でしょ」


走っている。それも恐ろしい速度で。足元を見れば、足の爪を地面に突き立てて走っていた。まるで雪に覆われた山をアイゼンを履いて登る、登山家のように。


「ひぃぃぃぃぃぃぃ!!」


背筋が凍るとはまさにこのことだろう。何故即座に対応できたのか。見ていたのだ。自分たちとトカゲとの戦いを。観察していたのだ。残った方を、確実に狩るために。全速力で地面を滑る。この光景を遠くから見れば、女二人で手をつないで仲良くスケートしている風に見えるだろうか。

実際はもう一方の腕に人を抱え、後ろから巨大な魔物に猛追されているのだが。

魔物はどんどんと距離を詰めてくる。足音でそれは分かった。

すると、自分たちが森に近づいていることに気づいた。人がいるところからは離れるが、村人たちから被害者はだせない。それに、森の方が逃げやすいと考え、森に入っていく。

シェルフィは、森を形成する木々の間を器用にすり抜けていった。氷の上を滑るように木々を避けるその様子は、優雅に見える。当の本人からすれば、死に物狂いで逃げているのだが。すると突然、木々に囲まれた視界が開けた。


「なっ……」


「嘘……」


「どうしよう……」


口々にそう言うことしか出来ない。目の前には崖があり、覗けば飛び降りるという選択肢はすぐに消えた。一か八か、もう一度来た道を引き返すか。そう思う。だが。


(こんな化け物を見逃していいの?)


村の人たちの犠牲が増えるかもしれない。人が死ぬのは、ごめんだ。

だが、この子達を死なせるつもりも、毛頭ない。

リーリアを下ろし、二人の顔を見て言う。


「私に考えがある」


エリイは迷わず首を縦に振り、リーリアも恐怖で膝が震えていたが、頷いてくれた。




 木々を裂いて、進んでいく。煩わしいことこの上ないが、獲物はもうすぐだ。

久しぶりのご馳走に心躍らせながら、大狼は走っていた。今頃彼女らは崖っぷちで

右往左往していることだろう。そして、狼はこれから最後の追い込みにかかる三人の姿を思い浮かべた。気を付けるべきはあの黒髪の女。厄介な能力に、かなりの怪力を持っている。だが、それだけだ。自分よりも力は劣るし、他の二人は注意を払う

必要がないほど弱いようなので、彼女一人に集中すればいいのだ。弓使いは大した威力を持っていないことは観察していて分かったし、あの小さい女は回復専門だということは今まで喰らってきた人間から学んだ。

はやる気持ちを抑えながら木々をなぎ倒して進んでいると、視界が開けた。崖だ。

そこに崖があることは知っていた。元からここに誘導する気だったからだ。

だが、目の前にある光景に彼は困惑を覚えた。何故なら、目の前に立っていたのは

白い服を着た回復専門の女だけだったからだ。

他の女は? まさか、見捨てたのか。かなり仲が良さそうに見えたのは思い違いであったか。獲物が減ってしまったことに落胆しながら、女の方へ歩を進める。


「こ、こないで……!」


膝が震えて、目もうるんでいる。とても食べがいがありそうなガキだ。唾液が溢れる口が大きく開き――


「エレメントアロー、ファイヤ!!」


森から飛び出た人影が、そう叫んで弓から何発もの矢を放つ。だが。


「なっ⁉」


弓使いの驚きの声がする。大狼に何本もの火の矢が刺さるが、それには目もくれず、彼女が出てきた場所の反対方向を向く。そこには――。


「シェルフィ!!」


やはりだ。自分が一番気を付けなくてはいけない女がそこにいた。回復師の女、

そして弓使いの女を使った陽動作戦。だが、最早注意する程の強さもない奴が引き付けたところで、それに惑わされる必要もない。最初からこの女だけを注意すればいいのだ。女は拳を振りかぶってこちらに滑り込んでいる。だが、こちらの方が早い。

大狼は勝利を確信して、その鋭利な爪を振り下ろした。


「スリップボディ!」


爪が彼女を切り裂く、はずだった。確かにこの爪は彼女の体に届いた。だが、獲物を切り裂くと決まって伝わる、肉を切り裂く感触がなかった。まるで、そう。彼女の体で上滑りしているような。


「ぐっ、うぅ……」


彼女は腕から血を流していた。だが、大狼が想定した程ではない。まさか、剣も同然のこの爪を受け流せるほどのものだったとは。少し驚いたが、そこまでであった。

完全には受け流せていないのだ、もう一度爪で、いや、今度は牙で噛みついてやろう。そしてじわじわと女が許しを乞うのを楽しむのだ。

爪を地面に突き立てると、未だ動かない彼女に向けてとびかかる。


「作戦、成功。だね。」


女が笑う。すると、背後から、


「マジカルアロー‼」


凄まじい速度で放たれた何かがこちらに迫る。眩い光を発するそれは、大狼の胴に命中し、その大きな体を貫いた。


「グオオオオオオオオオオ!!」


断末魔が響く。何だこれは。自身の体にできた、血を吹き出す穴を見て大狼は混乱していた。弓使いの女はこちらを見ると、


「やはりこの魔物。私を見くびっていたようですね。おかげで奥の手を当てることができました……」


そう言うと、その女はぐったりと倒れた。気を失っているわけではないようだが、

かなり消耗しているようだ。

オクノテ。奥の手か。大狼は己の失態を悟った。随分と疲れていることからして、

あの技は一撃しか放てない大技なのだろう。それを隠して、あのタイミングで撃った。あの女が危険とこちらに思わせておいて、隙を作った。言わば二重の陽動作戦だったのだ。腹から溢れる血を見ながら、大狼は何とかここから逃げ出そうとする。


「さて、次はこっちの番だよ」


その声に目を向けると、あの黒髪の女。さっきまで一番危険視していた女。そして、二番目に危険視すべきだった女。その女がこちらに向かってきている。まずい、逃げなくては。そう思い、腹の痛みを無視して歩こうして足を踏み出すが。

――滑って転んでしまった。


「スリップスケート」


もがいてもじたばたと足が動くだけで、一向に前に進まない。大量出血により、体に力が入らない。


「ごめんね。私たちの勝手で傷つけてしまって」


女はそう言い放ち、こちらの懐に滑り込み拳を構える。全力まで振りかぶった拳が、体を打ち抜いた。


「グオオオオオオ!」


吹っ飛ぶ。景色が目まぐるしく回転し、訳も分からず吹き飛ばされた。ある一定の高さまで上がると、その体は落下を始めた。このまま地面に打ち付けられてなるものか。そう思い下を見ると。

遥か下に、地面があるのが見えた。そしてそこで、今更ながら彼は、あの女に崖の

方向に吹き飛ばされたということに気づいた。

必死に手足を動かしても、ただむなしく空を切るのみで、彼の体はまっすぐに下に落ちていった。




 暗い。ごつごつとしたものが下にある。朦朧とした意識は、しばらく続いていたが、時間と共に何か別の感覚が、体の奥から湧き上がってくるのを感じた。

耐えがたい激痛に目を開けると、そこは薄暗い空間であった。霧がかかったような意識の中で記憶を探れば、自分が崖の上から落とされたということを思い出した。

体が寒い。体を巡る血液が全て出尽くしてしまったような、そんな感覚だった。

動こうとするが、足が右の前足を除いて、どれも動かない。あの落下に三本の足は

耐えられなかったようだ。唯一動く足の一本を動かして、地面を這う。今の醜態を

魔王様が見れば、何とおっしゃるだろうか。そんなことをぼんやりと思う。漆黒の獣、ジェンダ。それが彼の魔王に与えられた名であった。鎖で縛られた彼は、魔王城で誰一人として手なずけることができなかった。魔王はそんな彼を甚く気に入り、この名を与えたのだった。そんな、魔王に認められたという彼のプライドはズタズタであった。だが、こんなところで終わるつもりもない。どこかで適当な魔物を喰らい、そして力を取り戻した後、必ずあいつらに復讐してやる。今度は一切の慈悲を与えん。情けを乞う暇も与えずに、奴らの体を嚙み砕いてやる。

湧き上がる怨嗟のままに這う獣。だが、ふと凍えるようだった体が熱いことに気づく。

――何だ?

その熱さが最も強い背中を見れば、体に刺さったいくつもの矢が、炎を纏っていた。

何だ? あの弓使いの放った火矢が、何故今また燃え始めた? 

――まさか。

あのトカゲに放った火矢は、刺さった直後に燃え上がっていた。だが、この火矢は今になってまた燃え始めた。あの女の火矢は、好きな時に燃やせるのか。

その結論に至り、火を消そうとするが、唯一動く足は背中には届かない。転がろうとするも、最早血の抜けたその体は動かなかった。

炎は瞬く間に燃え上がり、その巨体を包んだ。

長い長い、哀れな獣の叫び声が響いた。




 戦いが終わったのを察して、シェルフィはその場に倒れこむ。木に隠れていた

リーリアがその場に駆け寄ってくる。腕にできた縦に長い裂傷からは、血が出てきていた。スキルを使っても、これほどの傷。まともに受けていたらどうなっていたのか。想像するだけでも、ぞっとした。


「大変……、ひどい傷。今治しますから」


「ありがとう」


傷口を淡い光が包み、瞬く間に傷が塞がっていく。何度見てもその速さには驚かされる。これが元の世界にあれば、どれだけの人が助かるのだろう。

治療が終わると、もう一度礼を言い、エリイの方を見る。


「エリイ、ファイヤアローの炎、発動させた?」


「ええ、ばっちり。最大火力で。今頃ヤツは、黒焦げなはず」


えっへん、とばかりに胸を張る彼女に歩み寄り、その体を抱きしめる。


「え、ちょ、ちょっと、シェルフィ⁉」


「エリイ、ありがとう。あなたのおかげで何とか勝てたよ」


そう言うと、彼女は照れながらも体を抱きしめ返す。そうしてしばらく抱き合った後、その体を離す。エリイの方は、随分と名残惜しそうであった。

自分たちの服を見る。いたるところがボロボロだった。シェルフィは二人を見て、


「それじゃ、さっさとこんな森からでて、美味しいものでも食べに行こ!」


そう言って、三人は笑いあった。




 魔王城。この世界の者であれば、誰もが一度は聞いたことがあるその単語。

だが、実物を見た者は驚くほど少ない。何故なら、城内、およびその周辺は選りすぐりの魔物が警備にあたっており、常人では近づくことすらままならない。

そんな魔王城は、その名に相応しい大きさであり、まるでそれ自体が巨大な魔物であると思わせる程の、禍々しい雰囲気を纏っていた。その内部のさらに奥。そこに広がる空間に、巨大な玉座に座る者がいた。


「魔王様」


自身の名を呼ぶ声に、ゆっくりと閉じていた目が開く。その目は、血のような赤だった。そして魔王は、その言葉を発した家臣の方を見る。


「どうした」


広い空間で発せられた高い声は、その無機質な空間で反響し、鼓膜を揺らす。家臣の目には、白い髪、真っ赤な瞳の美しい少女がいた。そう、これこそが魔王だ。

魔王が女性、しかもまだ幼さが残る少女だということは、人間の中で知っているものはあまりに少ない。


「随分前に脱走したジェンダ……あの大狼が死んでいました」


「ほう」


その言葉に魔王は目を細める。同時に元々纏っていた気迫のようなものが、より強力になった。


「詳しく聞かせろ」


「は」


家臣の男はそう言うと、息を一回軽く吸い、それから詳細を語り始めた。


「魔王様がご不在の間に脱走したジェンダは、恐らく西に行った先の森。近くに

小さな村がある、比較的深い森にいました。その森を抜けると崖があり、かなりの高さがあるのですが、その崖の下で息絶えているのを発見しました」


「奴を殺した者は誰だ」


「申し訳ないですが、未だつかめておりません。ですが、そのものがいるであろう町の場所は分かっております」


「そうか」


彼女はそれだけ言うと、その顔に笑みを浮かべた。獰猛な笑み。


「我が魔王軍の傑作であるあの魔物を殺すとは、面白い人間もいるものだ」


これから起こることを家臣は既に察していた。あの残虐な笑みと共に繰り出される

命令が、どれほど恐ろしいものかを。




 それからしばらく、シェルフィたちは魔物を狩りながら、日々を過ごしていた。

たまにモンスターと激しい戦いを繰り広げることもあったが、あの大狼との戦いに比べれば、大したものではなかった。エリイとリーリア。二人と忙しくも楽しい時間を過ごし、最初は不安しかなかったこの世界も、楽しくなっていった。

しかし、そんな日々は突如として崩れ去った。

彼女たちは、いつもの通り冒険者ギルドにいた。冒険者たちも、それぞれ思い思いの行動をしていた。だが、全く違う行動をしていた人たちが、一斉に動きを止めた。ギルド内に静寂が生まれる。まるで時が止まったかのように動かない彼らの視線は、ある一点を見ていた。ギルドの入り口。開いたドア。そこにいるものへと。

シェルフィたちも例外なく、彼らと同じものを見ていた。そこにいたのは、礼服を着こなした、初老の男性であった。眼鏡のレンズの向こう側にある瞳は、これほどの大人数の視線が向けられているにも関わらず、全く動揺を含んではいなかった。

どこまでも冷静に、彼らを見ている。しばらく彼らの顔を確認するように見ていた

男性だが、ゆっくりとこちらの方へ歩いてきた。複数の屈強な男たちが、その前に立ちふさがり、後ろにいる冒険者全員も――もちろんシェルフィたちも――それぞれの武器を構えた。多くの冒険者がそこにはいたが、その顔が表しているものは一つだった。それは、緊張。


「成る程。私の正体を一瞬で見破るとは。これは、魔王様の期待をいい意味で裏切ってくれるかもしれませんね」


男がそう言うと、彼の体を黒いオーラが包み込む。どす黒い瘴気、そう呼ぶのが相応しいものが、激しく渦巻いている。その光景は、無数の黒い蛇が暴れているように見えた。そしてそれは突然に、弾けたように消し飛ぶ。晴れた瘴気。そこから現れたのは、礼服と眼鏡はそのままに、頭に角が生えた、人型の悪魔のようなものであった。瞳は、まるで、新鮮な血液を注射したかのように真っ赤で、さっきと変わらない、落ち着いた視線で彼らを見る。

その男は、眼鏡を指で押し上げると、ゆっくりと口を開いた。


「皆さん申し遅れました。私は魔王城で執事を担当しております、アーベルと申します。今日は、皆様にお伝えしなければならない事があり、この地に足を運びました。お忙しいところを訪ねてしまい、誠に申し訳ございません」


気味の悪いくらいに礼儀正しいその言葉を、シェルフィたちは黙って聞いていた。

聞き惚れていたのではない。この男が持つ、恐ろしい程の力。それに威圧され動けなかったのだ。彼が語った自身の職歴。それがはったりでないことは、この場にいる誰もが理解せざるを得なかった。


「魔王様より伝言です。『今から四十八時間後に、この王国を焼き尽くす。慈悲はない。お前たちが生き残る術は一つ。我々を倒すことだ。せいぜい、我を楽しませよ』だそうです。それでは、伝言は伝えましたので、私はこれで」


そう言うと、アーベルと名乗ったその悪魔は、あっという間に消えてしまった。

悪魔が去った後には、ただ沈黙が残されていた。しばらくすると、小さな声が上がり始める。


「おい……魔王、ってまじかよ……」


「あのオーラからして本物だろ」


「魔王軍が攻めてくるってことか? この国に」


散り散りに上がっていた声は、どんどんと数が増え、あちらこちらから声が上がる。

彼らの心の中に湧いたのは一つだけ。


「魔王軍ってことは、あの伝説の黒騎士クロスもか?」


「禁断の魔法を使う魔女セリエルも来るのか?」


「破滅をもたらすドラゴン、紅光龍ジガーダもかよ……」


彼らが名前を挙げていく度に、彼らの中の抑えきれない感情が、どんどんと大きくなる。その感情とは、


「おいおい、それって……」


「「「「「「「最高じゃねぇか……」」」」」」」


そう、喜びだ。


「おいマジかよ、あの伝説の魔王に出会えて、その上戦えるなんて!」


「こんな体験ができるなんて、人生捨てたもんじゃないよな」


「あの執事もすごいよな。俺なんか一歩も動けなかったぜ」


「まっ、俺はあいつが攻撃してくるようだったら、いつでもこの剣をお見舞いしてやったがな」


「おっし、戦いに備えて酒を買い込むか!」


男だけではない。


「黒騎士クロス様に会えるなんて……。夢みたい。私、髪を切りに行かなきゃ」


「魔女セリエル、一体どんな美人なんだろう……」


「魔族が作るアクセサリー、前々から気になってたのよね。一つくらいもらっても

ばれないでしょ」


女性も、どこか楽しそうである。シェルフィは、そんな彼らを見ながら彼女は、この冒険者という人間たちのイカレぐあいに苦笑するしかなかった。

かくいう自分も、軽い興奮状態にあることは自覚していた。それに、


「シェルフィ、私たちのラブラブ生活のためにも、絶対勝ちましょう!」


「わ、私も、回復しか出来ないけど、頑張ります!」


どうやら、彼女たちもやる気満々のようだった。




 いつものように服を着こなし、いつものようにエリイとリーリアの二人と合流する。いつもの町を歩くのだが、今日は前にも後ろにも数多くの冒険者が歩いており、彼女たちはその中の一人だった。そして冒険者の行進が行われているその両側に立ち、激励の言葉を送るのは、この町で暮らすほとんど全ての人々である。

一般的にこの国は主に、敵といったら魔王とその配下の魔物たちを差す。

ということは、この国で防衛の役割を担っているのは誰か。それは、日々魔物を退治し人々を助けることで暮らしている、冒険者である。騎士という概念はいるにはいるが、正直なところあまり機能していない。基本的には金持ちが多く、乱暴で嫌みな

態度をとることがしばしばある。あまり国民の為に戦おうという意思もなく、騎士とは名ばかりの存在と化しており、平民――少なくともこの町の人々――には好かれていない。それよりも、自分たちと同じように暮らし、魔物を積極的に倒してくれる冒険者の方が、彼らは好きなのだ。

そんな人々の応援を聞きながら、目的地へと進んでいく。魔王城の方向に歩いていくと、だんだんと空気が変わるのをはっきりと感じた。彼らが日常的に狩っている

魔物。彼らが纏っている瘴気の気配がしたからだ。だが、その濃さが尋常ではない。むせかえるようなその空気に、間違いなく彼らもこちらへ向かっているのが分かった。

そしてすぐに、シェルフィたちは遂に彼らと対峙する。膨大な数の魔物。あまりにも多い。普通の人、あるいは騎士がこれを見れば、背中を向けて一目散に逃げていくだろう。だが彼らは違う。


「よし……久々に楽しめそうだぜ」


「作戦は一つ! とにかく殴れ。だ!」


「おおっ!」


元気のいい人たちだ。だが、自分も負けていられない。シェルフィは肩を回し、体をほぐす。

すると、綺麗に一直線に並んだ魔物の列をかき分け、その人物は出てきた。


「おい、ありゃ黒騎士クロスじゃないか」


「きゃーーっ! クロス様!」


魔物の軍団、その先頭に立ったクロスは、背中に掛けていた巨大な大剣を抜く。

それは、魔王軍最高の剣である彼だけが持たされた剣であり、この世の万物を切り裂いてしまうという代物だった。


「俺は世界最強の剣士、クロスだ! 腕に覚えある者は出てこい! この魔剣の錆にしてやる!」


高らかに宣言する。魔剣は新たな血を求めるように、邪悪なオーラを放っていた。

すると、冒険者の列が割れ、一人の男が出てきた。


「おい、お前。俺を差し置いて剣士とは何事だ」


剣士。その名前から想像するものとはかけ離れた容姿。そこら辺の酒場にいそうな男。出てきたのは、シェルフィにギルドで投げ飛ばされた男、ジャックであった。

そんなジャックを見て、クロスは露骨に顔をしかめる。


「何だ貴様。その取るに足らない剣で、この俺と戦うというのか」


その言葉に呼応するように、剣のオーラが強くなる。


「あ? うるせぇよ。てめぇらを倒すまで、酒禁止ってアイちゃんと約束しちまったからな。とっとと帰って酒飲みてえから、早いとこ始めようぜ」


だが、その威圧感を前にしても、ジャックはただ棒立ちするのみ。挙句の果てには、その場であくびをし始めた。

何たる無礼。真の決闘とは気品と共にあるものだ。それをこいつは――

そんな怒りを体現するかのように、最早用はないとばかりにクロスは容赦なく剣を振り下ろした。

膨大な質量をもった剣が、人間の男の体を叩き潰す。この剣は魔王が力を注いだ魔剣。故に人間など容易く殺せる。そのままその体を真っ二つに断ち――


「アブねぇな、おい」


そんな予想。クロスにとっては当たり前にそうなると思っていたもの。それは、目の前で起こった現象により、打ち砕かれた。振り下ろされたかの魔剣は、あろうことか受け止められたのだ。では誰に? ジャックが持っている剣によって。


「何?」


クロスが発したその声。声には出さなくても、この場にいる魔物全員がそう思った。あり得るはずがない。あの魔剣が、あんな男によって防がれるはずがない。

そんな事、あっていいはずがない。

それを見ていたシェルフィは思う。あの時、ジャックにギルドで絡まれた時、彼が酔っ払っていなくてよかったと。そして何より、彼が剣を持っていなくてよかったと。ジャックのスキル『剣神の手』。この男には似合わないスキル。彼の手は、

触れている剣の力を限界を超えて引き出す力を持っている。彼の手にかかれば、そこら辺の粗悪品さえ、一流の剣と化す。彼は筋力こそ大したことはないが、このスキルはジャックが剣を使うときに限り、彼にそれを自由自在に操れることを可能にするのだ。


「おのれ、貴様ごときにこの俺――」


「おらぁ!」


クロスの言葉はそこまでだった。ジャックが力一杯振った剣。全く洗練されてない、乱暴に縦に振られたその剣と共に、光が迸る。その光は容赦なくクロスを、そしてその後ろにいる魔物たちをも飲み込んでいった。目が痛くなるような光は、まるで世界を照らすかのような、神秘的なものであった。

光が収まると、そこには道ができていた。どういうことかというと、地上を覆いつくような数の魔物の群れを、真っ二つに分けるように巨大な破壊の跡が作られていたのだ。ジャックの正面、彼から遥か先までが、跡形もなく消し飛んでいたのだ。


「すげぇ……」


「流石だな」


口々にそう言う彼らと同じく、シェルフィも彼に対して尊敬の意すら抱いていた。

これで彼が真っ当な人間であったなら、どれだけの人を魅了していただろう。

大変勿体ないことだ、そう思っていた。

ジャックは剣を担ぎなおし、こちらを見た。ちなみに彼が力一杯振るった剣は、

この国が誇る四大聖剣の一つである。彼が振るえばそれは、神の剣と成る。


「何突っ立ってんだ、早くいくぞ」


その声に、冒険者たちは歓声をあげ、彼の後に続いた。


「この飲んだくれ! クロス様の顔、一度でいいから見てみたかったのに、

跡形もなく消すなんて!」


「うるせぇ! お前どっちの味方だよ!」




 魔物の人間の壮絶な戦いの火蓋が、今切って落とされた。

と言えば聞こえはいいが、戦況は魔物が非常に劣勢だった。何せ日常的に魔物を狩っている、言わば魔物殺しのプロなのだ。ろくに知能もない魔物たちは、このごとく蹴散らされた。だが、魔王軍もやられっぱなしではなかった。

魔物たちを蹴散らしながら進む冒険者。彼らの目は、魔王城を捉えていた。

その時、突然地面が揺れる。地震のような、地面そのものを揺らすかのような大きなもの。そしてそれはさらに大きくなり、彼らが立っていられなくなったころ、

一際巨大な揺れと共に地面が割れ、巨大なものが飛び出してきた。


「あ、あれは!」


土を振り払うように体を揺らす度、地面にひびが入り地響きが起こる。そのものは紅蓮のような色をした、巨大なドラゴンであった。遂にその全身を現したそいつは、息を吸う。そして、


「グォォォォォォ!!!!」


空気が揺れるような咆哮。まるで魂を揺さぶられているのではないかと錯覚するような震え。そう、この龍こそ――

紅光龍ジガーダ。

ジガーダはこちらを見る。その瞳は炎のように揺らめいており、その中に宿した怒りが、遥か遠くにいるこちらにも伝わってくるほどだ。ジガーダが口を広げた。

その瞬間、空気の流れが変わるのを感じた。風が、ジガーダの方へ吹いているのだ。いや、風など元々吹いていなかった。するとこれは――


「まずい! ブレスだ!!」


誰かが言ったその言葉を聞いた瞬間、シェルフィはエリイとリーリアを抱えて走りだした。スキルを発動し、冒険者たちの間をすり抜けるようにしてジガーダが向いた方向から少しでも離れようとする。

風が止まる。ジガーダの方を見れば、大きく口が開き、赤くその中が光っていた。

膨張するそれが、今か今かと解放を待っている。そして、遂にジガーダが、その炎を放った。

世界が光る。彼の口から放たれた炎は、その膨大な光でもって世界を照らし、全てを飲み込む。まるで津波のように冒険者を飲み込む炎。

それを避け、ドラゴンに近づいていく。かなり距離があったが、この筋力とスキルを使えばこの短時間でも接近することができる。リーリアを見つからないように隠れさせ、エリイに待機を命じると、ジガーダに向かって一直線に接近し、未だに炎を吐き続けている彼の顎を、思い切り蹴り上げた。顔が大きくのけぞり、体勢が崩れる。その隙にシェルフィは地面を踏みしめると、地面を蹴り大きく飛び上がると、ジガーダの体に飛び乗った。何かが体の上にいると分かったのだろう。ジガーダはその大きな体を揺らして暴れ始めた。そしてその大きな翼を広げると、上に向かって飛び上がった。地上が、見る見るうちに離れていく。不安定な足場。鱗を掴み、何とかバランスをとる。そして、片手で体を掴みながら腕を振り上げると、

その体に向かって全力で拳を振るった。

命中。鈍い音がして、ジガーダが吠える。いくら龍といえど、あの紅光龍に自分の攻撃が効いたと分かり、安心する。だが、すぐにその表情は変わった。

ジガーダを殴った右手。それを見てみれば、真っ赤に染まっていた。彼の血ではない。シェルフィの血だ。鋭い痛みと共に溢れる血は、この鱗の硬さに彼女の拳が耐えられなかったことを意味していた。痛みに顔をしかめる。自分が受けるダメージに見合った攻撃ができているかと聞かれれば、そうとは言えない。ジガーダは苦しんではいるが、彼を倒すまで拳を打ちつけることはできないだろう。両手がミンチのようにぐちゃぐちゃになるのが先だ。ドラゴンは魔法に絶対的な耐性があると聞いた。エリイのとっておきでも、効果は期待できないだろう。

突然、足元が揺れる。慌てて鱗を掴んだ。その瞬間、体を浮遊感が包み込む。

ジェットコースターなどに乗った時に感じるあの感覚だ。内臓が浮くような。

そういった類のアトラクションが苦手な彼女は、思わず目をつぶってしまいそうになる。ジガーダの体を伝うように流れる風が、彼女を引き剝がそうと吹き付ける。

急降下したのだ。鱗を握り、何とか耐える。すると、体を上から押さえつけるような感覚がやってくる。急降下からの急上昇。そして再び舞い上がり、高所からの急降下。これを繰り返すことで、体からふるい落とす気なのだ。

風を切る音がする。ものすごい速度で風が体を打ちつけ、体力を削られる。

彼女は、手の片方を鱗から離すと少し先へと手を伸ばす。何とか掴むと、次は足の片方。そしてもう片方の手。少しずつ前へと這って行く。

強風を少しでも受けないように前へ、前へと進んでいく。背中から首、そこから更に進んでいく。ジガーダが体を揺らす度に何度も振り落とされそうになる。

目的地まであと少し。そして、遂に彼女はジガーダの頭頂部に到達した。

鱗を掴む左手に力を込め、体をしっかり支える。狙いを定め、思い切り右手を振り上げた。その時、突如自身の体が浮き上がるのを感じる。浮遊感が体を支配し、足が浮き、ジガーダの体から離れる。ジガーダが頭を振り上げたのだ。勢いよく放り出されそうになる体。慌てて左手に全力を込め、吹っ飛ばされまいとする。自身の体がふわりと上がる。何秒か空中に文字通り漂う。細長い腕一本で頭を掴み、それ以外の体がふわりと空中に漂うその姿は、遊園地で配られるヘリウム入り風船を思い起こさせた。そして、その直後に彼女は重力を取り戻し、ジガーダの頭に叩き付けられる。鈍い衝撃が体を支配する。だがすかさず離れた右手を鱗に伸ばし、再び両手で掴むことに成功した。

突然、視界が揺れる。世界全体がかき回されるような錯覚を覚えた。様々な方向からかかる力は、彼女を頭から振り落とそうとしていた。何とか掴まり、耐える。

脳が揺らされる感覚がし、独特な不快感が湧いてきた。だがその時、目まぐるしい景色が突如止まった。いつもの、澄み渡る空を認識する。見れば、ジガーダは眼下にいる何者かを見ていた。チャンスだった。ここを逃せば最後、自分は今度こそ

この龍によって体から振り落とされて、遥か下の地面へ叩き付けられるであろう。

体勢を安定させると彼女は右手を振り上げ、その頭の脳天に拳を叩き込んだ。

手ごたえあり。ジガーダの体が傾き、徐々に落下を始めた。高度を保とうとしているようだが、脳が揺れたのだろう、翼を上手く動かせないようであり、墜落する飛行機のようにゆっくりと高度が下がっている。凄まじい風によって、引き剥がされそうになるが、姿勢を低くしなんとがへばりつく。高速で目の前の景色が後ろに流れていくことで、飛行の速度を実感する。

下を見れば、無数の魔物と何人もの冒険者が戦っているのが見えた。最初は豆粒位の大きさだった人が、どんどんとその輪郭をはっきりと現してくる。

近づいていく地面。沢山の魔物と人が入り乱れる戦場。その中でも一際大勢が固まっているところへ突っ込んでいく。それに気づいた何人かが周りに向かって声を出す。


「避けろ! ドラゴンが突っ込んでくるぞ!」


その言葉に一斉にこちらを見た彼らは一斉に逃げていく。だが、その人間の言葉を理解できない魔物は逃げるのが遅れる。そのままジガーダは魔物の群れに突っ込んだ。

体が叩き付けられるような衝撃が伝わる。衝撃によって肺から押し出された空気が声と共に口から漏れた。がりがりと地面を削りながら、巨大なドラゴンによって魔物のことごとくが弾き飛ばされる。農民が見ればさぞ恐ろしく見える魔物も、このドラゴンの巨体の前にはなすすべない。魔物の耳障りな叫び声が、ドラゴンの巨体の下に消えていく。潰されていくもの、吹き飛ばされるもの。様々であった。

だが、ジガーダは四つ足を使って地面を強く踏みしめると、地面が足を中心に亀裂が入る。そして、上に向かって飛び上がった。大きな翼が目一杯開かれ、地上に大きな影を作る。強くそれをはためかせ、彼は再び空に舞い戻った。シェルフィの足元が揺れる。ほんの僅かな揺れだったが、嫌な予感がした。彼女は鱗から指を離すと、少し躊躇い、ジャンプした。少しのジャンプだが、支えを失った彼女の体は風に飲まれて頭から遠ざかっていく。高速で流れていく景色の中、彼女は手を全力で伸ばし、無数の鱗、その一つを掴んだ。体が引っ張られるような衝撃が体を襲い、顔をしかめる。風は未だに彼女を襲い、空中に放り出そうと試みる。もう一方の手も全力で伸ばし、ドラゴンの体に張り付くことに成功した。前を見る。ジガーダはどうやら頭を振ったようだった。その直前のわずかな予備動作を感じ取り、彼女が体に飛び移った直後に彼は彼女を頭から今度こそ振り落とそうとしたのだ。

あのまま頭の上にいれば、恐らく死んでいただろう。だが、正直彼女の握力はもう限界だった。いくらパワーのある彼女といえどもこの状況は、高速のジェット機のボディに張り付いているようなものなのだ。加えて急降下に急上昇、落下の衝撃など、様々な出来事が彼女から力を奪っていた。もう限界だ。

そう思った時、何やら自分の懐が光っているのを感じた。力を振り絞り、何とか取り出すと、それは彼女がこの世界に行くときにもらった、女神の書であった。

そして、そのすぐ後に気づく。何だか鱗を掴む力が戻っていると。力が湧いているのを微かに理解しながら、その書を開く。光っているのは最後のページ。そこにはこう書いてあった。


『新たなスキル、『神眼』を獲得しました。』


「スキル……? なんで今……」


しばらく考えて思い出す。ジガーダが魔物の群れに落下して、文字通り彼らを轢き殺した時。あの時に、魔物を殺したのはジガーダだが、そのジガーダを落としたのは自分だったので、自分の経験値として蓄積されたのか。よく見るとそのページの下に何か書いてある。


『今回取ったスキルは、あなたの人生に関係しているものよ。あなたならそのスキルをどう使うかわかるはず。あなたが勝利を掴むことを願っているわ。 女神より』


「私の人生……」


何故ここまで助けてくれるのだろう。思うところはあったが、そんな時間はなかった。今はこいつを倒すのが先だ。そういう訳で、彼女は二つ目のスキルを発動させた。


「スキル『神眼』発動」


すると、彼女の目には不可解なものが映った。神眼というくらいなのだから、目に関連するスキルなのだということはわかったが、目の前の光景に彼女は困惑せざるを得なかった。どういう訳か、ジガーダの体に、何か青白い発光体があるのだ。

その発光体は、体をまるで血液のように流れ、所々に丸い玉のようなものがある。

更に見ていて、これは彼の体の表面を伝っているのではなくて、彼の体の中に流れているのを透視のようにして見ているのだ、ということに気づいた。

体を掴む手は離さずに、ジガーダの巨大な体をゆっくりと見渡す。体の中心から、末端までその発光体は見え、その途中に丸く光るものがある。星座のようだ、と思った。しばらくそれを見ていると、それは何かを連想させた。それが何かは分からない。だが、この発光体を見て自分は何かを連想したということ、そしてそれが自分に関係しているということは分かった。

だが次の瞬間、視界が回った。くるくると回る。手足を伸ばすが何にも触れず、ただ空を切るだけ。そのまま視界が回転したまま、浮遊感と共にある一定の方向に引っ張られていく。その方向とは、無論、地面だ。


「やば、死ぬ」


当たり前のことが声に出た。そのままどうすることもできずに地面が近づいてくるのを眺める。落下運動に身を任せていると、突然体に何かが巻き付く。そして強い力で横に引っ張られる。巻き付いたものが胴を締め付け、うっ、などという情けない呻きが漏れた。しばらく空中を横移動し、そして止まった。視線を下へ向けてみれば、

そこには地面がすぐそこにある。すると巻き付いていたものがするするとほどかれ、完全に体から離れると同時に、重力によって彼女は落ちる。着地し横を見てみれば、


「リーリア! それに……」


「ゴンスくんです。間に合ってよかったぁ……」


「いつの間に連れてきてたんだ」


「い、いえ。勝手に後からついて来てたみたいで……」


そういうリーリアの横には、黒い巨大な――流石にあのドラゴンと比べるとずっと

小さいが――トカゲがいた。そう、シェルフィが投げ飛ばして倒したあの魔物だ。

あの大狼を倒した後、リーリアがあのトカゲを治したいといった。村を襲った魔物だと勘違いされて気の毒だから、という。それは流石に無理だ、とシェルフィとエリイは言った。もし回復してまた襲ってきたら危険だ、とも。だが彼女はぐったりとしているトカゲを悲しそうに見つめながら、


「私、このトカゲさんと戦ってる時、ずっとモヤモヤしてたんです。私にはこのトカゲさんが、私たちを殺すために走ってきたとは思いませんでした。それなのに私たちは少ない情報でこの子が犯人だと決めつけて……ほら、この子が向かってきたのを見て、攻撃をしましたよね。いえ、責めてるわけじゃないんです。でもほら、この子はもしかしたら、ただじゃれあおうとして向かってきただけなのかも」


普段の彼女からは想像できない程饒舌な姿を見て、二人は顔を見合わせた。そして

しばらく悩んだ後、


「じゃあ、意識が回復する程度まで回復させて、様子を見よう。これでもし、

私たちを攻撃してくるようだったら……」


リーリアが言っているのが本当であったなら、こちらから攻撃しておいてなんて勝手なものだと思ったが、致し方ない。リーリアは何か言いたげな顔をしたが、


「わかりました」


承諾し、横たわる体に手を当てる。トカゲの体が淡い緑色の光に包まれ、そして消える。トカゲの瞼がゆっくりと開き、中にある目がこちらを向くと、一気に目を見開き立とうとする。だが、トカゲの足元だけを滑るようにしていたので、立ち上がることができずにその場でじたばたとすることしか出来ない。じたばたといっても、やっているのが巨大な魔物なので当たれば危険だ。シェルフィは拳を構え、エリイは弓を構えた。リーリアはそんなトカゲに手を伸ばし、あろうことかその腹を撫で始めた。暴れる足が暴れそうで冷や冷やしたが、それにはお構いなしとばかりに彼女は腹を撫で続ける。そして、大丈夫だよ、怖くないよ、私はあなたを傷つけないから、とトカゲに言い聞かせている。すると、激しく動いていた足の動きが穏やかになり始めた。そして彼女が頭に移動し頭を撫でると、トカゲはリーリアの体に顔を擦り付ける。その目は最初の警戒に満ちたものとは違い、安心しきったものであった。


「これって……」


「うん……」


驚く二人の前でじゃれるリーリアとトカゲ。その姿はまるで、飼い主とじゃれるペットのようだった。

結局、リーリアはそのトカゲを手なずけることに成功し、トカゲの名前をゴンス、と名付けた。




 「ゴンスくん、ありがとう!」


リーリアがそう言うと、ゴンスは鼻をふん、と鳴らす。いかにも得意げな表情だ。


「助けてくれたのは有難いけどさ……もう少し優しくしても……」


締め付けられた腹を撫でながらそう言うが、ゴンスはこちらをちらりと見ると、顔を逸らしてしまった。どうやら投げ飛ばされたことをよっぽど恨んでいるらしい。

それでもリーリアの言うことは聞くのだから、彼女の隠れた才能には驚きだ。

ゴンスからリーリアへ視線を移動させると、シェルフィの動きが止まった。彼女の目には、スキルを使ったせいで体の中に奇妙な発光体が流れているリーリアが映っていた。だが、彼女が動きを止めたのは、その光景の奇妙さによるものではなかった。彼女は気づいたのだ。このスキルの意味に。ドラゴンに使ったから見えなかったのだ。正確に言えば、彼女が元いた世界にはいない存在だから分からなかったのだ。シェルフィは見た。遥か上に飛ぶ、巨大な龍を。そして、リーリアの方を向くと、いつぞやと同じ台詞を吐いた。


「私に考えがある」




 「……で」


エリイが呟く。そして空を仰ぎ、


「なんでこんなことになってるんですか――!」


今の状況。シェルフィとエリイはお互いに抱き合っている。お互いを離さないとばかりに背中に手を回して。


「あ、あの。私としては嬉しいけど、ここは戦場、こんなことをしてる場合じゃ……で、でもあなたがしたいっていうなら、私もやぶさかではないけど……」


「ちょ、ちょっとエリイ、落ち着いて。違うから」


興奮しだしたエリイを落ち着かせる。そして彼女に向かって作戦の概要を話す。


「……こういう作戦なんだけど、成功するかは分からない。危険でもある。それでもやってくれる?」


根拠などない。こんなスキルがあの恐ろしいドラゴンに何ができるのか。不安しかない。ただ、他に方法がない。それだけの理由。だが、自分をこの世界に送ってくれた、いけ好かない女神を信じてみる。今はそれしかないのだ。

恐る恐る二人を見る。するとエリイは、


「馬鹿ね、シェルフィは」


「なっ、馬鹿って!」


「あなたはこのパーティーのリーダー。あなたのことを私や、リーリアも信頼している。だから大丈夫。私たちはあなたを信じて、全力でサポートするから」


「は、はい! 私たちは、シェルフィさんの味方です!」


賛同するリーリア。温かいものが胸に広がる。こんな感覚、久しぶりすぎて忘れていた。誰かに心から信頼されるってこんなにもいいものなのか。きっかけこそ女に好かれるこの不思議な体質によるものかもしれないが、この信頼は彼女たち自身のものであればいいな、そうシェルフィは思うのだった。


「じゃあ、リーリア。お願い」


「り、了解! シェルフィさん、エリイさん、気を付けて!」


リーリアがゴンスに何か囁くとゴンスは鼻を鳴らし、口から長い舌が伸びた。

抱き合った二人の体を巻き付けるそれに、エリイは顔をしかめる。


「これは、中々に……」


「私はもう慣れちゃったけどね」


シェルフィはそう苦笑する。強く巻き付いた舌は、二人の体を持ち上げると、

軽くぐん、と動く。そしてそのまま一回転させ、その勢いのまま空に放り投げた。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


叫ぶエリイ。もう何回も飛んだり落ちたりしたシェルフィは慣れてはいたが、それでもこの投擲力には驚いていた。舌によって野球ボールみたいに上に投げられた二人は、そのままぐんぐんと高度を上げていく。

どうしてここまでの芸当が出来るのかというと、ゴンスはそこら辺にいる魔物を大量に食べた。彼女は初めて知ったのだが、魔物にもレベルアップという概念があるらしい。よってこのトカゲの力は前よりも格段に上がっているのだ。

抱き合う二人はロケットのように風を切り、魔物と戦う人々はどんどん小さくなっていく。そして、上を見上げれば――


「いた……」


巨大な翼を広げて飛ぶのは、ジガーダ。人々から離れていくにつれ、ジガーダに接近していく。ゴンスの投擲の精密さに驚きを隠せない。目一杯上がりきった時、彼女たちの目の前には巨大な龍の体が間近にあった。

すると、エリイの体。正しくはその背中から、光が溢れる。それは彼女の背後で形を作り、翼のような形になった。そして、その場で浮遊を始めた。シェルフィはそんなエリイに掴まり、空中にとどまっている。最近新しくエリイに発現した、エルフの奥義だ。ジガーダは、こちらに気づいていない。シェルフィは手を伸ばし、


「ファイヤ」


そう唱えると、手のひらから小さい炎の玉が発射された。それはまっすぐに飛んでいき、体に命中した。まるで煙のように儚く散った火球。全く聞いている様子がない。だが、それでいい。この程度の攻撃、彼には効かないだろう。それどころか、


「弱すぎて、受けたことさえ気づかない」


本番はこれから。エリイが弓を構える。空中という不安定極まるところで、こうも体勢を維持するその様子は、美しさすら感じた。シェルフィはジガーダを見ていた。。彼女の目にはジガーダの中に流れる発光体が見えていた。そして、その流れの中にある丸く光る点も。


「エレメントアロー、ウィンド!」


エリイが叫ぶ。つがえられた一本の矢が、弓から解き放たれた。荒れ狂う風を切り裂いて、風を纏った矢は対象めがけて飛んでいく。飛んでいった先は、先ほど彼女が火球をぶつけた場所。それを目印にしてエリイは撃った。その場所は、エリイにとっては火球が当たった場所だが、シェルフィにとっては違った。彼女の目には、火球を当てたその場所。それは、彼の体を流れる光の中にある、光点だった。


「命中!」


エリイが言う。射った矢は皮膚を貫通し、その点を打ち抜いた。


「グギャァァァァァ!!」


ドラゴンの叫び声が空気を震わす。びりびりと鼓膜が痺れるような音。だが、その叫び声は苦痛によるものではなかった。


「クオォォォォォォン……」


「何あれ。喜んでる?」


エリイの発言の通り、ジガーダはその巨体を逸らし、上に向かって叫んでいる。

だが、その声はまるで、犬や猫が主人に甘えるような。そんな甘い声であった。

そう。あの光点こそ、自分と深く関係しているもの。彼女の職業において、その存在は必要不可欠。それこそ――


「ツボを見れる目、『神眼』だよ


「何か、あんまりかっこよくないわね」


「それは言わないで……」


彼女がこの世界に来る前の仕事。鍼灸師は、いわゆる『ツボ』に鍼を刺したり、灸を焚いたりする。そして、鍼を刺すところというのは、気血という生きるためのエネルギーの流れが露出している場所、すなわち経穴である。要はここがツボであり、彼女はこのエネルギーを見ることが出来る、ということである。


「その人のツボがわかる目……できれば前世で欲しかった……」


「今なんて?」


エリイの問いに、何でもない、と答える。

ジガーダはその快楽に身を震わせ、白目をむいたかと思うと、


「――あ」


そのまま落ちていった。


「すごい、まさかあんなに効くとは……龍も疲れがたまってたのかな……」


「シェルフィ、どうするの?」


「もちろん、追いかける!」


その言葉を聞くと、エリイは急降下を始め、落ちていくジガーダを追いかけた。

気絶――おそらくそうだと思うが――しているにもかかわらず、その顔はいかにも気持ち良さそうだ。ドラゴンでもそんな表情になってくれるのかと思うと、自分の職業が認められたようで、何だか嬉しくなった。

いよいよ地面が見えてきた。冒険者が魔物を倒しているのが見えてきた。圧倒的な力。その様子はまさに蹂躙であり、敵ながら魔物が気の毒に思えた。

落ちるジガーダ。その真下に、何か大きな建物があることに気づいた。黒を基調とした禍々しい見た目。魔物の気配を凝縮したようなオーラ。あれは――


「シェルフィ、あれって、魔王城よね?」


「あ、ホントだ」


――ジガーダの巨体が、魔王城に落下した。




 着陸し、その惨状を目の当たりにする。人類を脅かす魔物の王、破壊の権化が住むあの魔王城は、見るも無残な姿になっていた。ただの瓦礫の山と化したそれを、

呆然と見つめる。瓦礫の中心にいるジガーダは、完全に沈黙している。

その破片の一部がかすかに動く。そして盛り上がったと思うと、中から出てきたのは、


「「……女の子?」」


城の欠片がパラパラと体から落ちる。こちらを睨むその少女は、とても美しい容姿をしていた。純白のその髪は、ホコリによって汚れてしまっているのが惜しい。

そしてこちらを睨むその瞳は、まるで血のような赤だった。

だが、二人はすぐに気づいた。この少女の纏うオーラが、人間ではないことに。

いや、それどころか、魔物のそれをはるかに凌駕するものであることに。

濃密な殺意が痛い程伝わってくる。少女はわなわなと体を震わせると、


「あんたたち、私の家に何してくれてんのよ!」


「……」


まるで、人間の少女のように地団駄を踏むその姿は、魔王というよりは、見た目通りの少女、といったところだ。予想と違う反応に、シェルフィたちは唖然とする。

てっきり見た目は幼いが恐ろしく冷酷な少女、というのを想像していたのだが。


「ちょっとそこ! 聞いてんの!」


「えっ、あぁ、うん。聞いてるよ。どうしたの?」


無意識に、幼稚園児と話しているような口調になってしまう。それを聞いて彼女は更に腹を立てたようだ。鼻息を荒くしてこちらを指さして、


「あんたねぇ! この魔王セリエルに対して、タメ口とは何様よ!」


「魔王⁉」


そう叫ぶエリイだが、シェルフィは彼女よりは驚きは少なかった。何せこれほどの

オーラなのだ。並大抵の魔物では到底だせないものであり、したがってこの少女と出会った瞬間、魔女か魔王だ、と当たりを付けていた。

それにしても、


「セリエルって……」


セリエルとは、魔女の名前だったはずだ。恐ろしくも美しい魔女セリエル。


「セリエルって、魔女だったはずじゃ……」


エリイのその問いに、小さい魔王は怪訝な顔をして、


「魔女? 人違いじゃないの? 我が魔王軍でセリエルの名を持つのは、我、

この世を統べる魔物の王、魔王セリエルのみであるぞ!」


そう言い、えっへん、とばかりに胸を張るその様子は、とてもかの魔王には見えなかった。そして、シェルフィは、魔女セリエルとは魔王セリエルだったということに気づいた。この世界の人が、魔王とは男である、という固定観念から彼女が魔王とは思わずそれに匹敵する力を持つ魔女、という存在としてその名を広めたのだろう。まあ確かに、この少女を目の前に出されてこれが魔王です、と言われてもピンとは来ないだろう。

すると、魔王の後ろ、かつて魔王城であった無残な残骸の山。その一部が盛り上がり、一人の人物が出てきた。


「はぁ、はぁ……魔王様、あなたが今話している相手は人間ですよ! 魔王としての威厳ある態度で接するべきでございます! 」


体中のあちこちが傷だらけで瓦礫の山から出てきたのは、シェルフィたちのギルドに宣戦布告をしに来た――


「うるさい! アーベルは黙ってて! この人たち、私のお家を壊したのよ⁉

けちょんけちょんにしてやらないと、気が済まないわ!」


「セリエル様! ご自分のことは私ではなく我、とお呼びくださいとあれほど……後でお菓子をあげますから、今は怒りを抑えて、どうか魔王として品格のある態度を「うるさいっていってるの!」ぼほぅ!!」


セリエルの拳がアーベルに命中し、その体が吹っ飛ぶ。何度かバウンドした後、

仰向けに倒れ、動かなくなった。KОというやつだ。

そんな魔王は頬を膨らませながら、


「全くもう、アーベルったら私がお菓子で何でも言うこと聞くと思ってる!

私はそんな単純じゃないもの。失礼しちゃうわ!」


そうして魔王はこちらを指さし、


「あんたたち、覚悟しなさい! 私に喧嘩を売ったこと、後悔するがいいわ!」


喧嘩を売ったのはそっちだろう、そう言ってやりたかったが、この少女が持つ力は

本物だ。おそらく、自分たち二人を倒すことなど、朝飯前だろう。

――どうする。

今更ながら、どうしていいか分からない。二人で逃げる? 戦う? 命乞いをする?

いずれにしても、助かる気がしない。こんな姿と態度で忘れそうになるが、彼女は現に数々の国を襲い、焼き尽くしているのだ。こんな人間二人に対して慈悲はないだろう。今何かをしようとすれば、彼女は自分たちを襲う。そう確信するほどの濃密な怒りが彼女からは感じられた。周りを見る。冒険者たちは、未だ魔物と戦っている。力でいえば冒険者が圧倒的に上だが、魔王軍が使役する魔物は膨大な数だ。冒険者がいくら魔物を蹴散らしても、次から次へと襲ってくるので埒が明かない。それに、強力な魔物はまだまだいるのだ。一向にお互いが譲らないこの状況は、言わば膠着状態であった。自分たちの戦いで精一杯なので、こちらに回せる余力はない。


「シェルフィ」


エリイの声。


「私が全力で時間を稼ぎますから、あなたは離れて何とか冒険者を集めて下さい。

大丈夫。時間はばっちり稼いでみせますよ」


――魔王を睨む彼女の目には、覚悟が宿っていた。


(……あぁ)


エリイは、自分の命にかえても、私を守る気なのか。こんな何者でもない、私の為に、彼女は――


「大丈夫だよ。エリイ」


そう言って、シェルフィは魔王に向かって歩み寄る。

大丈夫。必ずあなたは私が守る。私にしか、出来ないこと。それをする為に、彼女の元へ行かなくちゃ。

決意を込めて、歩いていく。魔王はそんな姿を見て、


「あはは! 二人ならまだしも、一人なんて! いいわ! 私の力でもって、壊し尽くしてあげる!」


「――魔王セリエル」


立ち止まり、声をかける。魔王は笑いを含んだ声で、


「なあに? 今更命乞いしたって遅いわよ?」


「命乞いじゃなくて。一つお願いがあるんだけど、私の攻撃を一度だけ、受けてくれない? そしたら何をしてくれてもいいから」


「はぁ?」


魔王の顔に怒りが浮かんだ。


「なんで、ニンゲン風情の攻撃をこの私が受けなきゃいけないのかしら」


「――怖いんだ」


「――は?」


魔王を見るシェルフィは、笑いをこらえきれない様子で続ける。


「あぁ、成る程ね。私のことが怖いから、一度も攻撃を受けてくれないんだ。魔王っていうものだから、どんな強者かと思ったけど――」


そこまで言ってからシェルフィは、目の前のこの少女に自身の出来る最大限の煽り顔を見せながらこう言った。


「あなたって、とんだ腰抜けなんだね」


「――っ、いいわ! この虫けら! そこまで言うんだったら受けてあげる! そのちっぽけな体の全力を私に当ててみなさい! その後に、あんたら二人、魔物の餌にしてあげる!」


そうして彼女は自身の手を大きく広げた。受け入れのポーズ、いつでも打ち込んでこい、ということなのであろうか。

それに応えるように、シェルフィは魔王に近づいていき、遂に彼女の目の前に立った。お互いに至近距離で向かい合う。魔王は余裕そうな表情で笑う。


「ほら、早く」


「言われなくても――」


シェルフィはそう言うと、目にも止まらぬ速さで腕を伸ばし、魔王の背中に回すと、


「――なっ、シェルフィ⁉」


エリイの声が響く。エリイは信じられない、といったようにわなわなと口を震わせている。それもそのはず。何故なら彼女は――


「んっ……」


「ンむ――⁉」


魔王とキスをしているのだから。


「ちょっ、貴様……! 一体何して、んぅっ――」


驚愕の声を上げる彼女を無視して、その口をふさぐ。彼女の口は、柔らかく、それでいて、しっかりとした弾力があった。彼女には何も語らせまいと、口と口とを密着させる。


「んん、んむ――! ん、あがっ ⁉」


そして彼女の口を無理やりこじ開け、その中に舌をねじこんだ。今まで、前世を含め、キスをしたことなど一度もない。だが、この状況を乗り切るにはやるしかない。信じるのだ。自身の体質、同性に異常に好かれるというこのアドバンテージを。

自身の舌を、彼女の舌に絡ませる。腕の中で魔王は抵抗しているが、どういうことだろう。シェルフィが力を込めれば、抑えられる程度の抵抗しかない。彼女の力を持ってすれば、このような拘束、いともたやすく振りほどける。そして宣言通り、目の前に突っ立っている彼女を殺せばいいのだ。

なのに、それをしないということは――

息が続かず、口を離す。お互いの唾液が糸を引き、何とも言えない背徳感が自身の心に湧いて出た。すぐそばにある少女――魔王――の顔は、まるで普通の人間のように可愛らしいものだった。頬は赤く染まり、目には涙を浮かべながら、息は上がっている。実年齢は知らないが、見た目は完全に未成年の少女なので、イケナイことをしているような気分になった。


「はぁ、はぁ、あ、あんた。何してんのよぉ……。私、初めてだったのに」


涙ぐみながらそう言う彼女に、罪悪感のようなものが芽生えた。だが、ここで止まってはいけない。エリイやリーリア、この町の人々を救うためにも、全身全霊でもって彼女を落とさなければならないのだ。

頭で考えずとも、次の行動は理解していた。実体験がないので、ドラマなどで見た浅い恋愛知識を総動員して、彼女は自身のできる全力を尽くす。

魔王を改めて強く抱きしめ、その耳元に口を寄せる。そして、囁くような声量で、


「セリエル。一目見た時から、あなたのこと、とっても可愛いと思ってた」


「なっ、えっと、わ、私、我は魔王だぞ。そのような言葉遣い、不敬にも程が」


「セリエル。あなたの名前はセリエルでしょ? 一人の可愛い女の子。キスしたくらいで真っ赤になっちゃうなんて、ホントに可愛い」


そう言う自分も、実際は心臓の鼓動がうるさかったが、自分のことで頭がいっぱいで、そんな事には気づいていない様子だった。

そしてそれを言われた彼女は、まるでゆでだこのように顔を真っ赤にさせ、


「かわっ! 可愛いなんてっ、そんな私は魔王、だから……」


そんな彼女にシェルフィは、トドメとばかりに、


「セリエルは可愛いよ。大丈夫。私の前では、一人の女の子にしてあげるから。あなたは安心して私に身をゆだねて?」


「あっ、あっ、えっと――」


「セリエル。私の彼女になってよ。ううん――」


唇が触れそうなほど、顔を近づけ、


「私の女になって? いいでしょ?」


「――――」


魔王の頭から、ボフン、と蒸気が出てきた。魔王は静かに目を閉じると――


「……きゅう」


気絶した。


「うっ、うっ、そんな、シェルフィ……私じゃなくて、魔王を選ぶの?」


「おいおい、すげぇな……あいつ、魔王も落とせんのかよ」


「私もシェルフィ様に落とされてみたいかも……」


「シェ、シェルフィさん、戦場の中心で、こ、こんな大胆な……」


エリイだけじゃない。もう既に魔物は倒したようだ。大勢の冒険者がこちらを見ている。リーリアも、こちらを見て顔を真っ赤にしている。

いや、倒したのではない。魔物はこちらに向かって首を垂れている。

いわゆる土下座、というやつだ。

大小様々な魔物たちが、シェルフィを中心に。これはもしや……

冒険者の声がする。


「魔物たちが、シェルフィに敬意を表してる……」


「シェルフィを認めたのか」


「ということは……」


まさか。嫌な予感がした。魔物は顔を勢いよく上げると、一斉に何かを叫び始めた。膨大な数の魔物が叫んでいるので、空気がビリビリと揺れるようだ。

そして、魔物たちが何を叫んでいるのか、彼女はすぐに理解した。ほとんどが人間の声とはほど遠い叫び。それに交じって、かすかにこんな声が聞こえていたからだ。


「シェルフィ万歳‼ 貴女を魔王の妻として迎える‼ シェルフィ万歳‼」


「……なんてこったい」


一片の曇りもない空を見上げる。

――お母さん、お父さん。聞いてますか。私は異世界で、魔王の妻になりました。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 最初にこの世界に来た時は、一体どうなるのかと思った。

前にいた世界とは全く違う、未知の世界。もう帰りたい、と思うこともあった。

家族が恋しくて泣いた夜もあった。命の危険にさらされ、もう嫌だ、と感じた時もあった。自分の全力を尽くしても、守れないものもあった。

結局、どの世界にも等しく苦しみや悲しみ、そういったものはあるのだろう。

それらから逃げる事など出来ない。この世界もまた、例外ではないのだ。

――でも。そうだとしても。

この世界は、自分が思っているよりよっぽど酷くて、そして、自分が思っているより

とても素晴らしいものなのだ。

苦しみがあれば楽しさもある。それは案外、自分の近くに転がっていて、気づいていないだけかもしれない。


「ねぇ、シェルフィ、今度の休みに二人っきりでピクニックに行かない?」


「ほう、この魔王セリエルがいるというのに、目の前で妻を誘惑するとはいい度胸だ」


「シェルフィはあなたの妻ではありません! 大体そんなの、魔物どもが勝手に言ってるだけじゃないですか!」


「ほう? ならどっちがシェルフィの妻に相応しいか、今日こそ決着をつけようぞ」


「わ、私もシェルフィさんと二人で出かけたいです……」


「まあまあ、みんな落ち着いて」


――大変なことも沢山あるだろうが、彼女たちと一緒であれば、何とかなる気がする。


「よし! ではより多くの邪神の部下を倒した方が、シェルフィの妻としよう!

それでいいな? 負け犬ども」


「やってやろうじゃないの! 完膚なきまでに叩きのめしてあげるわ!」


「わ、私も頑張ります」


「それは騎士たちが倒すって言ってた気が……。勝手に戦争仕掛けるのは

不味いんじゃ……」


「大丈夫だ、我がフィアンセ。この魔王セリエルがやったとしれば、誰も口は出せん。……私が勝ったら、二人だけでイチャイチャしようね♡」


――やっぱり大丈夫じゃないかもしれない。           

                                  

                                  終わり

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百合小噺 ワンダーマン @natto700

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