H 毒ある蛇は牙を隠す
「はい。この式はですね。このXに、この式を代入すると——」
静かな教室に響くよくとおる声。方程式の解法を説くその声と共に、チョークとシャープペンシルがそれぞれ子気味いいリズムをきざむ。不規則なリズムは、時計の秒針の規則的なリズムと混ざり合い、教室の後方、開け放たれた窓から外へと流れ、はるか上空、雲一つない空へと消えていった。
「はい。では次はこの問題からなので、解き方を自分なりに考えておいて下さい」
生徒たちに要件を伝えるその声に、彼らは授業中と変わらない様子で、集中した面持ちで聞き入っている。教室全体の生徒を見渡す動きに合わせ、後ろに束ねた黒髪がゆれる。艶やかなその髪は窓から差し込む光を受け、美しく輝く。
「ではまた明日」
そう言い残し、扉を閉める音が鳴る。廊下を歩く足音が完全に消えるまで、生徒たちは誰一人として声を上げなかった。足音が消え、教室に静寂が訪れると、生徒の声がまばらに上がり始める。数秒後、教室は喧噪に包まれた。それぞれの口から出る言葉は一人一人違うが、皆一様に同じことを、正確には同じ人物についてを語っていた。
「理恵先生、やっぱ美人で最高だよな」
「ほんとほんと。この学校年寄りしかいなかったから、なおさら嬉しいよな」
「理恵先生、すごい若そうだけど、何歳なんだろう。私、今度聞いてこようかな」
生徒たちが口々に言う『理恵先生』とは、この学校で数学の教鞭をとっている、
有野川理恵のことである。今年度から赴任してきた若い教師であり、その美貌、
真面目で落ち着いた雰囲気も相まって、学校内で圧倒的な支持率を持つ存在である。彼女の授業はわかりやすいと評判であり、教えを乞えば、わかるまで教えてくれる補修付きで、先生たちからの評価も高いという、口を開けばいい評判しかでないような人物であった。
昼休み、学生たちはそれぞれ数人の学生と固まり、昼食をとっている。教室の右後ろに集まる、比較的多い人数で形成されたグループの中で、男子たちが弁当をつつきながら、言葉を交わす。話題は、ついさっきまで教室の前で方程式の解法を説いていた美人教師のことだ。
「あんな美人ってことはさ、彼氏とかいるのかな」
「いるんじゃねぇの。仮に今いないとしても、俺らにどうしようもないだろ」
「告ったら、ワンチャンないかな」
「ねぇよ」
そのような品のない話を大声で話す思春期の男子生徒たちを傍目に、少し離れたところで、女子生徒の集まりが、同じ人物の話題で会話に花を咲かせていた。
「理恵先生ってさ、学校だと清楚で穏やかって感じだけど、外だとどうなんだろ。なんか裏の顔みたいなのもってそうじゃない?」
花というにはいささか華やかさに欠けることを口にする女子生徒に、すかさずもう一人も同調する。
「わかる! なんか男の人めっちゃたぶらかしてそう」
男性陣が聞いたら卒倒ものであるが、そんなことはおかまいなしとばかりに、妄想に近い憶測で盛り上がる女子二人。しかし、そんな二人をよそに会話の輪に入らずにいるものが一人いた。
「あはは! やっぱそう思う? ねぇ、瑠璃はどう思う?」
瑠璃と呼ばれるその少女は、イチゴ・オレを飲んでいた口をストローから離し、
思考を巡らせる様子を見せる。しばらくするとやや遠慮気味な様子で、
「ん——。どうかな。ちょっとよくわかんないや。あんまり話したこともないし」
「えぇ。なんかないの? 授業中とか見ててさ、何々っぽいな——とか。ちょっと感じたことでもいいから」
はっきりとものを言わない瑠璃に、じれったい様子で聞くが、茶色の髪を左手で弄んで困ったように笑いながら、
「うーん。やっぱりわかんないや」
と言う。なんとも手ごたえのない返事しか返ってこないので、興をそがれた様子でもう一人の友人のほうに向き直り、そのまま件の話を再開し始めた。その時、放送の開始を告げる音が鳴り、スピーカーの向こうから良く通る女性の声が聞こえる。
「三年三組辻原瑠璃、繰り返す、三年三組辻原瑠璃。至急、職員室に来なさい」
「おっ、噂をすればじゃん。瑠璃、あんたなにやらかしたの」
「ちょうどいいじゃん。帰ってきたら理恵先生のことどう思ったか聞かせてよね」
案の定、大きな反応を示す二人。それに苦笑いを返しながら、教室を出る。後ろからしつこく投げかけられる声に、何かしらの反応を返した気がした。扉を閉めると同時に、自然と大きなため息が漏れていた。廊下に出た彼女は、職員室への道を歩き出す。その足取りは、昼休みに二人の『友人』へと向かうものよりもいくぶんか軽かった。
彼女が職員室への扉を開けると、奥のほうにお目当ての先生がいるのが見えた。何か一枚の紙をもっており、それを見つめる顔はどこか険しい。その紙こそ、自がここに呼ばれた理由だと、瑠璃はわかっていた。立ち止まることなく、真っ直ぐ先生の元へと向かう。先生はこちらの存在に気づくと机の上に目をやり、筆箱と先ほどの一枚のプリントを持つと、こちらに向かって歩いてくる。お互いの距離が縮まり、目の前に来た先生は唇をややこちらの耳に寄せ、軽くささやく。
「こっち」
そのまま瑠璃をすり抜け、職員室の扉へと歩く。瑠璃の方もくるりと向きを変え、先生についていく。。二人は職員室を出ると、廊下を進み右手にあるかなり小さめの教室に入る。そこは授業では使われず、演劇部の衣装置き場となっている所だった。積極的には使われていないこともあり、足を踏み入れると埃っぽいと感じる。部屋の中央に長机が二つ並んでおり、それをはさむようにパイプ椅子が並べてあった。二人は手ごろな席に、向かい合って座る。扉側以外の三辺の壁沿いに、演劇衣装がお行儀よく並んでおり、中央に座る二人は大量の衣装たちに囲まれる構図になる。物珍しそうに室内を見渡す瑠璃に、おほん、とわざとらしく咳払いをした後、
「今日、どうして呼ばれたかはわかっているよね?」
真剣な面持ちで言うと、
「うん。そのテストのことですよね」
あっけらかんと返す瑠璃に、若干の呆れをにじませながら、
「わかっているなら話が早い。全く、どうしちゃったの? 去年はあんなに得意だったのに」
そう言いながら、テスト用紙を瑠璃の前に置く。用紙の右上には、二という数字が二つ仲良く並んでいた。この学校は平均点の半分以下の点数ををとると特別補講の対象となる。当然成績にも大きく響き、彼女は二年生になってからの初めてのテストで、凄まじい点数をたたき出したのだ。もちろん悪い意味で。
「一年の頃は学年上位者の常連。赴任してくるときに、とっても数学が得意な子がいるって聞いてたけど……」
そこまで言うと、一旦言葉を止め、瑠璃の顔を見つめる。声が途切れたのを聞いて、瑠璃は並んだドレスたちをこっそりと眺めていた目をふと先生の方へ向ける。
「数学、嫌いになっちゃった?」
そういう彼女の顔はどこか悲しそうで、自信なさげに眉が下がっている。そんな顔をされると思っていなかったのか、瑠璃はばつが悪そうに視線を逸らし、
「別に……嫌とか……そういうわけではない、ですけど」
そう口ごもる。
「まあ、とにかく」
先生は姿勢を正し、
「今日の放課後は何か予定はある? なければ今日は一緒に補講をしましょ。大丈夫。私がしっかり教えるから」
笑顔でそう言う。瑠璃はこくりと頷きながら答える。
「わかりました」
「……」
急に黙ってこちらを見る先生に、彼女は居心地悪そうに肩を揺らしながら、
「……あの……どうかしました?」
おずおずと尋ねる彼女に、ああ、と声を漏らし、
「いや、補講を言い渡された子ってだいだいイヤそうな顔するんだけど。
瑠璃ちゃん、やたらと物分かりがいいっていうか……心なしか嬉しそうに見えたから」
「いえ……別にそんなことは」
そう答える彼女に、そう? と返すと、
「まぁとにかく、今日の放課後にこの教室にきてね。今日は演劇部はお休みだから」
演劇部の顧問である彼女はそう言うと、
「じゃあそういうことで」
ニコリと笑って見せた。
放課後、例の教室に来た瑠璃は、扉を開ける。先生はまだ来ていないようだった。室内に入り、椅子に座る。外から笛の音や生徒の掛け声が微かに聞こえる。
部活動にいそしむ声を聞きながら、椅子にもたれかかる。微かに聞こえるこの音色は、吹奏楽部のものだろう。遠くから聞こえるそれらがここの静けさを際立たせ、瑠璃はまるでこの教室が、この世界から隔絶された空間のように思えた。しばらくそれらに耳を傾けていると、微かに誰かが廊下を走る音が聞こえる。だんだんはっきりと聞こえてくるようになり、その音が扉の前まで来ると、勢いよく扉が開かれた。
「待たせて……ごめんなさい。少し、やることが、長引いちゃって」
そういう彼女の声は荒い息によって途切れ途切れであった。
「大丈夫ですよ。さあ、やりましょう」
そうして瑠璃は筆箱を机の上に出す。先生の方も椅子に座ったので、シャープペンシルを取り出し、数回ノックをして芯をだす。そこまでしたところで、先生がこちらをじっと見ていることに気づく。
「……何ですか?」
訝しげにそう問う彼女に、
「まずは軽く雑談でもしない?」
急にそんなことを言う彼女に、瑠璃は、困惑を顔に出す。先生は頬杖をつくと、
「私たちってお互いちゃんと喋るの初めてじゃない? 瑠璃ちゃんのこと、まずはちゃんと知りたいなと思って」
ニコリと笑いかける。
「あっ。でも放課後の補講なんて早く終わらせて帰りたいよね。ごめんなさい、じゃあさっさと始めちゃ――」
「いいですよ」
「え?」
素っ頓狂な顔をする先生にクスクスと笑いかけながら、
「先生が言い出したのに何そんな顔してるんですか。しましょう、雑談。私もちょうど誰かとおしゃべりしたい気分でしたから」
それを聞くと、先生の顔が安心したように緩む。
「そ、そう? なら良かった。じゃあまずは――」
両腕を机の上に置き、瑠璃のことを見る。その瞳はキラキラとした輝きを放っている。授業中に生徒たちをせわしなく見渡すその目の奥からは、いつも若年教師らしい熱意のようなものをひしひしと感じた。瑠璃は、この人は、本当にこの仕事がやりたくて教師になったんだなと思った。そういう精神が少なからずあの人気に影響しているのだろう。だがその目には熱意の他にも――
「最近学校はどう? 楽しい?」
一発目の質問は、そんなありきたりなものだった。だが、問われた彼女にとっては中々に難しい質問であった。正直に言ってしまえば、全く楽しくない。いやいやながら登校し、友達としての体裁を保つために、彼女らの話にうんうんと頷く。そんな生活、全くもって楽しくはないが、それを言ったところで先生を困らすだけであるし、自分自身、解決を求めてはいない。そんなわけで、少し考えこんだ後、
「別に……普通ですね」
口から出たのは、そんな当たり障りのない回答だった。
「普通……友人とは楽しく過ごせているってこと?」
痛い切り返しだが、瑠璃はごく自然に、
「はい。それなりには」
嘘をつく。先生は多少考え込む様子を見せたが、すぐに頷き、
「そう。それならよかった。まぁ、何か困ったことがあったら言ってね」
そう言って笑いかける。その屈託のない笑みに、瑠璃の胸にふつふつと熱いものがこみ上げてくる。彼女の目を見て確信する。
やっぱりだ。やっぱりこの人は――はやる思いを抑えてペンを持ち、問題を解き始めた。
補講問題にペンを走らせる瑠璃を見て、有野川理恵は驚きを感じていた。彼女の予想よりもかなり早く問題を解いており、テストであの点数を取ったとは到底思えなかった。彼女が助けを貸す暇もなく、瑠璃は問題を解き終えた。
「やっぱりやればできるじゃない。これは、次のテストが楽しみだよ」
理恵は、そう嬉しそうに笑う。そして、荷物を持って職員室に戻ろうとするが、
「すいません。最後にこっちから質問いいですか」
突然の発言に一瞬驚いた顔をするが、すぐに笑顔を取り戻し、
「うん。いいよ。どんな質問?」
彼女の問いかけに若干の沈黙が流れる。
「先生は……」
「うん?」
「先生は、好きな人とかいますか?」
小さな声で放たれたその質問は、彼女の予想とは大きく外れたものだった。
てっきり進路相談か何かだと思っていたので少々面食らってしまうが、すぐにいつもの笑みを取り戻し、
「私? 私は……今はいないかな」
「ホント? ホントですか?」
身を乗り出してそう問う瑠璃。今までの若干冷めた態度とは違う積極的な態度に、またもや驚かされる彼女。
「うん……本当」
そう答えると、彼女は肩をなで下ろし、どこかほっとした表情を見せる。
「瑠璃ちゃんは? 誰か好きな人がいるの?」
「私は……」
そこまで言うと、そのまま黙り込んでしまう。そんなに言いにくいのだろうか、と彼女は思う。彼女としては、もっと気軽な、それこそ休み時間に友達同士で話すような感じを予想していたのだが。瑠璃は先生の方を見て、何やら意味深な微笑みを向けてくる。その頬は僅かだが赤みを帯びている。これではまるで――
「……先生のことが好きかな」
告白ではないか。
――沈黙が場を支配する。
教え子から突然告げられたのは、紛れもなく愛の告白。混乱する頭には、様々な疑問符があふれ、氾濫していた。
――教師と生徒。
――成人と未成年。
――女同士。
なぜ自分と? いつから? きっかけは? 疑問はいくらでも湧いて出てくる。
出てくるが。そんな頭でも一つだけわかったことがある。それは――
(……あぁ。本気なんだな)
自分を見つめるその目のその奥には熱がこもっていて、冗談でも何でもないということがひしひしと伝わってくる。
――でも。いや、だからこそ。彼女はこう言わずにはいられなかった。
「本気……?」
「はい。本気です。」
無情にも帰ってきたのは力強い肯定だった。深く息を吐く。こんな時、どうすればいいのか。大きな志を胸に、教員採用試験に臨んだあの頃の自分も、まさか生徒から、それも女子からの告白を受けることになるとは思いもしなかっただろう。
彼女は向かいにばれないように深呼吸をする。採用試験、まさにその面接の直前にやったように。頭の中を整理し、伝えるべき言葉を慎重に選ぶ。
「……ごめんなさい。私は教師だから。だから、あなたの告白は受けられない」
ごくごく当たり前の回答だった。教師として、当たり前の返答。大人として、正しい返答。
「……」
今度は返答を受けた方が黙り込む。顔はうつむいているので、その表情を窺い知ることはできない。もしや泣かせてしまったのかと思い、動揺が走る。彼女としては、あの返答以外の選択肢はなく、本人もそれを承知の上で言ったのか思っていた。にわかに申し訳ない気持ちが起こり、彼女に手を伸ばす。無論、慰める為に。
すると突然その腕が摑まれる。摑んだのは、もちろん目の前の瑠璃である。
痛くはないが、しっかりと握られたその手からは、『離さない』という意思を感じる。
「……あの……瑠璃ちゃん?」
恐る恐る聞くが、彼女は沈黙を破ろうとはしない。
「あ、あの。瑠璃ちゃん、どうし――」
いつの間にか、瑠璃の顔が目の前にあったことに気づく。整った顔立ち。茶色の髪から漂う甘い匂いがかすかに香る。直後、柔らかい感触が唇に触れる。
キスをされたということに気づいた時には、既にその柔らかさは離れていた。
呆けたように瑠璃を見つめる。今自分は、さぞだらしない顔をしているのだろう。
彼女はそう思った。キスをした当の本人は、
「……じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
何事もなかったかのように笑いかける。教師になってから、年はそう立っていないが、数にしてみればそこそこの生徒を見てきた。ある程度はこの年の男女が考えることはわかるようになってきたし、さっきまでは彼女の人となりは把握していると思っていた。
――でも今は。
(わからない……)
もしかすると、その時の自分にはそれを理解するだけの余裕がなかったのかもしれない。その後、家に帰り自分があの後何をしたのか思い出そうとしても、ちっとも思い出せなかった。だが、あの感触。あの柔らかい唇の感触だけは、どうやっても忘れられそうにはなかった。
職員室の比較的後ろの方に彼女、有野川理恵の席はある。皆が彼女に抱いているイメージに違わず、机は綺麗に整頓されている。その上に一枚の紙を広げて、難しい顔している彼女を見て、隣の席の中年男性が話しかける。
「有野川先生、どうしました? そんなに難しそうな顔をして」
「あぁ、伊藤先生。いえちょっと、昨日のテストのことで」
頬を搔きながら困ったようにそういう彼女に、ははん、と合点がいった様子で指を鳴らし、
「さては例の彼女ですな。辻原瑠璃」
彼女はえぇ、と声を漏らし、
「前のテストに負けず劣らず、今回のテストもひどいもので」
「はぁ。それはまた……お疲れ様です」
彼女の心底参った様子に、苦笑交じりに労いの言葉を送る。それに同じく笑みを返す彼女だったが、実際の所、彼女が悩んでいるのはそれとは別にあった。
――二か月前。あの忘れもしないあの日。あの日のことを考えると、あの感触が蘇る。変わらずに。もしかすると、さらに鮮明に。そんな思考を振り払うように、再びテストの採点に取り掛かるのだった。
「ねぇ、瑠璃ちゃん。あなた手抜いてるでしょ」
二か月前と同じ教室で、開口一番にそう告げる。
「まず、毎日やる小テストがあなた普通によくできているの。この点数で今回のこのテストの出来はおかしいのが一つ」
彼女は授業中のように、うんうんと頷きながら聞いている。理恵はさらに続けて、
「そしてこのテスト。あなたが合っていた大問の二。これは最初の方の問題だけどかなり難しいの。テスト作成者の半田先生の嫌がらせ問題。解けたのは学年のほんの少しだった。これが解けているのが二つ」
その様子は、さながら華麗に犯人を追い詰める名探偵であった。
「……三つ目は?」
心なしか口元に薄く笑みを張り付けているように見える瑠璃が、静かに尋ねる。
傍から見れば、本当に推理小説ごっこをしているようにしか見えないだろう。
そして、彼女の三つ目。これが、彼女がそのような推理をするに至った主な理由であった。しかし、この理由は彼女の口から自発的に言うには、少々気が重たかった。何せこの理由が全くの思い込みであったら。そうであったら、自分はとんでもなく自意識過剰ということになる。ちらりと瑠璃を見る。どうやら、こちらから言うのを待っているようだ。彼女は諦めて口を開いた。
「……あなたが私を好きで、私と二人きりになりたかったから」
言い切るのにかなりの精神を削った気がした。彼女は楽しそうに笑い、
「正解です。大当たりですよ、先生」
犯人が自白する。どうやら、彼女の推理は的を射ていたようだった。
「……私、前にあなたの告白は受けられないって言ったわよね?」
ありのままの疑問をぶつける。
「はい。言いましたね」
彼女は素直にうなずく。
「ならどうして……」
困惑が広がる理恵に、瑠璃は瞳を覗き込むようにして彼女を見ると、
「受けられないのは知ってます」
「だったら……」
「なら、先生が私のことを好きになってしまえばいいんです」
彼女の言葉を遮るようにそう言い放つ。理恵は、唖然とするほかなかった。
相手が自分を受け入れられないから自分を好きにさせるとは、何がどうなってそのような結論に至ったのか甚だ疑問だが、彼女にはそれよりも気になることがあった。
――彼女、こんな性格だっただろうか。自分が知っている辻原瑠璃は、もっと大人しくて、何というか、無気力そうな人物だったはずだ。
「ねぇ、先生……私じゃダメですか……?」
いつの間にか伸びた手が、頬に添えられていた。優しくなでられ、熱をおびるのを感じる。もう一方の手が伸び、机の上にある彼女の手の甲を指でなぞられる。
骨に沿ってその細い指でなぞられていくたびに、ゾクゾクとしたものが背筋を走る。
「先生……逃げなくていいんですか?」
顔を近づけてささやく瑠璃。駄目よこんなの、とさっきから言っているつもりだったが、実際にはか細い声が漏れただけだった。返事がないのをいいことに、瑠璃はさらに体を近づける。すると、彼女の瞳がよく見えた。それは、いつもの彼女の静かな瞳ではない。自分のことを心底愛おしそうに見つめるその目はまるで、そう。獲物を狙う蛇のような。そんな蛇に睨まれた彼女は、さながら蛙のように動けなくなってしまった。
「先生……可愛い……」
そういいながら、頬をなでる手の親指が、理恵の唇に触れる。そのままゆっくりとリップの輪郭を伝うようになでると、口に力が入らなくなる。
「ふふ、先生ったらだらしない」
だらしなくあいてしまった口の端から、唾液がこぼれる。瑠璃はそれを親指で触れて、離す。銀色の糸が唇と指の間に引かれた。
「先生……」
そのまま顔を近づけていく瑠璃。理恵には、もう抵抗の動きは全くなかった。
そのまま顔が近づいていき――
「すいません! 遅れました‼ ――あれ?」
突然開け放たれた扉とともに、一人の生徒が素っ頓狂な声を上げる。
彼女は室内を見渡すと、
「すいません先生。今日、部活は……」
尋ねられた演劇部の顧問は口元を抑えながら、半ば早口で
「今日はお休みって部長に伝えたはずだけど」
と返すと、彼女はスマホを取り出して何やら眺めた後、
「あっ! ホントだごめんなさい! さようなら!」
と言い残し、あっという間に走り去っていく。
沈黙。ややあって、瑠璃が笑いながら理恵の方を見やる。
「危なかったですね」
いたずらがばれそうになった子供のような表情をしながら、扉の鍵を閉める。理恵の方は、まだ驚きと混乱にあるようで、視界が落ち着きなくさまよっていた。
「ねぇ、先生」
いつの間にか後ろに立った瑠璃の手が肩の上に置かれる。たったそれだけのことで、彼女の体がびくりと跳ねる。その姿には、教壇に立つ数学教師の面影はまるでなかった。
「私、知ってるんですよ。先生が……女の人が好きだってこと」
彼女の視線が瑠璃の方に向く。その瞳は、怯えをはらんでいた。そして瑠璃は意地の悪い笑みを浮かべながら、
「ダメですよ先生。授業中にまじめに授業しているふりして、女子生徒をあんなやらしい目で見ちゃ。先生の目が実は女の子の体にしか向いてないこと、わかる人にはわかるんですからね。補講の時も、私の胸ばっか見て」
ささやくように言う。理恵の目がいっぱいに開かれ、恥じらいと恐怖で涙が浮かんでいる。逃れるように顔をそむけるが、あごをつかまれ、あえなく瑠璃の方へと引き戻される。瑠璃は理恵を背後から抱きしめ、さながら魔女のような妖艶な表情で彼女の耳元に口を寄せた。
「先生のヘンタイ」
「――――」
理恵の顔が羞恥心によって、火のついたように真っ赤に染まる。瞳からこぼれた雫が頬を伝い、落ちる。
「ありゃ。泣いちゃった。ごめんね先生。でも、私、先生のことばらすつもりはないから」
言いながら、頬を伝う涙を舌で舐め取る。そして、彼女の正面へ移動し、まっすぐにその目を見つめる。
「でもね先生」
彼女の手をつかみ、自分の胸の膨らみへと引き寄せる。理恵の手のひらに、柔らかい感触が伝わる。服越しからでもしっかりとその形を感じられるほど、彼女の胸は豊かだった。
「私が先生のことを好きなのは本当。私、先生の望むことをしてあげたい。さっきはあんなこと言っちゃったけど、先生が熱意をもって授業をやってることは知ってる。疲れちゃうよね。だからね、私大好きな先生のこと、癒してあげたいの」
彼女が優しくささやくその言葉に、鼓膜が心地よく揺さぶられる。自分が知らず知らずのうちに瑠璃の胸をその手で握っていることに、彼女は気づいていなかった。
「鍵も掛けたから。ね? ……先生のしたいこと、しよ」
何かが、はじけた。
「はい。この式はですね、このyをここに代入して……」
よく通る声が教室に響き渡る。美しい黒髪を揺らす教師は教室を見渡しながら、
方程式の解法を説く。ふと、彼女の視線が止まる。その先には、一人の女子生徒がいる。生徒たちは板書を写すことに夢中になっており、教師の話も続いているので、彼女の変化に気づいていない。
「……フフッ」
女子生徒が制服の襟を少し下げ、白い素肌がわずかにさらされる。教師の方は変わらず授業を続けているが、その顔はほのかに赤くなっている。女子生徒の方は、少しスカートをたくし上げたりして、絡みつくような、それでいて扇情的な視線を送る。教室にチャイムが鳴り響くまで、二人の視線は絡み合ったままだった。
昼休み、辻原瑠璃は一人で昼食をとっていた。バナナ・オレを飲む口をストローから離し、少し離れた席へと目を向ける。そこには、少し前まで一緒に昼食をとっていた二人がいた。三人組のグループとくっついて、大所帯で食事をしている。彼女らと一緒にいることはなくなった。というのも、どういう訳か徐々に話しかけられることが少なくなり、最近ではご覧の有様である。かくいう瑠璃の方も、自分から話しかける気は全く起きなかった。何故彼女らは自分と関わるのをやめたのか、と考える。平凡な受け答えしかしなかったからだろうか。
おそらく違う、と彼女は思う。あの二人は気づいていたのだ。彼女が二人と話す時、心の底にある冷たいものに。薄っぺらい笑顔の裏にある乾いた感情に。
元から、真の友人などとは思っていなかった。それなのに、何とか友人の体裁を保とうとする自分の浅はかさが招いた結果だ。こうなることは必定だったのだ。
だが、今の彼女にとってはそんなことはどうでもよかった。何故なら、今の自分には『彼女』がいるから。
――太陽の光を受けて輝く美しい黒髪。
――彼女の体を包む透き通るような肌。
――つややかでみずみずしい果実を思わせるような唇。
――手の動きに合わせて素直に形を変える豊かな乳房。
――彼女の大事なところを触ると漏れる、普段の声からは想像できないか細い声。
絶対に離さない。彼女を、離すつもりは毛頭なかった。
学校の勤務を終えた彼女は、夜の道を車で走る。建物が発する眩い光が後ろに流れていくのを横目に、ハンドルを動かす。音楽をかけていない車内で聞こえるのは、車のエンジン音、外からわずかに聞こえる喧噪、そして自分自身の呼吸であった。
――ふと、何か別の音が混じるのを感じた。その音は声のようだったが、外からではない。かと言って、車内からでもなかった。その音は、彼女の中、すなわち彼女の心の声であった。彼女の心は、こう問いかけていた。
――それ以上深入りするな。教師として、大人としての立場を思い出せ。この道を進めばいつか両者とも後悔する。逃れられなくなるぞ。
彼女は自分自身に驚いた。まだ自分に教師としての良心が残っていたとは。彼女は考える。自分と教え子の愛の逢瀬のことを。確かにやめたほうがいい。そんなことは理屈ではわかっている。だが、やめればどうなるか。その想像をするだけで、彼女の心は酷く乱れた。彼女の存在が今の自分を作っていることに、自分自身気づいていた。教員として真面目に生きていくと決め、理想の教師へと邁進していった自分だったが、その一方で何かが欠けているのを感じていた。その何か。心のぽっくりと欠けた部分に、彼女の存在は恐ろしくピッタリとはまってしまったのだ。
彼女の愛の毒は今や全身に回り、自分の体を犯し尽くしてしまった。もう逃げることなど出来ないのだ。
アクセルを踏み込む。エンジンが唸る音が、心の声をかき消す。車は彼女を乗せ、
目的地へと走る。彼女は、通り過ぎていく景色に目をやった。
もう、声は聞こえてこなかった。
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