百合小噺
ワンダーマン
H 放課後 二人きりの秘密
七月。夏の暑さも日ごとに高まり、照りつける日の光は容赦なく人々を襲う。空からの容赦ない熱気を浴びながら、遠藤茉莉花は、その小柄な体に収まりきらないほどの『何か』を抱えていた。そしてその『何か』とは、乙女の柔肌を焼かんとする太陽に対してのいらだちではなかった。
「あつすぎる……」
消え入るような声でそういうのは、茉莉花と同じクラスに在籍しており、クラスではさおりんの愛称で知られる、田中沙織である。普段の彼女の騒がしさを知るものの目には、今の彼女の姿は珍しく映るだろう。
「沙織がそんな声を出すってことは、この暑さは本物なわけだ」。
沙織の隣で歩く、女性にしては高身長な女子高生が笑いながら言う。
「むっ……そんなこと言うゆかりだって最近暑いしか言ってないじゃん!私は今日からだし!」
「はいそれ嘘ーー。昨日からですーー。私ちゃんと数えてたもんね」
そんな様子で、暑さに参りながらも軽口を飛ばしあう二人のそばに、明らかに異質なオーラを放つ存在がいた。いわゆる負のオーラというやつである。
「………」
「ね、ねえ茉莉花今日はどうしたの……?ずっと黙っちゃって……」
沙織が恐る恐るといった様子で声を上げる。
「え……そうかしら」
「今日っていうか最近そうだよね。なんかあった?」
ゆかりがそう尋ねると、茉莉花は、
「別に……なんでもないわ」
とメガネ越しの目を伏せながらそう言った。沙織はゆかりの耳に口を寄せ、
「絶対なんかあったよあれ……どうしよう相談乗ったほうがいいかな」
「まあ落ち着きなって。茉莉花だったら話したかったら自分から話すでしょ」
「でも……」
コソコソと話し合う二人をよそに、茉莉花は次の授業が行われる理科室へと歩みを進めるのであった。
昼休み。茉莉花、沙織、ゆかりの三人は、三つの机で作った島を囲み、昼食をとっていた。
「……」
「ねえゆかりちゃん……茉莉花どうしちゃったの? 朝からずっとあんな感じだけど……」
「さあ……。小テストの結果でも悪かったんじゃない?--ねえ、茉莉花。今回の小テストどうだった?」
「え? 小テスト? いつもと同じ位……92点だったかしら?」
「おお……さすがはクラス委員長、相変わらずの高得点。私62点。沙織は?」
「……21点。」
「おいおい……再テスト案件じゃないか沙織さん。今回のテストは難しいって中田先生も言ってたじゃんか。」
ゆかりがあきれたように言うと、
「だってしょーがないじゃん!難しいって言っても前回もそういってたじゃん!
まさかこんなに難しくなるなんて思わないじゃん!」
じゃんを多用しながら、沙織は頭を抱えて叫ぶ。
「そんなこと言って……あなたどうせ好きなアイドルがテレビに出てたとかいう理由で夜更かしでもしてたんでしょ。」
「なんだと茉莉花!! ゆうくんのテレビ出演をリアタイ視聴しないなんて、ゆうくんファンからしたら切腹案件だよっ! ……あっ」
「おっ。自白したぞ」
けらけらとゆかりが楽しそうに笑う。そんなたわいもない会話を続けている間も、茉莉花の様子はどこか呆けているといった様子だった。その時、
「おい」
ふと横から差し込まれた声に三人は目を向ける。そこに立っていたのは、制服をだらしなく着崩した、腰まで伸びた長い金髪が目を引く、長身細身の美人だった。
「げ……宮本……何でここに?」
「げってなんだよ、げって、生徒が学校に来ちゃいけねぇのか?それともアタシが学校に来ることになんか文句でもあんのか?」
沙織のつぶやきにそうぶっきらぼうに言い放つのは、学年一の不良、凪高のヤンキーこと宮本愛希である。宮本愛希の伝説といえばこの高校の生徒ならば知らぬ者はいないほどであり、かつそのほとんどが悪評である。悪評とは、絡んできた男のヤンキー数人をボコボコにしたという話から、彼氏が10人以上おり、そのすべてが町で有名なワルである、などという話まで様々である。その逸話が真実かどうかはさておき、そのような話が次々と生まれるので、結果的に今では、彼女の周りには誰も近寄らなくなっていた。そして最近は学校にもあまり来なくなっていた。
「い、いや……べ、別に……文句なんてありませんけ……ど?」
普段は人のパーソナルスペースにずかずか踏み入ってくる沙織も、このときばかりは委縮してしまっていた。一方、茉莉花は鋭い目で彼女を見やり、
「ねえ、宮本さん。あなた世界史の課題出してないわよね。私、先週から言ってるわよね? いい加減、提出物ぐらい出したらどうなの?」
「ちょっと茉莉花……⁉何言ってるの⁉」
「えぇ……茉莉花さん、それはいくら何でも命知らずでは?」
二人は驚いて声を上げる。当の本人は眉を寄せ、
「あぁ……? なんだよ委員長サン。アタシの態度がそんなにも不満か。それに今日はその課題とやらをを出しにわざわざ来てやったんだよ。これでも文句アリ?」
「威張ることではないわ。先生は貴方の課題を待っているのよ」
二人の間に剣呑な雰囲気が流れる。そんな二人の間に沙織が滑り込み、
「まあまあ二人とも、茉莉花は言い過ぎ。今日出しに来てるんだからいいでしょ?宮本さんも今日は勘弁してあげて? 茉莉花今日はツンツンデーらしいから」
「ツンツンデーだぁ……? まーいーけどさ。ほれ」
愛希が課題を茉莉花の机に無造作に投げ置く。
「じゃあ課題は出したんで。それじゃ」
「ちょっーー待ちなさい。私はまだーー」
「まあまあ。今日はどうしたの? らしくないよ?」
「そうそう。ああゆうのはほっとくに限るって」
沙織とゆかりがなだめるように言う。
「違うわ。課題の話じゃーー」
そこまで言うと、ふいに茉莉花は黙り込んだ。
「……? 課題じゃなかったら何のこと? なんか宮本さんとあったの?」
「い、いえ、なんでもないわ。それよりもご飯、食べちゃいましょう?」
それだけ言うと茉莉花は話は終わりだといわんばかりに、食事に専念し始めた。
「「……?」」
二人の友人は、ただお互いの顔を見合わせることしかできなかった。
放課後。茉莉花の席に沙織が駆け足で寄ってくる。
「ねえ!今日は成績会議で顧問がいないから部活ないし、ゆかりちゃんと三人でカラオケにでも行かない?」
「三人でいろいろ話したいこともあるし」
そう続けるゆかりのことばに、茉莉花は二人が自分を気遣っているのだと感じた。
話し合いの場を。そうでなくとも歌うことで少しでもストレス発散の場にになればいいなと思ってくれているのだろう。二人に気を遣わせて悪いなという申し訳なさを感じたが、それ以上に二人の心遣いに心が温かくなるのを感じた。とは言え、
この悩みは人に言えるものでもないし、自分としてもどうすればいいのかなんてわかっていた。わかっていても、つまらない意地のようなものを張ってしまう自分がいる。高校2年にもなり、まだ自分にこんなに子供っぽい部分があるのかと愕然とし、自分のことさえ、まだまだ分からないことだらけだと痛感した。しかし、そんな自己分析もほどほどに、彼女は誘いに乗るか否かを選ばなければならない。しばしの逡巡の後、彼女は誘いに乗ることに決めた。理由は二人の思惑通りに、歌声にのせてこの気持ちを吐き出してやろうと思ったからである。
「いいわね。いきましょう」
微笑しながらそう答えると、沙織はパアッと表情を明るくさせ、
「やったあ!」
と喜びをあらわにする。そんな彼女の姿に微笑みながら教科書類をバッグに入れていると、ふと本ではないものが指に当たった感触がした。机の中の手を動かしそのモノの感触を確かめる。手のひらサイズの紙。細長い指でそれをなでると、その紙が手紙のように折りたたまれているのが分かる。彼女にはその紙が誰から送られてきて、誰が書いたのかもわかっている。それは彼女自身が数日前から待ち望んだものであり、彼女抱えた問題を解決するのにはカラオケよりも断然効果的なものでもあった。手の中にその紙を握りこむと、茉莉花はおもむろに立ち上がり、
「ちょっとお手洗いに行ってくるわね」
と言い残し、教室を出て行った。
トイレの個室に入り、鍵をかける。丸く握りこんでいた手を開く。彼女の指が感じ取った通り、手のひらにあるのは、小さい手紙だった。彼女はそれを慣れた手つきで開くと、中に入っている折りたたまれた紙を広げる。そして、そこに書いてある文字に目を走らせる。
教室へ戻ると、沙織とゆかりに声をかける。
「お待たせ」
「よしっ。じゃあ、行こっか!」
「それなんだけど……」
茉莉花は申し訳なさそうに形のいい眉を下げながら、
「ごめんなさい。お手洗いに行っているときに思い出したんだけれど、今日歯医者に行く予定があることをすっかり忘れていたわ。だから今日は……その……」
「えーー! そんなーー!」
沙織が大きく肩を落とす。茉莉花は深く頭を下げて、
「本当にごめんなさい。また次の機会にってことでいいかしら」
「あやまらないで。歯医者ならしょうがないよ。また次の機会にってことで」
ゆかりが笑いながら茉莉花の肩をたたく。
「もーー! 次は絶対だからね!」
「絶対かどうかは保証できないけど……また今度ね。それじゃ、今日はほんとにごめんなさい。私は急いで帰るから。また明日」
「またねーー」
「また明日」
二人の言葉に微笑みながら、茉莉花は教室を後にする。彼女が教室から出るのを見届けた後、沙織はゆかりを見、
「茉莉花、大丈夫かな。結局、何も話してくれなかったし……」
と、心配そうに言うが、ゆかりは
「大丈夫じゃない?」
と、けろっとした様子で言う。沙織は頬を膨らませながら、
「もーー! ゆかりってば朝から大丈夫しか言ってないじゃん! ほんとにちゃんと考えてるの?」
と不満全開といった様子で声を上げると、ゆかりは苦笑しながら、
「ごめんごめん。でもほんとに大丈夫だと思うよ。沙織、教室に戻ってきた茉莉花の顔見てなかったの?」
「え?」
沙織がぱっとゆかりを見上げる。ゆかりは笑みを沙織に向け、
「茉莉花、なんだか嬉しそうな顔してたよ」
午後四時、遠藤家にて、遠藤茉莉花は部屋の片づけを行っていた。人間が年末の大掃除以外で腰を据えて部屋の片づけをする理由とは、一部の掃除好きの人々を除き、ほとんどが親の命令、もしくは友人や恋人の訪問に備えてのものだろう。彼女もその例にもれず、これからこの家を訪れる来客に備えての準備をしていた。あらかた部屋の片づけを終え、部屋を見渡して一息つく。片づける物が少なかったことや、エアコンの恩恵を受けていたことにより、さほど重労働ではなかった。
こういう時、茉莉花は自分がこまめに片づけをする人間でよかったと思う。そろそろ下で待っていようと立ち上がろうとした瞬間、下の階からインターホンの音が鳴った。いいタイミングだ、と思い、部屋を出る。階段を駆け下り、廊下を渡る。その足取りは驚くほど軽やかだ。
そのままの勢いでドアノブに手をかける。ドアは、二回目のインターホンと同時に開いた。
「お久しぶり。さあ、入って」
「おう。久しぶり。つっても学校で会ったけどな」
茉莉花の声に苦笑で返したのはほかでもない、昼にお互いににらみ合い、剣呑な雰囲気を作り出した宮本愛希そのひとであった。もっとも今の二人にはそんな雰囲気は微塵も感じられず、言葉のやり取りこそ淡泊なものだが、二人の顔は、いつもの二人を知るものからは考えられないほどに緩んでいる。来た道を戻り、二人は部屋に入る。そして内側から鍵をかける。鍵のかかる音がした瞬間、茉莉花は勢いよく愛希の体に抱きつく。抱きついて、抱きしめる。
「ちょっ……お、おい!いきなりすぎんだろ」
愛希の言葉もおかまいなしとばかりに顔をうずめ、その胸に押し付ける。彼女の服からの優しい香りを鼻いっぱいに吸い込み、彼女の存在を五感で感じる。
「苦しいって……大丈夫だっつーの。アタシはどこにも逃げねえよ」
「だって……久しぶりすぎるんだもの。最近学校にもこないし……もう。恋人を待たせすぎよ」
いつも通りのトーンを保とうとはしているものの、声が微かに震えているのが愛希にはわかった。右手を動かし、茉莉花の頭に手を置く。宝石を扱うようなやさしい手つきでゆっくりとなでる。
「ごめんな。親父が久しぶりに帰ってきたんだ。今回は特に酷くてな。母さんを親父と二人きりにはできなかった」
「お父さんが⁉……ごめんなさい、私ったら事情も知らずに……」
茉莉花は驚いたように体を離し、愛希の身体のすみずみに目を巡らせる。
「……大丈夫?何かひどいことされてない?」
「気にすんな。昨日にはもう出てったからな。学校にもぼちぼち行くよ。はあ……携帯がないってのはとことん不便だな……まったくあのクソ親父、人のスマホ窓から投げ捨てやがって」
「あれは気の毒だったわね……」
愛希の父親は気性の激しい人で、度々家に帰ってきては家族に暴力を振るっている。少し前にスマートフォンを投げられ、連絡が取れなくなったので、
最近は手紙でやり取りをしようというふうになっていた。愛希いわく、それはそれでロマンティックだからだそうだ。
「よかったら、私がプレゼントするわよ」
「いや、大丈夫だよ。来月のお小遣いでなんとか買えそうだからな。自分のもの位自分で買うさ」
「……そんなに貯めてたの?」
「買うとしても、最新型じゃないしな」
「まぁ……それならいいけど」
「まあ、久しぶりに会えたんだからさ。今日くらい辛気臭い話はやめようぜ」
茉莉花の頭をなでながら優しく笑いかける。本当に笑顔が似合う顔だな、と茉莉花は愛希の顔をまじまじと見つめる。薄い唇、透き通るような肌。目元までかかる金髪。そして宝石のような輝きを持つ瞳。すべてが美しく、愛おしい。今、彼女の瞳には自分しか映っていない。それはすなわち、今この瞬間だけは彼女の世界は自分しかいないということだ。それがたまらなくうれしかった。
ーー重いという自覚はある。この人によって自分が完全に骨抜きにされているという自覚も。それにうぬぼれでなく、自分も彼女から愛されている自信があった。
(こんなとこ、あの二人には見せられないわね……)
クラス委員長が学校一の不良にメロメロだと知ったら、友人たちはいったいどんな反応をするだろうか。彼氏が十人もいると噂の不良が、実はクラス委員長にゾッコンだと知ったらどんな反応をするだろうか。深みにはまりかけた思考をいったん振り払い、彼女の言葉にうなずく。
「それもそうね。それじゃあ、どうしましょうか。お菓子でももってきましょうか」
彼女は少し考え込む素振りを見せ、
「そうだな……お菓子もいいけど、それよりも今はーー」
愛希の手が茉莉花の頬をやさしく包む。絹のような滑らかな手が、ゆっくりと頬を撫でる。彼女の体温が手から頬へと移り、顔の温度が急激に上昇するのを感じる。
「茉莉花のことがほしいな」
名前を呼ばれたーー。たったそれだけのことなのに、上がりきったと思った熱はさらに上昇する。高熱により、脳がじんじんと痺れるような不思議な感覚に陥る。まるで脳が何者かに乗っ取られてしまったかのように思考がまとまらない。一向に働かない頭のかわりに、身体には一つの衝動が沸き上がっていた。茉莉花はこの衝動に身を任せることにした。どちらからともなく、顔が近づいていく。
「んーー」
やわらかい感触が唇に伝わる。触れた場所からじんわりと広がっていく快感に、
たまらず声が漏れた。愛希の香りはますます濃くなり、彼女の鼻腔をじれったくくすぐる。時間にして数秒だろうか、ゆっくりと顔が離れると、お互いの顔が目前に広がる。
「うわ。茉莉花顔真っ赤」
「貴女も負けてないわよ」
お互いに微笑みを交わす。カーテンを通過した日の光が、二人を照らす。差し込まれた光が彼女たちの体の輪郭を明らかにし、お互いの存在を確かにする。
「好きだよ、茉莉花」
「……っ。い、いきなりなによ。びっくりさせないで」
顔を隠すようにふっ、と横を向く。顔はそむけているので、その表情を窺い知ることはできないが、真っ赤に染まった耳が、彼女の気持ちを代弁していた。
「今の気持ちを正直に言っただけだし。それよりも、返事は?」
しばしの沈黙が流れる。外から聞こえる蝉の声が、やけに遠く感じられる。これはきっと家の中だから、というだけではないように感じた。二人以外のあらゆるものの気配が希薄となり、相手の息遣いだけが、やけに耳元で聞こえる。やがて潤んだ目を向け、恥ずかしさによって唇を震わせながら、茉莉花はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……す……好きよ、愛希のこと。少しの間会えないだけで、どうしようもなく寂しくなるくらいにはあなたが好きよ!ご、ごめんなさいね、こんな重い女で!」
後半は半ばやけくそのような感じで言い切り、下を向いてうつむこうとする。しかしそれは叶わず、あごに添えられた手によって、茉莉花の顔はぐいと引き寄せられる。視界いっぱいに愛希の顔が広がる。いわゆる『あごクイ』に、いつもの茉莉花の雰囲気は完全に消え去っていた。視線は左右へせわしなく動き、見開かれた瞳は今にも雫が落ちそうなほど潤んでいる。
「あっ……あの! ちょっと待って愛希っ。心の準備が「待たない」んっ……⁉」
無理矢理に口を塞がれ、声が漏れる。お互いの吐息が混ざり合い、室内に響き渡る。口が離れたかと思うと、愛希の腕が伸びて、肩にかかる。そして、身体に体重が加えられる。
——倒れる。そう思い踏ん張ろうとするが、先ほどまでの行為のせいだろうか。腰に力が入らず、重力に従い体が傾く。衝撃に備え体を強張らせるが、想像よりもやわらかい感触が茉莉花を受け止めた。スプリングが軋む音がする。どうやら、知らず知らずのうちにベッドに誘導されていたらしい。倒れこんだ茉莉花を上から見下ろす愛希。肩にかかっていた長い金髪がはらはらと滑り落ち、ベットに垂れる。それはさながら外から二人の顔を隠すための黄金色のカーテンであり、二人だけの世界を作るために降ろされた帳でもあった。
「茉莉花……」
「愛希……」
帳の中で、お互いの名を呼び、見つめあう。愛希の手がゆっくりと伸び、茉莉花の服に架かる。熱っぽい目で茉莉花を見つめたまま、
「いい……?」
甘い声で返事を促しながら、ボタンをはずしていく。
「……」
返事はなかったが、抵抗もなかった。
夏の光が差し込む部屋で、二つの体がベッドに沈み込む。
漏れ出た吐息が、驚くほど熱いことに気づいた。
もう時間にして七時になっただろうか。出しゃばりな夏の太陽も、名残惜しそうに地平線へと帰っていく。空を鮮やかに染める夕暮れの光によって、赤く照らされた四畳半の世界で、二人は生まれたままの姿で抱き合いながら寝そべっていた。
愛希の手が、茉莉花の黒髪をすく。見た目に違わずなめらかなその髪は、一度も引っかかることなく彼女の手櫛を受け入れる。静かにその黒髪を手の中で弄びながら、眼を閉じる。
「ねえ……」
静かに聞こえたその声に、行為の余韻に浸っていた愛希は目を向ける。
「どうした?」
「今日のこと、ごめんなさい」
申し訳なさそうに目を伏せながら、そうつぶやく。
「今日のこと?」
「昼休みの時の態度よ。最近学校に来なかったからとても不安で、でも、学校の中じゃなれなれしくできないから……あんな態度になってしまって」
「わかってるよ。わかってる」
今にも消え入りそうな声で話す茉莉花の唇を人差し指で塞ぎ、愛希は穏やかに言い聞かせるように言う。
「でも……」
「わかった。じゃあこうしよう」
それでも、といった様子の茉莉花に、愛希は唇に当てていた指を自分の顔の前で立てると、
「アタシのお願いを一つ聞く。それでチャラってことで」
「まぁ……それなら」
渋々といった様子の茉莉花に、愛希は微笑む。仰向けになり天井を見つめ、しばらく黙り込む。口元がぱくぱくと開き、言葉にならない程の空気を発する。何度かそれを繰り返し、やがて意を決したように口を開く。
「アタシ、いつか茉莉花と暮らしたい」
「き、急にどうしたの?」
突然の告白に目を丸くしながら問うと、沈黙。ややあって口を開く。
「アタシ、色々問題があるし、家のこともどうなるかわかんないけど、それでも
いつか二人で暮らしたい。二人で幸せになりたい」
その言葉は、欲望というよりも、ささやかな祈りのようだった。しばしの静寂の後、茉莉花は微笑み、素直に思ったことを口に出す。
「なれるわ。きっと」
「で、でも、将来どうなるかわかんないし……色々……」
最後のほうは消え入りそうな声で言う愛希の顔を両手で挟み込むようにし、こちらに顔を向けさせる。驚く愛希の顔を見つめながら、
「色々なことが起こるかもしれない。起こるわ。おそらく。でも、貴女が私を想い、私が貴女を思っている限り、きっと乗り越えられる。月並みななぐさめかもしれないけど、私はそう思ってる」
「茉莉花……」
「困難どんとこいよ。二人でぶっ飛ばしてやりましょう」
「ははっ。ぶっ飛ばすって、茉莉花らしくなさすぎでしょ」
ようやく見せたその笑いに、茉莉花も笑う。
「うれしくなかった?」
「ばーか」
そう言いながらも、心の底から嬉れしそうな笑い声で、
「すげーうれしい」
そう言いながら口づけをする。今はただ、その言葉とぬくもりが嬉しかった。
七月も下旬に差し掛かろうとしており、いわゆる夏休みまでの日数はほんのわずかであった。夏休みへの楽しみを隠し切れない様子の学生を横目に、遠藤茉莉花はいつものように二人の友人を連れて、廊下を歩いていた。
「あつすぎる……」
いつぞやと全く同じことを言う沙織は、以前よりも増して暑そうである。もっとも彼女の場合は、あれから毎日暑い暑いと言い続けているだけだが。
「またかい。もういい加減聞き飽きたんですけど。もっとこう……バリエーションはないんですか、沙織さん」
ゆかりが呆れたように言う。
「ぐぬぬ……じゃあ、湿気がすごい! あと……虫がやばい!」
「語彙力のなさよ……まあ、言いたいことはわかるけど……私も虫刺されすごいし……」
「茉莉花はどう?」
沙織の質問に首を横に振り、
「私は別に」
「ふーん……あ」
突然声を上げた沙織を見る。
「茉莉花、ここ、虫に刺されてるよ」
「ほんとだ、赤くなってる」
沙織が首を指さしながら言い、ゆかりも首を見て同意する。
「え……え、ええそうね。私もいつの間にか刺されたみたいね」
「どうしたの? なんか変だけど」
「別に……なんでもないわ」
首をさすりながらそういう彼女だが、ふと何かに気づいた様子を見せると、
ポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見ると、すぐにポケットへとしまう。
「どうしたの? ……なんかにやけてるっぽいけど」
「いえ、なんでもないわ。私、今日日直だから日誌を取りにいかなくちゃ。二人は先に教室に戻っていて」
茉莉花は職員室への道でわかれ、沙織とゆかりは教室への道を歩く。
沙織は口を尖らせ、
「ほんと茉莉花ちゃんってば、なんでもないばっかり。肝心なことはなんにも言わないよね」
不満そうにいう沙織。ゆかりは少しの沈黙の後、どこか遠くを見つめながら、
「……茉莉花。大人になったな」
感慨深そうにそういうゆかりに、沙織は怪訝な表情を向ける。
ゆかりは沙織を見て、
「わからないか? 沙織」
「何その口調」
「気にするな。それよりも本当に気づかない?」
「だから何に。もったいぶらずに教えてってば」
じれったそうに聞いてくる沙織にゆかりはうなずき、
「まず虫刺されを指摘された時のあの顔。あれは恥じらいの表情だ。そしてスマホの画面を見た時、あれはおそらく誰かからのLIMEだ。あの時、茉莉花は嬉しそうな表情だった。そこから導かれる結論とは?」
沙織はしばらく黙りこんだ後、まるで火が点いたように顔が赤くなる。
「えっ……じゃああの首のやつって、キスマーク⁉」
「たぶんね。で、例のLIMEは恋人からのってことだよ」
「うわー! そうなんだ! あれってキスマなんだ! うわー!」
頬に手を当て、興奮した様に言う。すると、突然ゆかりのほうを向き、
「じゃ、じゃあ! その恋人って誰だろう! 私たちの知ってる人かな?」
その問いに、ゆかりはあごに手を当て少し考え込んだ後、
「うーん。思い当たる節はないなぁ。茉莉花が男と一緒にいたとこなんて見たことないし……」
「……あ! もしかして」
突然声を上げた沙織をゆかりが驚いたように見る。
「ど、どうしたいきなり。まさか思い当たる人が?」
沙織は自信たっぷりとばかりに胸を張り、
「まあ聞いてよ。男の影がないってことは、もしかしたら女の子じゃないの? 茉莉花ってクールな感じで女子にモテそうだし、その線は濃厚じゃない?
そして、ここ最近でそれっぽい会話をしてた人といえば……」
「いえば……?」
ゆかりが息をのむ。
「ズバリ、宮本さんだよっっ!」
沙織の自信満々な声が、廊下に響き渡る。近くを通った女子生徒が、驚きの表情でこちらを振り返る。
「……」
ゆかりが白けた表情で沙織を見る。それに伴い周囲には、なんともいえない沈黙が広がった。
「……あ、あれ? なんか私変なこといった?」
ゆかりは呆れたような表情を隠そうともせずに、ため息を一つつくと、
「どうしてそこで宮本さんが出てくるんだ。あの二人って空気悪いじゃん。そもそもあの二人ってなんか接点あったっけ?」
「あったじゃん! ちょっと前、昼休みに急に現れた時さ、茉莉花がまだ話が、とかなんとか言ってたじゃん。それにほら、茉莉花の機嫌が悪くなったのって宮本さんが学校来なくなった時じゃない?宮本さんに当たりが強かったのも、そのあたりが原因かも」
「まあ……いわれてみれば……」
そう言われてゆかりも考え込んでしまう。たしかに、そう言われればそのように思えてくる部分もあったからだ。しかしゆかりはかぶりを振り、
「まあ、それもありうるかもだけど……普通に考えて他校の男子とかじゃない?
男と一緒のところを見ないのも、他校だからって考えればしっくりくるし」
「……それもそうかー」
沙織が残念そうに肩を落とす。
「茉莉花も仲間かと思ったんだけどなぁ……」
「仲間ってなんだ仲間って。それよりほら、もういくよ」
ゆかりが教室へ帰るよう促すと、
「はぁい。わかったよゆかり」
沙織は自身の腕をゆかりの腕に絡ませ、手を握る。その握り方は、いわゆる恋人つなぎというやつであった。
「ちょっと沙織……ここでそれは……」
「いいでしょ? 茉莉花もいないし、見られてもこれくらい、友達でもやるよって言えば大丈夫だよ。ね? いいでしょ?」
「……」
はにかむようなその笑顔で言われてしまうと、ゆかりは頷く他なかった。これが、惚れた弱みというやつだろうか。すると、沙織がゆかりに身を寄せ、耳に口を近づける。
「今日……放課後、ウチに来ない?」
耳元でささやかれた声が、鼓膜を心地よくくすぐる。高鳴る心臓の鼓動、上昇する体温。自分らしからぬ動揺を気取られないように、努めて平静を装い口を開く。
「あ……うん。行くよ」
沙織はにこりと笑い、
「ふふ。照れてるのを誤魔化してる耳真っ赤なゆかりもかわいいよ」
からかうようにそういう沙織に、敵わないな、とゆかりを思った。
いつもは鈍いのに、変なところで鋭いのだ彼女は。もしかしたら、とゆかりは思う。茉莉花の首に赤い痕を作ったのが、かの宮本愛希だという一見有り得ないような予想。
(今度、茉莉花にそれとなく聞いてみるか……)
沙織との二人きりの放課後に胸を高鳴らせながら、ゆかりはそんなことをぼんやりと思ったのだった。
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