第33話 すべからく平穏な日々


 ――後宮、バステトの寝室にて。


『バステト! 目を覚ましたのね』

『ほんとによかったー。もう、あの王子引っぺがすの大変だったんだから!! すぐにあっためなきゃいけなかったのに』

『もう、テトラー。真っ青な顔して運ばれてくるから死んじゃったのかと思ったー。イーサーもちょー心配してるよー』


 明るい日差しの中、目を覚ますと、そこは、見知った光景だった。

 バステトが以前住んでいた後宮で、懐かしい母の顔が見える。

 ミケーネ、ルルがいて、会話が騒々しい。イーサーは、後宮には入れないだろう。


『お母様……みんな……私……』

『もう大丈夫よ。何の心配もいらないわ。本当に良かった……』

『お母様、ハ、ハサンは!?』

『大丈夫。怪我はしたけど、命に別状はないわ』

 母の言葉にほっとする。ハサンは、母にとっても友人の息子なのだ。

 隣のミケーネの方を向く。

『ミケーネは、ルークと一緒だったのだろう? ルークは間に合ったのか?』

『もちろん! あんたの側あんまり離れないから、戦後処理が進まないって、さっきエルマーに連れてかれちゃった』

『よかった……』

『王子様、もう、すっごくかっこよかったー』

 ルルは相変わらずだ。

 バステトは自分が生きているのだとの実感がわいてきた。


『早くみんなに会いたい……』

 バステトは、再び眠りに落ちた。



  ◇◇◇◇◇◇



 ――皇宮、貴賓室にて。


『ぎりぎり、間に合いましたね』

『礼を言います。キーランの新たな王、そしてケイリッヒの王子よ。あなた達のおかげで、マレ皇家は歴史をつなぐことができました。あなたの騎士達にも感謝を』

 マレ皇帝のアブドゥル三世は、以前ルークと対面した時より大分年をとってしまった印象だが、その表情は、重荷を下ろした後の力の抜けた柔らかいものだった。

『キーランは、王太子ザイドと軍部との癒着を全て破棄し、マレとの新たな関係を築いていきたいと思っています。秘密裏に処理しなければならない事項も多くあります。ご協力ください』

 マレ西部の油田地帯割譲の密約などは、公にはできない。

『もちろんです』

 ナシールとアブドゥル三世は、握手を交わす。

 ナシールは、一礼するとその場を辞した。


 アブドゥル三世とルークは、相対する。

 この場所は、折しも1年と半年前、ルークと皇帝とがあの約束を交わした場所だった。

『及第点をいただけたと思ってよろしいでしょうか?』

 ルークの問いに、皇帝は、にこりと微笑んで頷く。


『ええ。義父からの試練を見事こなしたあなたに、マレの至宝を預けましょう。あれは、女神に愛された娘です。ゆめゆめお忘れなきよう』



  ◇◇◇◇◇◇



 ――皇宮、ハサンの病室にて


『ハサンよ』

 ハサンは、肩から包帯で釣られた腕をそのままに、病室の床に跪いた。胸の傷にうめき声をかみ殺すが、脂汗はしたたり落ちる。

『陛下。この度の謀反の責の一部は私にあります。申し訳ありません。処分はいかようにも』

『そなたがこの国のため、娘のためにしてくれたことは分かっておる。礼を言う。しかし、皇帝としては、その手段を正当化することはできない。そなたを罰せねばならない。生涯監視付きの生活か、監禁か』

『はい』

『この国にいる限り、そなたは、不自由を強いられる生活をすることになる……ケイリッヒより、身柄引き渡しの要請が来ている。わが甥よ。そなたに選ばせよう』

 皇帝は背後を振り返り、ルークにその場を明け渡すと、病室を後にした。

 ルークは、看護人を呼ぶと、ハサンをベッドへ再び横たえた。


『あのさ、キーランから、バステトへの暗殺者が派遣されたとき、途中でターゲットが僕に変わったの、あれ指示したの君だよね。僕が死んでもいいって思ってた?』

『何のことでしょう? あなたは暗殺者ごときで死ぬような人物には見えませんが』

 唐突すぎるルークの発言にも、ハサンは揺るがない。

『ふうん。まあ、いいや。裏でこそこそ、そういう小狡いことができそうな人材を、探してたんだよね。君、ケイリッヒに来ない?』

 勧誘の形をとっているが、選択肢はないのだろう。

『何のことかはわかりませんが、そうですね。この国に僕の居場所はもうないでしょう。お言葉に甘えさせて頂きます』

『ちょうど側近が欲しかったところだしね。それに、君は、側に置いておかないと何するか分からないからね。まあ、一番許せないのは、彼女の出国時に結婚の約束を仄めかしたことなんだけど』

『それぐらいでゆらぐ絆ではないんでしょう?』

 ルークは、答えず、一瞬苦虫をかみつぶしたような顔をした。

『バステトも喜ぶだろう。彼女を一番に幸せにするのは、僕だけどね』

『それを僕に見届けさせようなんて、あなたは、残酷な人だ……あなたのそんなところを彼女は知っているのですか?』

 精一杯の嫌味のつもりだったが、笑って返されてしまった。


『それぐらいでないと、彼女は守れないだろう?』

 


  ◇◇◇◇◇◇



 ――皇宮、ハサンの病室にて


『ハサン! 怪我は大丈夫なのか!? 』

 部屋に飛び込むようにやってきたバステトに、ハサンは熱で浮かされた頭をベッドから無理やり起こす。彼女に、この肩がもう動かないことはまだ悟られたくない。

『ええ。姉さま、ご心配をおかけしました。申し訳ありません。それより、姉さまが

無事でよかった』

『怪我、全然大丈夫じゃないじゃないか! 私のために……ありがとう。ハサン。守ってくれてありがとう』

 バステトは、包帯で幾重にもまかれたハサンの上半身を痛ましそうに見ると、ハサンの手を握りしめて、ベッドわきに跪く。

『姉さま。頭を上げてください。私は、謀反の首謀者の一人です。怪我もこの程度ですみ、温情として命も長らえます。これ以上のことはありません』

『仕方なかったって聞いた! 父様もひどい』

『いいえ、姉さま。おかげで、僕の身柄はケイリッヒに引き渡されることになりました。これからは、臣下として姉さまを守りますよ』

 バステトは顔を上げる。

『ケイリッヒに来るのか?』

『ええ』

『じゃあ、私がハサンの怪我の看病をする!』

『……それは、嬉しいですね。』

 王子の嫉妬を思い浮かべ、一瞬言葉に詰まる。

『ほんとか!? じゃあ、怪我が治ったらお願いがある』

『なんなりと』

『ハサンは、私に幸せになってって言ったね。私も、ハサンに幸せになってほしい。ケイリッヒに来るんなら、側で見届けて。私もハサンが幸せになるのを見届けるから』

『……全く、あなた達は……そうですね。あなたは側にいないと、何をするかわからないですから。姉さま。姉さまは、いつまでも僕の大好きな、大切な、大切な姉さまですよ』


『私も、ハサンがこれからもずっと大切だ』

 バステトも花がほころぶような笑顔を向けた。



  ◇◇◇◇◇◇



 ――皇宮 水庭園にて。


「はー、色々教えはぐったわ」

「聞きたくないけど、一応聞きます。誰に、何を、ですか?」

 今は、任務の合間の休憩時間だ。エルマーは、小川の美しい水庭園を連れ立って歩いてたミケーネに、何度目ともしれないお馴染みの胡乱な目を向ける。

「そりゃあ、姫様に夜のあれこれを、じゃない」

「はー。そのネタまだ引っ張るんすか……ほんとは、何にも知らないくせに」

 エルマーのその一言に、ミケーネは、明らかに動揺してこちらを向く。

「ど、どうしてわかったのよ!」

「そりゃあね、ちょっと経験があればすぐわかりますよ」

「なっなななな」

 その様子があまりに可愛くて、ちょっと意地悪をしたくなった。

「俺がお教えしましょうか?」

 耳元でささやいてみる。

「エ、エルマーのくせに生意気なのよ!!」

 案の定、ミケーネは顔を真っ赤にして鋭く手を振り上げてくる。が、それをもらうエルマーではない。

「こういうお約束は、もう十分っす」

 エルマーは、ミケーネの両手をつかむと引き寄せて唇に軽くキスをする。

「続きは、いつにします?」

 こつんと額をぶつけてくるエルマーに、ミケーネはなんと、勢いよく頭突きしてくると、その手を振り払う。

「ないないないない、ないからー!!」

 木の影に駆け込むミケーネはおでこを抑えている。彼女も痛かったに違いない。

「えー。女の子からの頭突きって、お約束にないパターンかも。……結構痛い……」


「けど、女の子が命の恩人に惚れるってお約束は、行けそうですかね?」



  ◇◇◇◇◇◇



 ――後宮、バステトの寝室にて。


『――僕の黒猫』

『ルーク』

 浅い眠りの中、うとうとしていたバステトは、聞きなれた囁きに目を覚ました。

『起こしちゃったかな。顔がみたくて、ごめん』

 辺りは、暗く、静かで、バステトの寝室も既に灯りが落とされていた。ルークが訪れたのは、大分夜が更けた頃だ。月明かりだけが、その横顔を照らしている。

『ルーク……やっと、会えた』

『僕も、寝顔以外を見るのは久しぶりだ』

 バステトが手を伸ばすと、ルークはその手を取って、自分の頬に触れさせた。

『ルーク。ケイリッヒで待ってなくてごめんなさい。私、私、たくさん、話したいことがある』

『僕もだよ。それから、いっぱい隠し事しててごめん』

 バステトは首を振る。

『話せないことがあるのは仕方ない。それは、バステトが足りないせいだ。……でも、こんな自分じゃだめだと思った。私自身が変わりたくて、がんばった。……今なら、少しは話してくれる?』

『ああ。僕も、何も知らせずに守ってるだけじゃだめだって、怒られたよ。それは、僕の自己満足でしかなかった。本当の君は、こんなにも大胆で、勇敢で、賢い黒猫なのに』

 ルークは、頬にあてていたバステトの手をなでると、その指先に口づける。賞賛の意味を込めたそのキスに、バステトは胸が熱くなる。


『バステト、僕も話したいことがあるんだ』

 その瞳は、先ほどよりも熱をはらんだものだった。握った手に力がこもる。

『ずっと、君に伝えたかった。僕は、ずっと、君が好きだった。あの祝祭の日、銀狐の面をつけて、君に出会ってから。ずっと、君に恋焦がれてた』

『……銀狐?』

『ああ、あれは僕だよ、バステト。あの時、君に出会って、恋をした。僕は、君が思ってるよりずっと前から、君の事を愛している』

『ペットじゃなく?』

『……ペットにはキスしたりしないよ』

『餌付けじゃなく?』

『……あれは、キスだよ』

 その意味をやっと理解して、飲み込むと、バステトの顔に朱がのぼる。

『だって、ルークは、ずっと……』

『君は誤解している。バステト。ケイリッヒでは正式な婚姻までは、そういうことは認められないんだ。僕が、どれだけ我慢してると思う?』

 ルークは、つかんだバステトの手のひらに口づけを落とした。それは、懇願のキス。月明かりの中でルークの瞳が潤んだように揺れる。その瞳はオアシスの水に落としたサファイアのようだと、いつかと同じことを思った。


『ねえ、ルーク。ここはケイリッヒじゃない』

『ここは、マレだよ』

 バステトは、ルークの袖を引っ張る。

 全く君は、そんな声が聞こえた気がした。

 熱に浮かされた浅葱色の瞳が、バステトに近づき、深い深いキスをする。

 熱い吐息が絡まる。

 それは、始まりで――。


『――僕の黒猫』


 二人の姿は、ベッドにかかる、月灯りにさやめく紗のカーテンの影に埋もれていった。


(第二部完)

 ※完結です。ご覧いただきありがとうございました。+番外編となります。

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