第32話 誓約にかけるもの


 バステトは、ルークがいるとハサンに指示された方角へひた走る。


 ――幸せになって。

 耳に残るハサンの声がバステトの頭の中で何度もこだまする。

 ハサンは、どんな気持ちであの言葉を告げたのだろう。

 でも、今はそんなこと考えちゃいけない。

 バステトは、ルークの下へたどり着かなければならない。


 視界は悪く、ランプで足元がぎりぎり見える程度だ。

 カナートに沿った抜け道の中は、どんどん寒くなってきた。何度か、水で濡れた通路に足を滑らせ、バステトはその度に唇をかんで立ち上がる。

 徐々に追いかけてくる兵士の松明の明かりが近くなってきていた。


 バステトは、階段の途中で、とうとう先回りした兵士に追いつめられてしまった。通路の先は左右の通路をまたぐ橋になっていて、そこから回り込まれてしまったのだ。

 背後には、別の兵士が迫ってきた。

 バステトのいる通路のすぐ脇には轟々と高低差のある水流が滝のように流れ落ちている。

 逃げ場はない。


 やがてジャマールが、足を引きずりながら、追いついてきた。

『あの小僧は倒した』

 その言葉に、バステトは心臓が握りつぶされたようなショックを受ける。

『ハサンはどうなったの!?』

『その目で確かめたらどうだ? 一緒に来い』


 ハサンは逃げろといった。それはだめだ。

 バステトはゆっくりと首を振る。

 ジャマールはじれたように声を荒げた。


『あきらめて私と一緒に来い! 悪いようにはしない。お前は、私の妻になるのだ』

 バステトは、ぎゅっと唇をかみしめた。


『……私は、お前の妻にはならない。血の誓約でルークに魂を捧げてしまったから』


『血の誓約だと? はっ、それではお前はすでにあの王子のものということか!?』


 ジャマールは一瞬目を見開くと、吐き捨てるように続けた。


『お前らは、ことごとく俺を苛立たせる! あんな若造の言うことなど聞かず、さっさとキーラン軍の増援をもらって皇都など落としてしまえばよかったのだ』


『――他国の軍をいれようとしてたの?』

 バステトにもわかる。それは、絶対だめだ。その後、この国は他国に食い荒らされてしまう。

『ハサンは……』

『ああ、あの若造が、皇族寄りと神殿寄りの諸侯を説き伏せたため、キーランに借りを作らずにすんだ。おかげで、皇都を落とすのに、こんなにも時間がかかってしまったがな!』

 ハサンは、キーランをマレに入れるのを防ぐためにこんなことをしたんだ。バステトは、ハサンが軍に加わっていた理由を、初めて理解した。


『まあいい、血の誓約があるならば、逆に利用してやる。ケイリッヒの王子がそれほどお前に執心だということだろう。ならば、やり方を変えるまでだ。お前をとらえれば、ケイリッヒは、こちらの言うことを聞くかもしれんな』

 

 それを聞いた瞬間、バステトは、自分がとてつもない大失敗をしてしまったことを悟った。

 ジャマールに知らせてはいけない情報を与えてしまった。


 血の誓約の強制力を思い出す。

 あれはダメだ。

 血の誓約に縛られるもの――普通は、貞節にかかわるものだ。さっきのバステトもそうだった。


 でも、ルークは、何を誓った? 貞節だけじゃなかった。

 バステトは、ルークにと誓わせてしまった。

 もし、ルークがバステトを人質にとられて、マレや皇家に不利益になることを強制させられたら?

 血の誓約は、死ぬまで破れないという誓約ではなかった。

 


 ぎらぎらと目を血走らせながらジャマールはなおも続ける。


『妃にならないならそれもいい。二度とその不愉快な舞ができないように、足の腱を切って、ケイリッヒへの人質として一生閉じ込めてやる! とらえよ!』

 兵士たちの手が、バステトへと延びる。


 絶対に捕まることはできなかった。

 バステトは、今や、ルークの最大の弱点になってしまったのだから。


 ――ひとつ、ここへくる前に決めていたことがある。


 血の誓約は、どちらかが死ぬまで有効だ。

 誓約に従って、番は、片割れに魂が縛られる。

 ルークは、婚約者としてのバステトを、魂の片割れのバステトを見捨てることはできないだろう。


 だから、決めていた。


 バステトはルークの足枷には絶対にならない。


 ――血の誓約は、死によって終わらせることができる。


 その時は、迷わず血の誓約を断ち、ルークを自由にしようと。


 すぐ脇の轟々と流れる滝に目をやる。


 ハサン、マレの民のために生きろといったね。

 それから、幸せになって、とも。


 でも、馬鹿なバステトは、マレも、ハサンの言葉も、全部を捨てて、今、ルークをとると決めてしまった。



 ルーク。

 待っているって約束を守れなくてごめんなさい。


 最後に会いたかった。

 声を聴きたかった。


 バステトは、滝に身を躍らせた。



  ◇◇◇◇◇◇



「そろそろ諦めてほしいんだけど!」

 ヨナスは、左から迫る暗殺者ユノの剣を弧を描くような軌跡で受け流す。

「お前、思ったよりやるなあ。楽しくなってきた!」

「俺、楽しくないんだけど、そろそろ行かせてよ!」 

 ユノの得物は剣だ。大きさのある曲刀を振りまわし、その速さと重さで敵を追いつめる剣だ。ヨナスはパワーとスピードで劣るが、剣の軌跡を読むことで、何とか受け流しを成立させている。


「だいたいエルマーが倒しておかないからこんなことになるんじゃないかな! 脳筋のくせに、ちゃんと仕事しろってば! あいつ、後で覚えてろ!」

「へえ、あいつエルマーって言うんだ。俺はユノって言うんだ。覚えといて」

「忘れる、ぜったい、忘れる!」


 ヨナスは、剣だけでは勝てないことを悟り、打開策に出ることにした。

 剣戟の合間を縫ってダガーでよけづらい重心近くを狙う。

 ユノは、なんと剣の柄ではじいてきた。


「それだけ? じゃあ、こっちの番」

 さっきより早いスピードで踏み込んでくる。

「ちっ」

 ヨナスは、バックステップでかわす。が、かわしきれない。

 曲刀のの切っ先が眼前に迫る。


「なんてね」

 ヨナスは、懐から出した袋をユノの剣の前に差し出していた。

 ユノの剣が袋に刺さるとあたりに白い煙が舞い散る。


「おまっ、ひきょう、このっ……」


 ユノの悪態をつく声とゲホゲホとせき込む音がする。

 影の騎士団の特性の催涙剤だ。この狭い空間だ。しばらくは効くことだろう。

 ヨナスは、素早く煙の届かない場所まで移動している。


「これでだめなら、あとで、うちのヴァルターよこすからもうこれで勘弁!!」


 そして、ハサンとバステトを追うべく走り出した。



  ◇◇◇◇◇◇


 

 ルークは、数日前、キーラン軍の準備が整うのを待たず、影の騎士と少数の精鋭だけで、マレの皇都へ向けて出発していた。

 途中、海から上陸したケイリッヒ軍の精鋭とも合流し、そのまま皇都の背後の山岳地帯へと向かう。


 抜け道を使ったケイリッヒ軍は、皇宮を内部から制圧。そして、キーラン軍は、正門より皇都を制圧。2軍で挟撃する作戦だ。正門の開放には、皇都に拠点を構えるケイリッヒの情報部を使う。その態勢はヨナスがこの数週間で整えた。


 カナートに沿った抜け道の道案内は、直前に合流したヴァルターが行っている。

 ヴァルターは、皇帝を保護し、この山中の隠れ家に匿っていたのだ。


 ケイリッヒ軍は、寒さがきつい抜け道の中、松明を灯して急ぎ、現在、抜け道の出口である後宮を目指していた。

 カナートの抜け道は人が数名並んで通れる程度で、徒歩での行軍となる。

 キーランより強行軍できたメンバーは、精鋭とはいえ、さすがに疲れの色が見える。タフに見えたミケーネすら、疲労が見え隠れする。


 ルークは、焦る気持ちをおし殺しながら、水路脇の通路を急いでいた。

 この抜け道への突入直前にハトからの伝令で皇都の状況が知らされた。バステトが、将軍ジャマールの前に引き出されたのだ。


「殿下、落ち着いてくださいね。ここ、滑るし、落ちたら危ないっすから」

「わかっている!」

 事が起きる前にヨナスがフォローすると信じているが、焦る気持ちは抑えられない。 



 不意に、鳴り響く水流の音の中、先頭にいるヴァルターが、手を上げて静止の合図をかける。

 軍は、音もなく静止し、ヴァルターは何かを聞き取ろうと、前方に耳を傾ける。

 ヴァルターはルークの方を振り向く。


「この先に、皇女殿下がいます。おそらく敵に囲まれています」


 ルークは、ヴァルターの言葉が終わらないうちに、そばの兵から松明を取り上げると一気に先頭に出て走り出した。


「ちょっ、だから落ち着いてって!」



 ヴァルターとエルマーは、即座に反応し、後に続く。ミケーネも遅れて後を追う。


 バステト!


 闇の中、松明の光の届く範囲は少ない。

 先はカーブしていたり、勾配になっていたりで見通せない。


 バステト!


 そして、通路の先に、ぼんやりとした灯りが見えた時、皇女と、対峙する敵将らしき者の姿を見つける。

 彼女は、下を見ており、こちらに気づいていない。


 そして、ルークが声をかける間もなく、彼女は、そのまま水流へ身を躍らせた。


 ルークは、彼女を追い、必死に手を伸ばす。

 二人は濁流へと飲み込まれた。



  ◇◇◇◇◇◇


「なーっ!! あの人なにやってるんっすか! 飛び込むのは、俺の役目だってば!」

「あんたこそ、そんな場合じゃないでしょ!」

 エルマーの隣に追いついたミケーネは、すかさずエルマーに怒鳴り返した。

 ヴァルターは、即座に王子を追って先回りすべく下流へと飛ぶようにかけていき、姿はすでに闇の中だ。


 その場には、マレの軍と思しき人影が多数ある。

 ここで騒がれて皇都へのケイリッヒ軍への侵入を悟られてはならない。

 全員を倒す以外の選択肢はない。


「あんたはそっちよろしくね。私も姫様のとこいくから!」

 ミケーネも身軽に兵士を飛び越えて先に行ってしまった。


「えーー? ミケーネさん、そこは、一緒に戦うのがお約束じゃないんすか!?」

「あんたは一人で十分でしょ!」


『くそっ。どいつもこいつも! 貴様ら、奴らケイリッヒだ! 抜け道から侵入してきた! 敵だ、かかれ!』


「まっ、しょうがないっすね」


 エルマーは、その場の兵を引き受けることにした。王子を追いかけたヴァルターとミケーネを追わせるわけにはいかない。

 エルマーは、切りかかってくる、その場にいた兵士達を鮮やかに昏倒させる。

 あっけない。

 とりあえず、指示を与えていた一番偉そうな人物を拘束することにした。


「えっと、お名前伺っていいっすかね?」



  ◇◇◇◇◇◇



 水路に飛び込み、激しい水流の中、いったん沈み込んだ体を浮上させると、ルークはバステトの姿をすぐに捉える。

 雪解け水を含む水路の水は異常に冷たい。

 バステトは意識を失っているらしい。頭を出したまま浮いているが、手足を動かしている様子はなかった。

 どうにか彼女のところまで泳ぎ切り彼女の体を捉えた。水面から沈みそうになる彼女の体を支え、維持する。

 絡みついた衣服が重い。


 追いつけた。

 まだ危機を脱したわけではないが、それでも、彼女が腕の中にいるという事実に途方もない安堵がこみ上げる。


 この冷たさでは、時間との勝負だ。早く上がらないといけない。

 おまけにこの先水路がどうなっているかわからない。空気のない水管に入ってしまったら、息が続くとか思えない。


 視線の先に通路にかかった橋を見つけ、ルークは狙いを定めた。

 バステトと自身の着ていた邪魔なマントは、外して水に流した。


 ルークは剣を抜き、水流も利用して橋の橋脚に突き立てた。うまく刺さった。

「ぐっ」

 途端に水流に逆らうバステトと自分の体の重みが腕にかかる。足をかけ、バステトを抱えたまま、どうにかその体制を維持する。


 水圧がきつい。押し流されそうになる体をどうにか支える。

 自力で橋の上に上がるのは難しいだろう。

 でも、もう彼女を離す気はなかった。


 おそらく、優秀な護衛達は、自分に間もなく追いつくだろう。

 ――もうすぐだ。

 腕がしびれる。

 ――もうすぐだ。

 剣の束から手がはがれる。

 ――もうすぐだ。


 無情にも、剣の束からルークの手が離れる前に、剣の方が、突き刺さった岩から抜けかける。


 突き立てた剣が水圧に負け抜けかける中、びゅんっと空を切る音がして、分銅付きのロープが、ルークの剣を握った腕に巻き付いた。

 ヨナスだった。


「え? 殿下なの? 姫様追ってきたのに! なんで、こんなことにー!?」

「引き揚げます。殿下」

 追いついたヴァルターとヨナスが、橋の上に二人を引き上げる。


 濡れて重くなった衣服に包まれたまま、水から上がると、ルークは、寒さに震える体を動かし、バステトの口元に手をかざす。

 感覚のない手だが、わずかに呼気が感じ取れた。

 ほっと一息をつく。


 ルークは、バステトの濡れた体を抱きしめた。


『もう逃がさないよ、僕の黒猫』


 それから、周りから温かい飲み物や、布やら何やらを差し出されるまで、やっとその手にとり戻した黒猫をしっかりその腕の中で堪能したのだった。



  ◇◇◇◇◇◇



 その後、山岳地帯の抜け道から侵入したケイリッヒ軍は、大した抵抗もなく皇宮を制圧した。すでにカナートの中で、将軍ジャマールがケイリッヒ軍の手に落ちていたことも大きい。


 正門では、キーラン軍を率いる新王ナシールとマレ軍とが交戦を開始しようとしていたが、将軍ジャマールが拘束されたと聞いた軍は、戦意を喪失し、ほどなく全軍投降した。


 マレの皇帝アブドゥル三世は、皇宮に戻り、この戦争の終結を宣言した。


 こうして、マレ軍部のクーデター事件、世にいうマレ事変は、ケイリッヒ、キーラン両国の協力により、終息を迎えたのであった。

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