第31話 あなたの幸せを
時間を遡ること少し前。
ハサン、ヨナスの二人は、バステトの元へ向かうべく、隠し通路の中を進んでいた。
「しっ」
隠し通路を走る先頭のヨナスが、小さな声と共に、後からついてくるハサンを制する。
この辺りは、通路の上部に灯り取りが一部設けられており、薄暗いがランプが必要ない。
剣を構え、ヨナスは、慎重に周りを見回す。
緊張が走る。
次の瞬間、背後に石の転がる音がし、二人がそちらに視線をやるタイミングを見計らって、ヨナスに剣戟が降ってきた。
ガキッと大きな音を立てて、剣を大きく振り回したヨナスは、敵の剣をはじいた。
小柄なヨナスは、力で押し負ける相手には、はじくか受け流すしかない。
「へーっ。お前も結構やるね」
ヨナスは、一撃で、相手の実力を悟った。
「ハサン、俺、こいつ抑えとくので手一杯そうなんで、先に行って。後から追いかけるから」
「わかった。ご無事で。師匠」
「おー。姫様しっかり守れよ」
ハサンは、短く会話を交わすと、通路の別の道を駆け抜けた。
「あーあ、行っちゃった。薄情だよねえ。まあ、いっか。お前と戦うのも楽しそうだし」
「信頼されてると言ってほしいなー。ところで、さっきから、その「も」って、何かなー。だいぶ気になるねー」
「細目の大男。お前らの仲間だろ。あいつちょーつえーのなー。でも、お前、あいつほどじゃないな。俺でも勝てそう」
「腹の立つご意見どうも」
「俺さー、ここには、ほんとは未払金回収しに来ただけなんだよー。そしたら、あの将軍、お前らを捕まえれば、報酬上乗せだっていうから、来たわけ。ついでに稼いでこうかなーって」
「そんなにお仕事がんばらなくてもいいんじゃないかなー」
ここまでの会話は全て剣戟の合間になされている。
「あいつらは、生け捕りって言われたんだけど、お前、報酬に入ってないんだよね。だから、殺っちゃっていいてことだよね?」
◇◇◇◇◇◇
ハサンはバステトを連れ、後宮の隠し通路を事前にヨナスに叩き込まれた通りに抜け、無事にカナートへと入ることができた。隠し通路は回り道が多く、思ったより時間がかかっている。
カナートは、初代アブドゥル皇帝の時代に作られた地下水路だ。
雨の少ない皇都ハシュールに水を引くため、背後の山岳地帯を深く掘り抜き、雪解け水や地下水が地下の水路を通って皇都に流れこむようにしてある。
水は、地下水路を通りまず皇宮に流れ込み、そこから地上の水路へ出て街へと流される。
夏でも冷たい水は、皇都の夏を過ごしやすくするのにも一役買っていた。
山岳地帯と皇宮のカナートをつなぐ場所は、複雑に張り巡らされた水路によってわからないようになっていた。それは、カナートが、皇宮から皇都背後の山岳地帯への抜け道を兼ねていたからである。
石を掘りぬかれたカナートは、中心が水路、その左右が人が通れる通路となっている。バステトとハサンは、その通路を、山岳地帯目指して足早に通り抜けていった。
カナートの中は地下で、光は全く入ってこないため、自分たちの持つランプの灯りだけが頼りだ。
真っ暗な闇の中、ごうごうという水路の水音だけが大きく響き渡っている。足を踏み外さないよう、慎重に歩を進めるため、さほどスピードは出せない。
『ヨナス、大丈夫かな?』
『僕は全く心配してません。今頃敵を倒して追いついてくるかも』
『そうだな。実は、私もあんまり心配してない』
ハサンが明るく言うと、バステトもほっとしたような声で答える。
そんな昔に帰ったかのような穏やかなやり取りに、ハサンは、胸が熱くなるを感じた。
ここまでに、当初の計画から大分予定が狂ってしまっていた。
当初の計画では、ヨナスにジャマールの暗殺を頼み、その後ヨナスとバステトを逃がし、自分は皇宮に残り軍を操りクーデターを失敗させる予定だった。
しかし予期せぬ暗殺者が現れたことでヨナスの手が取られ、バステトを連れ出せるものがいなくなってしまった。その結果、ハサンも一緒に逃げ出すことになってしまったのだ。
きれいに終わらせるチャンスを逃してしまった。
無様に途中で作戦を放棄してしまった。
でも、これでよかったのかもしれない。
ハサンは、重荷を下ろせてほっとしている自分がいるのを感じ取っていた。
◇◇◇◇◇◇
途中、水路の上に橋がかかり、通路が広くなっているところに出た。
ここから左の方向が山中へと通じる道だ。こちらから王子たちはやってくるはずだ。
一息つくようにバステトを促し、座り込もうとしたとき、通路の影から、突然人影が現れた。
人影は、剣を振りかざし、袈裟懸けに振り下ろす。
ハサンは、咄嗟にバステトを突き飛ばすと、肩に焼けつくような痛みが走った。
ランプが床に転がり、油が燃え広がる。周囲が少し明るくなった。
『ジャマール!』
『残念だったな。ハサン。この抜け道は、後宮の女子供をちょっと脅したら教えてくれたよ。お前はもう終わりだ。裏切者め!』
おそらく皇子や皇女を人質に取ったのだろう。
ジャマールは、ランプの灯りに照らされて、憎々し気にこちらをにらみつけていた。頭の血のにじんだ包帯は、ハサンに殴られた跡だろう。あの怪我ですぐに現場に出てくる頑健さに舌を巻く。
カナートは、皇都中の水を賄うほどの水量を誇る。その源流でもあるここは、かなり水量が多い。うるさいくらいの激しい水音は、自分たちだけでなく、敵の足音も、声も消してしまっていた。
待ち伏せされていることに気づかなかった。
ジャマールの他に、影から何人もの兵が現れ、剣を構えている。
『ハサン!』
すがりつくようにバステトが駆け寄ってくる。
バステトだけは、逃がさなければ。
『姉さま、聞いて。そこの通路を左へ行った道、そちらからルーク王子たちが来ます。そちらへ行けば、必ず王子たちに会えますから、僕が合図したら走って』
ごうごうという水音で、こちらの声は、ジャマールには聞こえていないはずだ。
『姉さま、間違えないで。王子がこの国を守ろうとしてくれるのは、あなたがいればこそです。マレの民たちのために、あなたは、守られなければならない。』
そして、僕のためにも。
あなたが無事でないなら、僕がここまでしてきた事に何の意味もない。
僕はただ、あなたの幸せを守りたかっだけなのだから。
ああ、猫のようにくるくる回る表情がかわいいのに、そんなに顔を歪ませて。
切られていない方の手を、バステトの頭に伸ばした。
引き寄せる。
見開かれる翠緑の瞳が近い。
触れるだけの口づけ。
『姉さま、幸せになって』
そして、とん、と突き離した。
『走れ!行け!!バステト!』
バステトは、床に転がったランプを持ち、その声に押され、跳ねるように駆け出す。
ハサンは、胸から分銅のついた暗器を出す。ヨナスに教わったことは多岐にわたる。
力のない自分でも、敵を行動不能にする技。道具。
それは軍では決して見せなかった。ジャマールたちは、自分を戦う力のない貴族のお坊ちゃんだと認識しているに違いない。
バステトの向かう方向にいる兵たちの足に、それを投げる。暗器は、弧を描き、兵たちの足元に絡まり転倒させた。
――本当は、このままクーデターを成功させて、姉さまを手に入れる道もあるのかもしれない。
そう思ってしまったこともあった。
次に懐からダガーを取り出し、ジャマールに向かって投げつける。至近距離から3本。2本ははじかれたが1本はふくらはぎに刺さった。浅い。
『おのれ、おのれ、おのれ―!!』
ジャマールが怒りに顔を歪ませて切りかかってくる。転がりながら避けて、立ち上がる。
――でも、それでは、ダメなんだ。
それでは、あなたは、幸せにはなれない。
あなたの心は、あの日、あの銀狐に持っていかれてしまったのだから。
持っていた最後の武器である短剣でジャマールの剣を受けるが、支えきれなかった。剣がはじかれて飛ばされる。
皆があなたに、僕が軍に内通者として潜り込んでいると教えなかったのは、もし、これで僕が命を落とすことになったら、あなたが気に病むから。僕が、あなたに教えないでと頼んだから。死ぬのなら、あなたの敵として死んで、あなたの心を少しでも軽くしたかったから。
――姉さま。あの時、僕は決めてしまったのです。あなたを守るのは僕であるべきだと。あなたにかかわる全てを守るのは、僕であるべきだと。
――こんなやり方を選んだ僕を、赦してください。
胸に焼けるような熱さを感じ、ハサンの意識は闇に閉ざされた。
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