第30話 ハサンの回想~その果てに選びし道
1年と半年前。
アメルの祝祭。
バステトが暗殺者に狙われた翌日、ケイリッヒの王太子からハサン個人に対し呼び出しがかかった。
隣国の王太子の呼び出しということで、父がついてきたが、部屋の前で断られ、一人で相対することになった。
赤みがかった金髪に、澄んだ蒼い瞳の、大陸風の整った顔立ち。椅子に座っていても、すらりとした体躯と長身は、際立っていた。噂には聞いていたが、仮面の下の素顔がこんなに美しい男だとは思わなった。
『はじめまして。君がハサン?』
『ハサン=カマルといいます。銀狐の仮面の主殿』
にこやかで友好的な笑顔の雰囲気が変わり、面白そうに眼が細められる。
『ふーん。何のことかわからないな。ルーク=フォン=ケイリッヒだよ』
あの日の出来事は口外するなと暗ににおわせてくる。
『このあと、皇帝と会談がある。そこで、僕はバステト皇女との婚約を願い出る。君は、彼女と一番親しい親戚らしいから、先に伝えておきたくて呼んだんだ』
ぐっと手を握り締める。
違う! 姉さまは僕と結婚するんだ!
――正式な婚約など結ばれていなかった。
僕が幸せにするんだ。
――僕に姉さまを守る力はない。
姉さまは、ずっと一緒にいた僕を大切に思ってくれている。
――姉さまは銀狐に個人的に舞を捧げるほど、心を寄せている。
返せる言葉など、何もなかった。
自分には、この男に勝てるものなど、何もないのに。
ただ、にらみつける目だけは抑えることができなかった。
『ねえ、もう一つ、君に聞いておきたいことがあるんだ。君は、バステト皇女を大事に思っているの?』
王子は、まっすぐにこちらを見た。浅葱色の瞳が、気持ちの奥を見透かすように射貫く。
『はい、心の底から』
これだけは、と譲れない思いで見返す。
『じゃあ、彼女の幸せを祈れるよね』
はいという以外にどう返事をすればいい?
正論でやり場のない気持ちを封じ込められて。僕の気持ちはどこにぶつければいい?
『君達だけでは、皇女を守り切れなかった。彼女を守り切れる盾は、この国にはもうないだろう? 残念ながら君達は、僕を頼るしかないんだ』
傲慢で、尊大な物言い。
でも力に裏打ちされた揺るがない事実だった。
自分の情けなさに、知らず、涙が流れた。
『悔しいかい? 力なきことは、罪だ。悔しいなら力をつけろ。成長の糧にしろ』
不思議と、彼の表情に侮蔑の色はなかった。
『彼女は必ず守る。だから、これからは僕に任せてくれないか?』
最後に、ああ、彼は自分にこれを伝えたかったのだと思った。
その一言は、素直に心に落ちてきた。
あの夜、自分は、彼が恋に落ちる瞬間に立ち会ってしまったのだから。
ひょっとしたら、5歳年上の彼は、すでに自分よりも強い気持ちで姉さまを守る決意を固めているのかもしれない。
姉さまを守る力も、姉さまを思う気持ちすらも敵わないのかもしれなかった。
『姉さまを、頼みます』
涙が止まらない。絞りだすような声でそれを告げる。
何もかも負けて、ハサンはバステトを彼に託した。
王子は、ハサンをそこに残し立ち上がった。
でも、彼に負け続けて、それだけでは終われない。
悔しかった。追い越せないまでも、追いつきたかった。
『強く、なります』
王子の後ろ姿にそれだけを告げる。
涙で歪んでよく見えなかったが、彼が頷いたような気がした。
◇◇◇◇◇◇
暗殺事件は、その後も数回起こったが、バステトの守護者となった影の騎士が未然に防いだ。
ハサンは、影の騎士の一人、ヨナスと面識を持った。
『王子がさ、あんたは見込みがあるから、望むなら指導してやれって言うんだけど。どうします?』
ありがたい置き土産だ。望むところだ。このままでなんて終われない。
ケイリッヒの介入を軍部に悟らせないためにも、祝祭の日の出来事は全てなかったことにされた。
王子との婚約の件も公表されないし、バステトにももちろん伝えられなかった。
嘘をつくのが苦手なバステトがこの秘密を守れるとは思えない。
今までどおり、ハサンが婚約者の振りをしながら、バステトと過ごす。
その裏で、できるだけ早く、バステトを秘密裏に国外に出す準備が進められた。
正式な婚約はケイリッヒについてから結ばれることになる。
自分の弱さを受け入れたことで、ハサンは成長することができた。
ヨナスの手も借り、少しずつ、自信と力が備わってきていた。
出発の日、バステトの見送りは目立たぬよう、ごく少数で行われた。
その時には、全て姉さまのためだと、彼女の幸せのためだと、離れていく寂しさも自分の至らなさも、全て受け入れて納得することができていた。
だから。
『姉さま、帰ってきたら結婚しましょうね』
これは、ちょっとした意趣返し。
一つ、あの男が気づいていないことがあるのだ。
姉さまは、あの夜まぎれもなく、銀狐に惹かれていた。
でも、それはあの男が知らない事実。
これぐらいいいだろう。
せいぜい姉さまの心を手に入れるために、足掻けばいいのだ。
◇◇◇◇◇◇
そして、数か月前。
『ジャマールが、キーラン軍を招聘しているだと?』
その頃には、ヨナスの助けもあり、ハサンは独自の情報網を持つに至っていた。
当時、軍にクーデターの計画があることはつかんでいたが、戦力が足りず、実現には時間がかかるだろうと踏んでいたのだ。
ところが、ジャマールは、他国の軍隊を借りてまで、早期にことを運ぼうとしているとの情報が入った。
キーランの王太子ザイドは愚鈍な男だが、その周りの者たちは違う。国内にそんな国の軍を入れたら、マレの国土は踏み荒らされてしまう。油田の割譲どころではないレベルのものを奪われてしまうだろう。
そして、あの王太子はマレの舞姫に執着している。
キーランに、表舞台に乗り込まれるのは、何としてでも避けなければならなかった。
王子ルークがキーランの件に関し動いているのは知っている。
しかし、それでは間に合わなかった。
『ジャマール将軍へ、連絡を取れ。ハサン=カマルが、将軍と志を共にしたいと』
もしも、自分に力があれば、他に手があったのかもしれない。
でも、この手しか思いつかなかった。
『僕がクーデターに加わる。そして、失敗させる』
成功しても失敗しても、クーデターに参加したという事実は消えず、処罰は免れまい。
しかし、決めてしまったのだ。守ると。
ハサンは、自らが獅子身中の虫となることを決めた。
これが、ハサンの選んだ道だった。
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