第29話 囚われの皇女
この日、皇都ハシュールは陥落した。
歴史上、二度目の事となる。
将軍ジャマールは、軍の側近を従え、皇都の宮殿を玉座の間に向かっていた。
無血開城により、美しい皇都と皇宮が手つかずのまま手に入ったことは喜ばしいが、軍の士気はあの忌々しい皇女の舞によって、著しくくじかれてしまった。
ジャマールも、自分自身に覇気の衰えを感じ、それが余計不快感を募らせる。
あの舞姫を皆の前で床に這いつくばらせて、どちらか上かわからせてやりたい。そうは思うものの、皇家と神殿、民衆の支持をものにするには、あの皇女はなくてはならない駒だった。ハサンの代替として、これから旗印にするのだ。人前で粗雑に扱うわけにはいかない。
しかし、それは人前での話だ。
皇女を妃に迎えてしまえばあとはいかようにでもなる。マレの女は夫には絶対服従だ。
バステト皇女をジャマールが手に入れるための一番の弊害となるのは、ハサンかと思っていたが、ハサンは籠城戦失敗の責を負い、失脚したと言っていい。皇族派と神殿派もおとなしくなるだろう。
バステト皇女を妃に迎えようというジャマールに逆らうものは誰もいまい。
その尊厳をへし折り、這いつくばらせ、従順になるようにしつけてやる。それこそ、やり方はいくらでもある。
バステト皇女のしつけは、あとの楽しみに取っておくとして、それよりも今は、アブドゥル三世だ。
やつだけは、玉座の間で必ず這いつくばらせてやる。
若き日にこの自分を跪かせ、いつか追い落としてやると心に誓う原因となったあの男に、玉座を奪われ、人に見下される屈辱を味合わせてやる。
仄暗い喜びをかみしめながら、皇帝の玉座にジャマールが腰掛けるのを、妨げる者は誰もいなかった。
ジャマールの座る玉座の間より、一段低い場所の左右を幕僚が固める。
ハサンもその中の一人だった。
以前は、ジャマールの隣に立っていたのに、追い落とすことに成功した。これも気分がいい。
やがて、玉座の間の扉が開き、兵士に伴われたバステト皇女がこの場に入ってきた。
彼女は、ハサンに目を留めたようだ。長年の婚約者が敵となってこの場にいることに、ショックを受けたのだろう。
悦に入り、その場の状況を楽しんでいたジャマールだったが、ふと、眉を上げた。
皇帝の姿がない。
皇帝もこの場へ引き出せと部下には命じたはずだ。
『どういうことだ?』
『はっ。申し訳ありません。宮殿に皇帝の姿がみあたりません。現在、捜索中でして……』
『降伏勧告を反故にする気か!』
ジャマールの怒鳴り声に、知らせを持ってきた幕僚は、青い顔で震えた。
皇帝の身柄の引き渡しは当然のように降伏勧告に含まれている。
国を売って、わが身の保身を優先するとは、卑怯にもほどがある。そのやり口に怒りを禁じ得ない。
『恐れながら降伏の使者として申し上げます』
その場の雰囲気を破ったのはバステト皇女だった。その場で許しもなく口を開いたというのに、凛とした声音に、皆が耳を傾けてしまった。
『マレの元皇帝は、降伏勧告の内容には全て従っております。閣下に逆らう気は毛頭ごさいません。勧告文書には、皇帝の身柄の引き渡しに関する要求は一切ありませんでした』
ジャマールに睨まれ、降伏勧告に携わった幕僚が力なく、言葉をつなぐ。
『……勧告文書から皇帝の身柄に関する項目が削除されておりました。文書の作成文官が裏切ったようです。すでに姿を消しておりまして……』
これでは、皇帝側の非を問うことはできない。
怒りに我を忘れそうになるジャマールに、再び、涼やかな声が降る。
『閣下、お怒りはこのバステトがお受けいたします。この身をいかようにも』
皇女バステトは、ジャマールの前で、額づき、その長靴の先に口づけた。
先ほどの皇女の高潔な様を目にしていた幕僚や、その場の者達にざわめきが広がる。
ジャマールは、意図せず皇女を這いつくばらせることができた喜びに、先ほどまでの怒りを忘れ、落ち着きを取り戻した。
『ふん、まあいいだろう。お前は、このジャマールの正妃にしてやる。』
バステト皇女は、黙って礼をとった。
ジャマールは、頭の中で、今夜、この娘をどのようになぶろうかという、嗜虐的な妄想を思い浮かべた。
『閣下、皇女を妃とするのでしたら、近く、正式に婚礼を行う必要があるでしょう。それまでは、皇女のお立場を慮ってくださいませ』
ハサンが、察したかのようにそう告げる。
当然、この男は皇女に未練があるのだろう、それを理由にこのクーデターに参加したのだ。
しかし、そんなことを考えてやる義理はない。
『元、皇女だろう?』
表情を曇らせるハサンを残し、ジャマールはその場を後にした。
これだけ煽れば、ハサンは今夜行動を起こすだろう。
行動を起こしたハサンをつぶすことで彼を完全に追い落とし、バステト皇女をものにする。
そして、その権力を全て、ジャマールが手にするのだ。
ジャマールはたった今思いついた今夜の計画を周到なものにすべく、策を巡らせ始めた。
◇◇◇◇◇◇
ハシュールの門は開かれ、軍は続々と皇都へ侵入し、門は再び閉められた。
市内には、戒厳令が敷かれ、街中には人っ子一人いない。
ルルは、イーサーと一緒に、慣れ親しんでしまったこの拠点で、次の作戦のためにケイリッヒの諜報員たちの仕事を手伝っていた。女手は何かと重宝される。
これから、なんとルーク王子と一緒にキーランの王子様の軍が援軍としてやって来るらしいのだ。そして、その際に速やかに正門を開けるのが、拠点にいる諜報員たちの役目だ。
ヴァルターは、皇帝陛下を保護し、その後ルーク王子と合流するという。
ヨナスは、囚われたテトラの側でその行動を監視している。危なくなる前に連れて逃げると言っていたのだが、心配だ。
そして。ルルが気になるのはもう一人
――ハサン様。
哀しい目をしたあの人は、今、どうしてるのだろうか?
◇◇◇◇◇◇
「姫様!あれはやりすぎでしょう! 絶対、王子に殺される、俺ヤダ、もう」
バステトが閉じ込められた部屋に、いつの間にか現れた兵士に扮したヨナスは頭を抱える。
「あのぐらいやらないと、あの男は何をするかわからなかった」
「いや、他にもやりようがあったでしょう!」
「……」
「……決めました。もう、今すぐ逃げます。隠し通路と山への抜け道の話はしましたよね」
「まだだ! ハサンともう一度話したい!」
「はいはい、そうしたら逃げてくれますね」
バステトは、ヨナスが思いのほかすぐに頷いてくれたので面食らってしまった。
「いいのか?」
「もとからそのつもりでしたから。待っててください、連れて来ます。」
「ひょっとして、ヨナスは、ハサンと知り合いなのか?」
「その辺は、ハサン様から話してもらった方がいいでしょう……少し待っててくださいね」
ヨナスは、有無を言わせぬ表情でバステトの質問を打ち切ると、そのまま姿を消した。この部屋には隠し扉があるらしい。
ヨナスがハサンを連れてきてくれる。ヨナスとハサンとの関係は今一つわからないが、二人ともマレにいたので面識があるのかもしれない。
ハサンともう一度話せる。
説得すればハサンも一緒に逃げてくれるかもしれない。
あの日、別たれたと思ったハサンとの道は、再びつながるかもしれない。
バステトが明るい期待で胸を膨らませたその時、通路がにわかに騒がしくなる。
ガチャリ鍵が開いてジャマールと数人の兵士が現れた。
『元皇女バステト、気分はどうかな?』
『お気遣いなく』
バステトは緊張を悟られないよう、静かに返す。
ジャマールが頷くと、兵士たちは一礼し扉の外に姿を消す。
『さて、何のために私がここに来たかわかっているだろう?』
ジャマールは、バステトの側へ素早く近づくとその腕をとった。
『お前は餌だ。ハサンをあぶりだすためのな。奴が裏切らなければよし。裏切れば追い落とす。今、奴の動向を見張らせている』
裏切り? では、ハサンは味方なのか?
しかし、そんなことを考える間もなく、ジャマールは、そのまま有無を言わせずバステトをベッドへと押し倒した。
『!!』
暴れるが、軍人の男の力にはかなわない。
『可愛がってやろう。いかようにもとは、こういうことだろう? お前は、マレの女だ。夫には従順に尽くせ』
両手がひとまとめにされて頭の上で押さえつけられた。
服が破られる。
体をはい回る手に、全身がおぞけだつ。
バステトはその言葉が脅しだけではないことを悟った。
やだ。
ジャマールは、バステトに覆いかぶさる。喉にちりっという鋭い痛みが走った。
やだ。
こんなのやだ。
暴れる手足は押さえつけられて、抵抗すら許されない。
ルーク!
ルーク!!
その時、頭の中が真っ赤になって、どこからとも知れぬ声が響いてきた。
――相手を殺せ。
無理だ。バステトにはそんな力はない。
――殺せぬのなら、自分を殺せ。舌を噛み切れ。
おかしい、何かがおかしいとは思うが、思考が麻痺してうまく考えられない。
声が頭の中で、誰かが囁く。
――汚された誓約者には死を。
――死を。死を。死を。
バステトは、それが何か悟った。
これは、血の誓約だ。魂をかけた血の誓約。
死ぬまで破れないという誓約。
違う。誓約を破る者は死を賜るのだ。
全身に悪寒が走る。
バステトの頭の中で、一つの言葉だけが大きく響く。
――死ななければならない。
舌を噛み切らなければ――。
その時、ゴンと鈍い音がして、バステトの手足を抑えていた力が抜けた。
同時に、頭の中に響く声もすぐに鳴りやんだ。
『姉さま!!』
『ハサ……ン?』
真っ赤になった目の前に、視界が戻り、急速に現実が押し寄せてくる。
ジャマールが床に転がり、ごとり、と音がして、ハサンが殴打に使った置物を床に転がした。
『姉さま、大丈夫ですか!?』
震える肩をハサンが抱きしめた。安堵に体の力が抜ける。
『くっそ、ジャマールめ!!』
しかし、外がすぐに騒がしくなる。
『ハサン様が部屋にいない! ジャマール様にお知らせしろ!』
『姉さま、すぐに逃げます。歩けますか?』
『ん』
急がないと、この部屋が兵に踏み込まれてしまう。
ハサンは、バステトを連れて、隠し扉から隠し通路へと向かった。
暗い通路の中で、ハサンの持つランプの光だけが足元を照らす。
二人は、小走りに走った。
ひんやりとした通路は、ハサンにかけてもらったマントを羽織ってもまだ肌寒い。
そんな中、つないだお互いの手だけが熱い。
バステトは、初めて知った血の誓約の真実に動揺していたが、徐々に落ち着きを取り戻してきた。
今は、それを考える時ではない。ここから逃げ延びなければならない。
『あの時、みたいだな』
『あの時は、姉さまが守ってくれました。今度は、僕が守る番です』
『頼もしいな。ハサンは』
ぱたぱたと二人の足音だけが通路に響く。それ以外は、何の音もしない。
『ヨナスは?』
『暗殺者が現れたので、それを足止めしてます。姉さまを連れ出すため、僕だけが先に来ましたが、ジャマールに読まれていたようです』
『どうして、軍を手伝ってるの?』
『……言えません』
『じゃあ、なんで私を助けるの?』
『姉さまが大切だからです』
この間も、それだけは確認した。
『私も、ハサンが大切。うん。今は、それだけで十分だ』
この手の中のぬくもりだけを信じよう。
二人は、皇宮を脱出するべく、隠し通路の中を進む。隠し通路は後宮までつながっている。その奥には、カナートを経由した、皇都裏の山岳地帯へとつながる抜け道があるのだ。
ルーク達は、すぐそこまで来ていて、ヴァルターが迎えに行っている。
それまでの時間は十分稼いだ。
皇都にも民にも、犠牲者はほとんど出ていない。
ハサンも側にいる。
あとは、自分たちが安全な所まで逃げるだけ。
もう、これですべてうまくいくのだ。
バステトは、安堵に少し、気が緩んでいた。
だから、その場で起こったことにただ、呆然とすることしかできなかった。
「ハサン!!」
ジャマールに切られ、肩を抑えた血まみれのハサンが、その場にはうずくまっていた。
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