最初で最後のお別れを
ソレアの身体が完全に消えたのを機にしたように、世界がぶれた。
足元が歪み、圧迫されるような軋みが周囲から漏れる。
白い世界が崩れていく。
「これは……どういうことだ?」
問いかけたクロスは、答える声がないことに気づいた。隣を見るが、さっきまでいたはずの姿はない。
嫌な予想が命じるままにゆっくりと視線を下ろそうとし――
「見るな」
喉に絡むような囁きに、動きを止めた。
脳に直接響く声ではない。それは確かに、空気を震わす人の肉声だった。
ひどく懐かしい声だった。
少し前まで、確かに毎日聞いていた声だった。
「そのままで良い……聞いてくれ。……終わったよ、全て」
≪予言≫という名の世界を壊す獣。あるいは、その皮を被った空の神々は滅びた。
ならば、起こる事象は一つだけだ。繋ぐ楔を壊された≪予言≫はこの世界を離れ、還る。
剥離した欠片も共に。
「……」
ひどく生臭い匂いが鼻についた。吐き気を催すほどに濃厚な血の匂いが、あたりを包んでいる。
視覚化できるほどのその匂いが、目に見えぬ圧力となってクロスの身体を縛っていた。
怖い。見たくない。
世界との繋がりを断たれた≪予言≫を、その力を失った彼の姿を確認するのが。
硬直するクロスの視界を、するりと何かが横切った。
黒い紐にも似たそれは、文字だった。
「あ……」
空中を滑る文字は、まるで挨拶するようにクロスの周囲をぐるりと回る。目を瞠るクロスの前で、文字が弾けた。
――その《文字》は世界のすべてだった。
音、月、光、色、温度、匂い、床、壁、人、ひと、ヒト。
それは聖であり、生であり世でもあり静でもある――
かつてゼフィラトの廃屋で見た≪文字≫の群れは、白い世界を侵食して、更に崩壊を進めていく。
崩壊は、この仮初の白い世界だけではなかった。まるで見えない殻に
それは何も、物理的なものだけではない。
歴史が、記憶が、理由が≪文字≫によって書き換わっていく。
その≪文字≫が消していくのは、改ざんしていくのは、たった一人の――。
我に返ったクロスは、別れを告げるように己の周囲を踊りまわる≪文字≫に手を伸ばす。
掌をすり抜ける≪文字≫を追い、目がそれの生まれる元を辿った。
その、≪文字≫が生まれる先は。
「見ちまったか」
夜色の瞳が、クロスを見上げて苦笑した。
≪文字≫はアッシュの身体から生まれている。
糸がほどけるように人の身体が分解されていくのは、ひどく異様な光景だった。
傍に座り、クロスはそこだけは変わらない夜を宿す瞳を見下ろす。
「……行くのか」
出た声は、思っていたよりもずっと平静だった。
無言で頷く彼の顔についた血を、せめて拭ってやろうとクロスは手を伸ばす。その指先に水が落ちた。
雨なんて降っていないはずなのに。そもそも、天気なんて関係ないはずなのに。そう不思議に思っていると、また落ちてきた。妙に温かい水だった。
「……やっぱり」
弾けて流れる水滴に、アッシュが目をすがめた。
「やっぱり……あんたの、泣き顔は……苦手だなぁ」
言われて気が付いた。
ああ、これは自分の涙なのだと。
自覚すると、どうして気が付かなかったのかと思うほどに目が熱い。次から次へと頬を涙が伝っていく。その、奇妙に温かな感触にクロスは目をぐっと閉じた。
大きく息を吸い、吐き、目を開く。
「……誰が泣かしてると思っているんだ」
「俺、かなぁ……?」
困ったように笑う顔を両の掌で挟みこみ、クロスは眉を寄せた。最後の最期まで、この男は笑うのが下手だ。
「わかっているなら、文句を言うな」
アッシュが何か言おうと口をかすかに開くが、有無を言わさずクロスは己の唇で塞いだ。
最初で最後の口付けは、血の味がした。
顔を離すと、よほど意外だったのだろう。アッシュは驚いたように目を白黒させている。
「次は、私を笑わせてみろ。――期待はしていないがな」
「はは……手厳しいな」
「当たり前だ。お前、今までの己の行動を省みてみろ」
「返す言葉も……ねぇなぁ」
大きく息をつく青白い顔に手を添えたまま、クロスは問いかけた。
「――いつ帰って来る?」
さっき以上に驚いた顔をするアッシュを見据え、クロスはさらに問いを重ねる。
「私は、お前にまた会いたい。番人としてのお前じゃない。神の生まれ変わりとしての私じゃない。クロスマリア・レインベルとして、大罪人で嘘つきで不器用なアッシュ・ノーザンナイトに会いたいんだ」
アッシュは答えない。ただ、量を増やす文字の向こうで、瞬きすらせずに答えを待つ女を見つめ返す。すでにその身体は半分以上が文字となって消え失せており、胸のあたりまでしか残っていない。
「――待っている」
返事がないことに焦れ、クロスはさらに言葉を紡いだ。
「お前に会えるまで、いつまでも待ってやる」
「帰るよ」
クロスの言葉を遮り、アッシュが笑った。それは、ひどく幸せそうな笑みだった。
「あんたが、生きている間に……だから」
肩が、文字となって崩れた。
「次に会えたら、また」
――笑って
続けて消えていく喉から零れた言葉は、吐息となって消えた。
クロスの目に焼き付いたのは微笑んだ顔と、微かな約束。
そうして
この世界から
一人の大罪人がいなくなった。
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