母と北の大地の話
嫌な部屋だ。
入った途端に浮かんだ思いを、即座にリーンは打ち消す。
違う。嫌なのは部屋ではなく、中にいる人間の方だ。
楕円形に作られた白大理石の部屋は無駄に大きく、しかしその広さに反して装飾が極端に少ない。溺れてしまいそうな、狂気的な白。
中央におかれた黒光りする円卓だけが、ぽっかりと浮かび上がったかのような錯覚さえおぼえる。
ソレアにおいて白と青、そして太陽の黄金は特別神聖なものと言われているが、それにしてもこれでは圧迫感しか与えないのではないだろうか。
高い天井。1つの窓すら許されていない壁。
ここは、北大陸のサザンダイズ領館の1つだ。
(ここに来るのは3年ぶり、か)
心の中にこごる感情を隠そうともせず、リーンは細い面に冷笑を浮かべる。
3年前。
何も知らなかった愚かな12歳の自分もまた、ここに足を踏み入れた。
(母親は北大陸の出身だから、か――)
初めてアッシュと会った時に語った理由を思い出し、リーンは軽く目を閉じた。
『あなたは陛下の血を引いているのよ』
それが母親の数少ない口癖だった。
あの時は何を馬鹿な、と常々思っていた。
もし自分が本当に王族の血を引いているのなら、母は国王に愛されていたということになる。もちろん、ただ愛を囁くだけで子供は生まれないということも、リーンはとうの昔に知っていた。
ならなぜ、肉体的に愛されていた女性が、こんな貧しい土地で食うものにも困っているというのか。
擦り切れ、あかぎれの絶えることのなかった指先を覚えている。分け合ったパンの重みを覚えている。
彼女がその口癖を発動させるのは、決まって寒かったり飢えていたりと――まぁ、ありていに言ってしまえば辛い時が多かった。
カサカサに乾いた唇から紡がれるその言葉は、まるであらぬ空想に逃げているようで。
リーンは、彼女のその口癖がどうしても好きになれなかったのだ。
『なら、どうしてその父王様は母上を朝から晩まで働かした上に、息子に子守と靴磨きと荷運びなんてさせてるんでしょうね? その上、一切れのパンさえ手に入らない不自由な交易と貧しい大陸。それを放っておくという神経も、理解できませんけど』
皮肉屋なのは生まれつきだと思いたい。
彼女の口癖のせいで、彼女との生活で、そういう性分が身についたのだとは考えたくないくらいには、リーンは母を愛していた。
確かに彼女は美しかった。だが、いかんせん子供だったと言わざるをえないだろう。もしくは、精神的には脆い人だったと思う。
クロスマリアやミラ王女を見た後で彼女のことを思い出すと、ますますその想いは強くなる。
彼女はリーンが皮肉を言うと、いつも目に涙をいっぱいに溜めて、しまいにはシクシクと泣き出すのだ。
そうして2つ目の――リーンが最も忌み嫌った、あの口癖を必ずといって良いほど口にした。
『ごめんなさい。私が悪いの』
だから、あの人を悪く言うのは止めて、と。
思うに、彼女は母親である前に1人の女性だったのだろうと今なら理解できる。
何しろ、彼女ときたら死ぬ直前までその言葉を止めなかったのだから。まるで呪いのようだ。あるいは執念かもしれない。
あれを愛と呼ぶならば、愛とはなんとおぞましく痛ましいものか。
あの日。
本当なら、自分も死ぬはずだったのに。
目の前で母親を押し潰した≪蟲≫は、どういうわけかリーンの前でその牙をぴたりと止めたのだ。
神話に出てくる本物ではない。サザンダイズが≪予言≫の知識を使って、実験的に作った神話時代の擬似生体兵器だ。
人の手による、人のための生物。だからこそ、命令者たるサザンダイズ王家に連なる血に対する、何らかの抑止策が施されていても不思議ではない。
忌むべき血によって命が助かったのだから、皮肉としか言いようがない。もっとも、感謝する気は微塵も起きなかった。3年前も今も。
蹂躙され、破壊されつくした瓦礫の山の後ろから現れたのは白衣の男達――王国魔術兵団特殊魔術師団12隊、通称『12師団』だった。
『汚いガキだが念のため……』
無理矢理押し込められた馬車。冷たい北の大地に打ち捨てられた母に手を伸ばしても、流れる車窓はあまりにも無情に過ぎて行った。
そうして、わけもわからず連れてこられたのがこの部屋だ。
紛れもなくこの部屋で、王がいたずらに一夜を相手にした娼婦が母であることを、リーンは聞いたのだった。
(あーあ、おれも北大陸の出だって言えたら良かったのになぁ……)
自分の半身に流れているのは、愚かなほど純粋な母親の血であると同時に、忌まわしきかの王家の血でもある。認めたくはないが。
(まぁいい。おれはおれだ)
閉じていた瞼を開き、リーンは追憶を頭の隅へとしまい込む。回想していたのはほんの一瞬だ。恭しく扉を開く従者の横をすり抜け、ふてぶてしい笑みと共に部屋へと足を踏み入れる。
当初は十数人はいたはずのこの円卓会議も、回を重ねるごとに人数を減らしていった。
そして今となっては、従者すら立ち入りを禁じられる、極秘中の極秘のものへと変貌している。
「遅れて申し訳ありません、皆さま」
黒き円卓には、すでにリーン以外の全ての者が揃っていた。
サザンダイズ国王、キール・ヴィラル・サザンダイズ。
同国将軍、ザイン・オージェン。
イストムーン女王、ミラ・キエル・イストムーン。
同国将軍、ランヴァ・セルフィーズ。
ソレア教法王、シヴァ・ミッドエンド。
神も悪魔も裸足で逃げだす、人間同士の怖気がするような腹の探り合いが今、始まろうとしていた。
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