密談

「やっぱり、わかるんや」

 告げられた言葉の真意を理解し、アッシュは「多少は」と返した。

 周囲には誰の気配もない。自分と、その話相手である男以外は。

 どこでもない、いずれでもない空間であり、時間。現実世界で言うと、何万分の一秒という刹那の時。悠久であり、同時に泡沫でもある場所。

「あんたが今見てるのは過去であって現在いまであって、そして未来でもある。――気分はどうや?」

 男の言葉に、アッシュは頭を左右に振った。

「未来はあんた達みたいに『全部』じゃないさ。俺が見えているのは、あくまで可能性と分岐。未来さきになるにつれて見えにくくなるけど」

 無数に枝分かれを起こし、刻々と変化する世界の動き――1つとして確かなものなどないそれらは、今までとは違う感覚でもって常にアッシュに迫っていた。

「正直言うぞ。気が狂いそうだ」

 見たくないものなら、目を瞑ればいい。聞きたくないなら、耳を塞げばいい。


 ――だが、はどうする?


 人が運命と呼ぶそれらの感知を遮断するすべを、アッシュは持たない。

 いくら人の器を超える神の叡智を持とうとも、彼自身は一介の人間にすぎないのだ。

 膨大な世界の流れなど、マトモに正面からぶつかれば廃人になるしかない。

「けど、あんたはまだ正気や。大したもんやと思うよ――代行者のくせに」


 ≪予言≫に番目に近い場所にいた者。

 いにしえの神々すら騙し、執行の権限を持つに至った者。



 ――本来なら回るはずのなかった歯車。



「謝るわ。実際な、自分はあんたがここまでやるとは思ってへんかった。どんだけ綺麗ごと抜かしとっても、所詮は表層だけ。楽な方に流れてサザンダイズにとっ捕まるか、あの嬢ちゃんに全部押し付けるか――大口叩いても、結果なんてそう変わらんやろって。もしくは一番つまらん結末、≪予言≫に乗っ取られて世界に牙を剥くのが妥当なとこやと思ってた」

「――そのいずれもまだ残ってる可能性だ。今も」

 怖い。

 喉元まで出かかった言葉を、アッシュはすんでのところで飲み込んだ。

 男の言葉を信じるなら、自分は大丈夫。


「俺は、いつまで俺でいられる?」

「最期まで」


 この男には珍しく、短い断言が返ってきた。

「自分が保障したげる。あんたは、きっと最期まで中身はヒトのままや。――哀れなことに」

「あんたにしたら可哀想なのか」

「普通はな、いっそ早く楽になりたいって考えるんやけど。あんたは、よっぽど現在いまに強い想いがあるんやな。全然ぶれへんもん」


 ――そうかもしれない、と認めよう。


 自分は執着している。

 ずっと興味なんてなかった世界に。


 己の無力を嘆く幼い少年に。キラキラと輝く瞳の双子に。

『利用してやるから来い』と言った未来の王に。役目を果たせなかった影と、道に迷っていた少年に。

 己の神を裏切ってまで手を伸ばしてくれた青年に。名と己を認めた少女に。


 隣で笑う彼女に。


「好きだよ」

 この時になって、ようやくアッシュはそれを理解できた。

 口をへの字に曲げる男とは対照的に、彼は緩やかに口に弧をのせる。

「良かった。俺は――ちゃんとヒトになれてたんだな」

 当たり前のことを言うな、とこの場にクロスがいたら怒ったかもしれない。エルは呆れるかもしれない。

 フィリアは多分わかるだろう。彼女も同じだったから。

 男はゆっくりと口を開く。

「なれとったよ。多分、もうずっと前から――あんたが呪いを引き受けた時から」

「なら、俺にとっては哀れまれることは何もないな」

 心からの微笑に、男はますます苦い顔をする。

 そんな男の心情もわかっているはずなのに、青年はそれを否定するように笑っていた。

「でもさ、多分俺だけじゃない。俺をヒトだと信じてくれてる人がいる。――きっと、理由なんてそれだけで十分なんだよ」

「それやのに、また1人で行こうとするんやもんなー」

「いや、1人じゃないさ」

 見えない瞳で、アッシュはしっかりと男を見据えていた。

「それが今、わかったんだ」

 穏やかな声はそれでいて、強い意思を伴って男の頭に響いた。

 男にも『死』や『消滅』の概念はある。だからこそ、不思議でたまらなかった。

 どうしてここまで、絶望せずに前を向いていられるのか。

 無意識のうちに男の問いは飛び出していた。

「『変えられない未来』を知ったから。だから、あんなことを訊いたんやろ?」

「そうだよ」


 あんなこと。

『そこには俺も行かないといけないのか?』

 先程アッシュが発した奇妙な問いのことだ。


 この意味は、今はまだ男にしかわからないだろう。

 クロス達が理解するのはもっと先――おそらく、北大陸のことが耳に入ることになってからか。もしくは、北大陸へと足を踏み入れてからだ。


「あんたはさっき1人とちゃう言うたな? せやのにあんなこと訊くなんて、とんでもなく残酷な人や」

「わかってる。でもさ、嫌なんだよ。自己満足でも良いから後悔はしたくないんだ」


 1つでも良いから残したい。


 囁くような声の、切実な願い。

 富も名声も権力も。世界の命運さえ左右できる化物が願うにしてはあまりにも不釣り合いで。

 そこまで考えて、男は大きくため息を吐いた。自分が気にすることではない。

「あの儀式は、『真名を握る者が行いさえすれば良い』――それが全てや」

「それを聞いて安心した。なら、俺はどこにいても良いんだな」

 心底ホッとしたように笑うアッシュに男は投げやりに頷いた。

 その瞬間、ぐにゃりと場が歪む。

 この空間は、本来現世の者を呼び込むべきところではない。

 男の力を持ってしても、冥府に見つからず青年をこの場にとどめておくことは無理だった。


「――ほな、また。待ってるわ」

「ありがと」


 それを最後に場が崩れる。

 現実の世界に返ると、いつの間にか男は従者ともども忽然と消えていた。

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