儀式について

 男の左手が虚空をなでる。円を描くように動いた軌跡に沿って、空間が割れた。

 その割れた空間に映し出されたのは、この部屋とはまったく異なる場所の風景。

 まるで蜃気楼を見ているような奇妙な眺めが部屋の中で展開される。もっとも、蜃気楼といってしまうには映し出された光景はいやに鮮明だったが。

 そこに在ったのは、冷たい石の部屋だった。

 室内には、古代の建築士が怪物を迷わせ、閉じ込めるために作った迷路を彷彿とさせるような、複雑な溝がある。精緻せいち極まるその彫り込みは一種の狂気さえ感じさせ、まるで血管のようでもあった。


 そして、は部屋の壁や天井を問わず、あらゆる場所にびっしりと存在している。


 その異常な模様は、ほの暗く陰鬱な空間に、奇妙で歪な生ぬるさをも同時に孕ませていた。

「何だ? この気持ちの悪い場所は」

 身も蓋もない感想を漏らしたのはフィリアだ。だが、恐らくは彼女も答えの予測はできている。ゆえに、これはただの確認作業であろう。

 そして、その場の誰もが予測する名前が男の口から語られる。

「ルイーナ」

 ≪冥宮の遺跡≫の名を冠するそこは名前通り、まるであの世に通じてでもいるようだった。


 いや、実際に通じているのだろう。


 何しろの≪予言≫はここで発見されたのだから。


「真名を持ってるのは――そこのお嬢ちゃんやったよな」

 男はクロスの方に顔を向け、深紅の唇を歪めた。

「鍵を握ってるのは、あんたや。ここでとある儀式をすることによって、≪予言≫は現世から存在を抹消される。といっても、なーんも心配することはない。難しいことは何もあらへんからな」

「御託はいらん。私は何をすれば良い?」

 クロスは簡潔に先を促した。その態度に文句を言うでもなく、男はおとなしく先を続ける。

 確かに彼が語る『儀式』は何も難しいことはなかった。すなわち――。

「名を呼べばいい」

「は?」

「あんたは知ってるはずや。かの神々が残した、世界を消し去る化物の名を。大いなる災厄をあらわす、その忌むべき唯一にして絶対の式を解けば良い」

「……つまり、彼女がそこで真名を呼べば良いと。そういうことですか?」

 相変わらずの回りくどい表現に頭痛をこらえるようにこめかみを押さえながら確認したのはエルだ。ちなみにクロスはというと、冷めきった目で男を見据えている。

 その冷ややかな湖水の瞳は、言葉よりも雄弁に『普通に喋れ』と言っていた。もっとも、彼女の静かな怒りで男の態度が変わるはずもない。

 だらしない笑いを貼り付けたまま、彼はエルの確認に「そのとーり」と頷いた。

「まぁ、正確にはそう簡単やないんけど。ざっくり言うとそんな感じで儀式は完了。めでたしめでたしってことや。どや、単純やろ?」

 確かに、それだけ聞けば単純だと言えるだろう。問題は、そこまで何事もなく辿りつけるかだが。


「……なぁ、そこには俺も行かないといけないのか?」


 奇妙な問いを発したのはアッシュだ。

 その質問の意図を、クロスもエルも、限りなく近い思考を持つであろうフィリアでさえ理解できなかった。


 彼はそこを目指していたはずだ。なのに、どうして今更そんなことを訊くのだろう。


 だが、問われた男だけは真意を理解できたようだ。

 この男にしては珍しく、馬鹿みたいにポカンと口を開け――ついでゲラゲラと笑いだした。

 それは壊れた絡繰からくりのようにどこか無感動で虚無的で、聞く者に寒気さえ覚えさせる不気味ない声であり――つまるところ、笑いという行動から連想される明るさとは、きっぱりと隔絶した感情の発露だった。

 ひとしきり腹を抱えて笑い転げると、男はぬぅっとアッシュに向けて顔を突き出した。

 鉢巻で隠れた男の瞳には、すでにこの青年の崩れぶりが見て取れる。

 外見だけは人間の、ヒトの皮をかぶった異形に向けて彼は囁く。


 化物同士にしか聞こえない声で。ヒトは決して足を踏み入れてはならない領域に、彼をいざなう。


「――ええよ。ちょっと自分と2人で話そか」

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