壊れる世界

 つまり≪予言≫の解放が近いということらしい。

 告げられた言葉に、その場の全員が息をのんだ。集まっているのはクロスとエル、そしてフィリアだった。


「コレは解放を望んでいるんだよ。ずっと」

 そう、アッシュは言った。

 ことさら何かを強調するわけでもなく、まるで天気の話でもしているかのような話しぶり。

「あんたにはいつだったか、話したよな?」

 クロスの方に顔を向け、アッシュは軽く首をかしげた。だが、本来なら彼女と目があうはずの夜色の瞳は閉じられている。

 ――恐らく、もう開くことはないだろう。


 彼の最初の変化から、6日が経った。

 触覚の次は嗅覚だった。エルと甲板に出た彼が「潮の香りがしない」と言ったから。

 味覚はとうになくなっていたらしくて。単に彼は食事を必要としないから、わからなかっただけで。

 ではなぜそれが今になって発覚したかというと、フィリアが「試してみよう」と彼に紅茶を飲ませたからなのだが。

「やっぱり味がしない」と苦笑した彼はその後、咳き込んで喀血した。

 フィリアが毒を入れたとかではなく、この世界の物質を彼の身体が受けつけなくなったから。


 そこからはあっという間だった。


 次の日には視覚が消えて。

 聴覚を失ったのが4日前。

 それから今日まで何の説明もなかったのは、なんてことはない。唯一説明できる本人がずっと目を覚まさなかったからだ。


 幸いなことに、船の人間は事情を知っている。船長自らが荷物のように運んできた、見覚えのある黒髪の優男に瞠目した彼らに、クロス達は全てを話した。

 彼らは一様に驚いたが、船長の決定に異を唱える者はいなかった。それだけ彼らがバドを信頼しているということなのだろう。


 だが、問題はアッシュの方だ。

 船に乗った時からそうだったが、昏睡状態に陥る回数も、その時間も増えてきている気がする。

 そしてもう1つ。これを感じているのはきっとクロスだけだろうが、時折妙な違和感にとらわれるのだ。

 やけに魔霊子がざわついているとでも言えば良いのか。

 これがアッシュの言う≪予言≫の力が強まっているからなのだとしたら、真名を握っている彼女がその影響を受けてもおかしくはない。


 とにかく、彼はずっと意識を失っていた。もしかしたら、もう目を覚まさないのかもしれないという不吉な予感がよぎった矢先のことだ。

 やはり何の前触れもなくフラリと起きてきた彼は「多分もう大丈夫」と前置きした上で、こう言った。「だから話すよ」と。


 そうして言われたのが、冒頭のそれである。

「――何を、だ?」

 注意深く聞き返す彼女に、アッシュは1つ頷いた。

 声は聞こえていないのだが、彼曰く今は別の感覚で世界を認識しているらしい。


『一番近いのは文字、かな? まるで文章が頭の中に浮かび上がってくるみたいに、言葉が現れるんだ』

 もしかしたら、前より世界がハッキリ見えているかもしれないとも。

 それがひどく気持ちの悪い感覚だとも。

 そう、言っていた。


 そんなわけでクロスの問いを『聞いた』アッシュは答えた。

「≪予言≫は心臓を核として、俺の身体を喰いながら世界に現れるって。俺が完全に化け物に成り果てた時、世界を≪解放≫へと導き世界を混沌にかえすと」

 それは、この旅のそもそもの始まり。

 あの長い永い夜にアッシュから聞いたことだ。


「≪予言≫は解放を望んでいる。だから、始まりの場所へ還されると気づいて焦ってるんだ」

「ち、ちょっと待って下さい」

 こめかみに指をあて、腕を上げたのはエルだ。

「どうして世界を救うために発動されるべき≪予言≫が世界を滅ぼすんですか?」

「≪予言≫の核となる空の神々がこの世界を恨んでいるから?」

 肩をすくめてアッシュは疑問に疑問で返した。

「いや、違うな。≪予言≫が――そこに宿る神々の意思が永い間この世界で人の想いに、心に触れ続けたせいで歪んでしまったのかもしれない。俺たち人間が歪ませてしまったのかもしれない」

 20年前にこの世界に墜ちて。

 様々な人間に――その心に直接繋がれ続けたソレはいつしか狂ってしまったのかもしれない。≪予言≫が人を狂わせたように、人も≪予言≫を狂わせていたのだ。

 宿した人間を必ず殺し、気を狂わせたという魔の紅石。

 裏を返せば死の恐怖を、絶望を1番近くで最も吸収してきたのもまた、その石であるといえる。

「まぁ、この≪予言≫は元から『終わりの予言』が発動したら世界を滅ぼすようにされてはいたみたいだけどな。だからこそ、残った神々はわざわざ『聖痕』なんて面倒きわまりないシステムをつくったみたいだし」

 そう言ったアッシュにエルは唇を噛み、俯く。

 人の欲というのは、どこまで罪深いのか。

 サザンダイズの行った実験は神々をも狂わせ、運命すら歪めるというのだろうか。

 やるせなさに陰鬱と沈む彼とは対照的に、冷静に手を挙げたのはフィリアだ。

 沈着な彼女が問うのは、単純な確認。


「それで、お前は間に合うのか?」


 少女のもっともな質問にアッシュが答える前に、その声は響いた。

「それは自分が説明したろっかな」

 ヤケに軽い声。突如現れる気配。

 唐突に現れた声の主――冥府の男はその場の全員をぐるりと見回して口を歪める。

 その後ろには、やはり声も無く紅色の青年が佇んでいる。

 いつか聖都で見た2人組に唯一驚かなかったアッシュは小さく微笑んだ。

「来るんじゃないかと思ってたよ」

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